私の 額田(ぬかだの)大王(おおきみ)歌と歴史の探訪 
         

        有間(ありまの)皇子(みこ)

平成20年2月

 1日 大津皇子の父 先月は、大津皇子を巡る悲歌に取り上げた。その大津皇子の父は天武天皇、即ち大海人(おおあまの)皇子(おうじ)であった。その大海人皇子の恋愛の相手が額田大王である。この方は女帝・斉明天皇であり皇極天皇と重祚(じゅうそ )した方であるこの額田大王は、相当激しい気性の持ち主で大胆な女性のように思える。忘れることの出来ない多くの歌を残しているからである。
 2日 このリズム感! (にぎ)田津(たづ)船乗(ふなのり)せむと月待てば(しお)もかなひぬ今はこぎ出でな  万葉集 巻1-8

私は、若い時にこの歌で大王(おおきみ)をしかと記憶した。船出前の緊張と流動感ある気概を髣髴させ額田大王こと、皇極天皇こと重祚(じゅうそ )斉明天皇の7年、661年、百済の要請で新羅征伐のため女帝自ら難波を出帆、途中伊予の熟田津(不明、道後温泉ちかくの港)から船出の時のものである。万葉集には天皇の御製とある。 

 3日

十市(とおちの)皇女(ひめみこ)

これは額田大王と大海人皇子(天武天皇)の間の皇女である。天皇暦は、(じょ)(めい)天皇の次が皇后即位して皇極天皇(額田大王)、孝徳天皇、斉明天皇(皇極の重祚(じゅうそ ))、そして天智天皇(中大兄皇子)、弟の天武天皇(大海人皇子)と続く。
そして、この額田大王の恋敵が大海人皇子(天武天皇) の兄・中大兄皇子(天智天皇)なのである。こう見て来ると額田大王は大変な女傑で多感な男勝りの女性のようである。
 

 4日 大胆不敵の贈答歌 天皇、(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまひし時に 額田王の作る歌

あかねさす (むらさき)()行き (しめ)()行き ()(もり)は見ずや 君が袖振る  巻1-20

皇太子の答ふる御歌 明日香宮に天の下治めたまふ天皇、(おくりな)を天武天皇といふ

紫の にほへる(いも)を 憎くあらば 

人妻ゆえに 我恋ひめやも    1-21

 5日 日本書紀によると この歌は、紀に曰く、「天皇の七年(てい)()の夏五月五日、(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)す。時に大皇(ひつぎの)(みこ)諸王(おほきみたち)内臣(うちつまへつきみ)および群臣(まへつきみ)皆悉(ことごと)に従ふ」といふ。
この時、兄・天智天皇(中大兄皇子)は近江の(かま)生野(ふの)薬猟(くすりがり)に行かれた。男は鹿の生え変わった角を取り、女は薬草を取る年中行事だという。天智の弟、皇太子の大海人皇子も参加していたのである。
 6日 額田大王の来歴 額田大王は元、大海人皇子と結婚して十市皇女を産んだとは述べたが、今は、義兄でもある天智天皇の後宮の一人であった。
(かま)生野(ふの)薬猟(くすりがり)で、大海人皇子は、元の妻の額田大王に対して親愛の情を示し、紫草の生えた御料地の野である標野で、「か行きかく行き袖を振ったのに対して、大王は「野守は見ずや」と歌ったのである。
 7日 歌の背景 「野守は見ずや」は、たしなめた形のようだが、実は、元の夫君の姿に慕情止みがたく「あかねさす 紫野行き (しめ)()行き・・・」と絢爛(けんらん)として媚態的(びたいてき)恋情(れんじょう)吐露(とろ)したに違いない。

後の天武天皇となる、豪放にして率直な英雄的気概の大海人皇子は、紫の にほへる妹を・・・と答えられたのであろう。人間真情のやりとりであり、多くの人々の胸から離れぬものがあろう。

 8日 秋山吾は、
故地か
大王の父は鏡王、近江野洲町の東の円錐形の山、鏡山、海抜385米が故地であるといわれる。額田大王は近江大津宮で秀歌「秋山吾は」の作者でもある。
天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して春山の萬花の艶、秋山の千葉の(あや)(あらそ)はしめたまひし時、額田大王、歌()ちて(ことわ)れる歌

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ さかざりし 花もさけれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木葉(このは)を見ては もみちをば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし(うら)めし 秋山吾は

 9日 当時の結婚 額田大王と大海人皇子こと天武天皇の皇女・十市(といちの)皇女(ひめみこ)、従姉妹に当たる大友皇子(天智天皇の皇子)に嫁していて、672年の壬申の乱の大動乱を体験して近江との縁は深いものがある。
そして、額田大王は兄・中大兄皇子と弟・大海人皇子の二人と結婚している。また、大津皇子の時に話した通り、天武天皇は兄・天智天皇の娘姉妹を妃としている。近親結婚であり現代では考えられない。 
10日 (かま)生野(ふの) 遊猟(みかり)のあった(かま)生野(ふの)は大津京址から40キロ、湖東側近江八幡市八日市市の間の原野と言われる。もとは蒲生郡、東北に箕作山、北に老蘇(おいそ)の森を経て観音寺山を望むことができる。

老蘇(おいそ)の森の裏を通り東海道新幹線や旧中仙道が走り、名神高速は八日市の東から南西に向けて続いている。千古の昔にはこの青田の広野の中で遊猟(みかり)薬猟(くすりがり)が行われたのである。 

11日 (おいそ)石神社

奥石と書いて「おいそ」と読むのは老蘇(おいそ)の森鎮座しているからで中々立派な神社である。観音寺山(繖山(きぬがさやま)432.7m)の南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点にある老蘇(おいそ)の森の中。祭神は藤原氏の祖天津児(あまつこ)室根(やねの)(みこと)。創祀は不明。繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場。
日本武尊を危機から救うために、妃の(おと)(たちばな)(ひめの)(みこと)が身代わりに荒海に身を投じたが、懐妊していた妃は、自分は老蘇の森に留まり女人安産を守ると言い残した。この話から奥石神社は安産の神。老樹の茂る参道、本殿は三間社流造で重要文化財。境内の一隅には「夜半(やは)ならば老蘇の森の郭公(かっこう)今もなかまし忍び()のころ」という本居宣長の歌碑も立っている。

12日 船岡山 近江鉄道市辺駅のすぐ北方の船岡山頂上の自然巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板がはめこんである。歌は、「(あかね)さす紫野行き(しめ)()行き野守は見ずや君が袖ふる」(額田王)「(むら)(さき)のにほへる(いも)を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも」(大海人皇子)の相聞歌。額田王は大海人皇子(天武天皇)と愛し合ったが、のち彼の実の兄である天智天皇の寵愛を受けたのは上述の通り。
人目もはばからずに袖を振って見せる大海人を額田王が(とが)めたが、大海人が大胆にも人妻である額田王への激しい恋情を歌い返した。額田王はもと大海人の妃であったが、この頃には天智天皇の後宮に入っており、極めて複雑な事情があった。それを背景に描かれた相聞歌が万葉ロマンの読者の心を打ち、万葉愛好者を育てる契機となったともいわれる。船岡山山麓には、約100種類の万葉植物を植えた万葉植物園や当時の遊猟を偲ばせる巨大な万葉レリーフなどを整備している。
13日 恋多き皇女か 額田王、近江天皇を思ひて作れる歌一首 
君待登 吾恋居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹

君待つと わが恋ひおれば わが屋戸のすだれ動かし 秋風の吹く   巻4−48

14日 日本書紀によれば 額田王は日本書紀に、天武天皇の皇妃を述べた所に「娶鏡王女額田姫王、生十市皇女」とある。

それと万葉集の歌のみてで他に資料は無いという。ただ大海人皇子(天武天皇)の妃となり十市皇女を産んだのは確実。万葉により、大津皇子(中大兄皇子)と深い関係にあったことは確実だが他は不明と言う。

15日 簾と秋風の恋心 だから、大海人皇子から兄の中大兄皇子にどういう事情で移ったかは分からない。小説家は想像を逞しくするのである。
昨日の歌では近江天皇(天智)を慕って、簾を動かす秋の風にも敏感に心をときめかしたのは事実である。

有間(ありまの)皇子(みこ)

16日

有間(ありまの)皇子(みこ)

有馬皇子と云えば、すぐに磐代(いわしろ)の松を思いだすに違いない。有皇子は、孝徳天皇(難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや))と、左大臣・阿倍倉椅(あべくらいす)麻呂(まろ)(むすめ)小足媛(おたらしひめ)との間の子である。

645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)により蘇我入鹿(そがのいるか)(ちゅう)(さつ)され、大化の改新が始まり、帝位は、(こうぎょく)極天皇の弟、軽皇子(かるのみこ)に譲られ大化と年号も変わり帝都は難波に遷された。

17日 飛鳥への遷都 再び帝都は飛鳥へとなるが孝徳天皇は応じられないが一同は飛鳥へ引き上げた。それが原因で孝徳天皇は亡くなられた。
そこで中大兄皇子の母である皇極天皇に飛鳥板(あすかいた)蓋宮(ぶきのみや)で再び天皇になって頂く、重租(じゅうそ)の斉明天皇である。すべて中大兄皇子と鎌足の策略であった。
18日 間女(はしひとの)皇女(おうじょ)

中大兄皇子は、孝徳天皇の皇后であり且つ、自らの妹である間女皇女を奪って飛鳥へゆかれた。妹に恋をしていたのである。

孝徳天皇の衝撃は大きく崩御もこれによると思われる。 

19日 有間皇子と中大兄皇子の争い 斉明天皇の初め、大和・多武峰の山上に、双槻宮造営の大土木工事が始まる。板蓋宮の火災が川原宮にうつる。そして舒明天皇の飛鳥岡本宮へとうつる。すべて中大兄皇子への怨嗟によるものと思われた。
反中大兄皇子の空気は有間皇子を支持する豪族により黙っていても目立ってきた。有間皇子は発狂をよそわねばならなくなる。日本書紀では、これを陽狂と記している。有間抹殺の真因である。 
20日 赤兄の陰謀 有間皇子は斉明天皇三年、病気療養と称して牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行く、景勝よく病気もよくなったと中大兄皇子に報告された。斉明天皇は最愛の孫の(たけるの)皇子(みこ)が八歳で亡くなり落胆、中大兄皇子は、牟婁の湯を勧め一緒に湯治に行く。飛鳥の留守居は()(がの)(あか)()であった。

有間皇子が偶々飛鳥の赤兄を尋ねると時勢の話となる。赤兄が中大兄皇子の失政三つをあげた。「大いに倉を建てて民の財を積む」、「長く渠水を掘り公の財を損費す」、「船に石を乗せ積みて丘となす。」と。そして飛鳥で再び会合し作戦を練る。有馬19才、牟婁は袋の鼠と化すと真剣。だが、叛逆の現行犯として逮捕され牟婁の湯に護送され囚われの身となる。 

21日 浜松(はままつ)()
()に盛る(いい)

有間皇子、みずから(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代(いわしろ)の 浜松(はままつ)()を 引き結び (まさ)()くあらば また(かえ)り見む 巻2−141

家にあれば ()に盛る(いい)を 草枕旅にしあれば (しい)の葉に盛る 巻2−142

皇子の胸の内はいかばかりか。皇子が中大兄皇子から尋問を受けたのは11月9日だというからその日の歌であろう。思う壺に嵌った嘆きは強かったであろう。

22日 尋問 中大兄皇子の尋問に答えて「天と赤兄と知る、吾もはら知らず」といわれた。皇子の名言というべし。有間皇子は、ここで殺されると思ったら、「帰れ」と云われた。苦悩は更に続くのである。 
23日 追っ手 有間皇子は歩いて帰る途中、今の海南市藤白坂で、うしろからついて来た追手、丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)によって囲まれて、自ら(くび)れて亡くなられた。

牟婁から離れ、飛鳥にはまだ遠い旅の途中である。時は11月11日、皇子19才であった。

24日 後代の同情の歌 壬申の乱以降、天武・持統・文武の時代となると時勢は変化し有間皇子同情時代となった。

持統女帝のころ、長忌(ながのいみ)()()()麻呂(まろ)は「結び松を見て(かな)しび(むせ)ぶ歌二首」として

磐代(いわしろ)の 岸の松が枝 結びけむ

人は帰りて また見けむかも 巻2−143

磐代の 野中に立てる 結び松 (こころ)も解けず いにしへ思はゆ 巻2−144

25日 結び松を見る歌一首 この事件があって43年後、文武天皇の大宝元年、701年、天皇と祖母・持統太上天皇とが牟婁の湯に行啓した時の歌が人麻呂歌集にある。

後見むと 君が結べる 磐代の子松がうれを また見けむかも 巻2−146

26日 藤白坂の歌 行啓の時、供奉の一人は、思いを新たに歌を

藤白の み坂を越ゆと 白妙のわが衣手は 濡れにけるかも 巻9−1675 

27日 山上憶良(やまのうえのおくら) 山上憶良(やまのうえのおくら)も、この事件を思い、「追ひて和ふる歌」を残し魂魄(こんぱく)の浮遊を描いて深い同情を寄せている。

(つば)()()す あり通ひつつ 見らめども人こそ知らぬ 松は知るらむ 巻2−145

28日 悲劇の皇子(みこ)有間 日本の古代王朝における皇位の継承には、近代に確立されたような直系長〔男〕子相続のような明確なルールがあったわけではなく、兄弟間の継承や時には女帝の誕生といったことが頻繁に起きた。

皇位の継承は常に緊張を伴ったのであり、そこには様々なドラマがあった。それらのドラマを今日の目で読むと、シェークスピアの王権劇にも匹敵するほどである。

29日 推敲「悲劇の皇子たち」1 万葉の時代を彩った王権劇の中で最大のものは、いうまでもなく壬申の乱であるが、それ以外にも皇位継承がからんだ血なまぐさい事件は数多く起きている。

なかでも有間皇子と大津皇子にからむ事件は、その悲劇的な背景から人々の同情を誘ってきた。二人とも、有能であるがゆえに警戒され、罠を仕掛けられて死んだ。しかし死に臨んで、無念の思いを歌に残した。