驕れる・蘇我入鹿舒明天皇即位の裏舞台

推古天皇崩御後、蘇我蝦夷は田村皇子を是が非でも皇

位につかせる為、群臣に「推古天皇は病勢悪化の折、

田村皇子を召して「皇位は天神から治国を任されてい

る大任である。将来の国政について軽々しく言っては

ならない。慎み、(おこた)るな」と言われ、次に山背大兄

皇子を召して「そなたはまだ若くて未熟なのだから、

心に思うことがあっても、あれこれやかましく言って

はならない。必ず群臣の言に従い、慎み、それに違う

な」と言われたと天皇の遺詔を示し、「いま、だれを

天皇にすべきか」と問うたのでした。言うまでもなく、

こうした遺詔があったとすることで、田村皇子の皇位

継承を正当化し、それを群臣に認めさせようとしたの

です。

これに応じて大伴鯨らが田村皇子を天皇にすべしと

主張したため、流石にはじめ答えるのを躊躇っていた

許勢大麻呂らも山背大兄皇子を天皇にすべきことを

主張し、意見は真っ向から対立しました。ちなみに、

摩理勢はこれより前、既に蝦夷から皇位継承について

の打診を受け、その際、はっきりと山背大兄皇子以外

に天皇となられる方はいないと答えており、蝦夷と対

立姿勢を(あら)わにしていたのでした。

さらに、蝦夷の言うところの遺詔に対し、山背大兄皇

子は推古天皇から「そなたは自分の思う人である。寵

愛の情は比べるものもない。国家の大基は自分のもの

ではない。努力されよ。若いといえども慎みていう」

と遺詔されたと言い、自分は皇位を授けられたのだと

主張したのです。

蝦夷・入鹿は、こうして自分の田村皇子擁立への反対

をあからさまにしてきた山背大兄皇子派に対し、遂に

実力行使に出ました。山背大兄皇子を強硬に支持する

摩理勢に対し蝦夷は執拗に説得工作を続けましたが

もそれが受け入れられないとみるや、兵を差し向け絞

殺させたのです。

山背大兄皇子派は最大の支援者である摩理勢を失っ

たため、脆くも崩れ去り、翌舒明天皇の元年正月、蝦

夷は群臣を従え天皇の御璽(剣と鏡)を田村皇子に献

じて即位を実現したのでした。ここに田村皇子、即ち

舒明天皇が立たれたのです。

こうして、隠然たる勢力をもつ蝦夷・入鹿に対し、

山背大兄皇子派は抗するすべのないまま崩壊したの

ですが、未だ山背大兄皇子は健在であり、蘇我氏にと

っていずれ葬り去るべき標的となったのでした。

 

驕れる者の時代

舒明天皇の治世し十三年にも及びました。然し、その

間、天皇がなされたここと言えば、造営、造寺、国見、

旅行といったことだけで、政務は全て蝦夷・入鹿が意

のままに執ったのです。

さらに、舒明天皇は即位二年に同母兄の茅渟(ちぬのおお)(きみ)(むすめ)

(たからの)皇女(ひめみこ)を皇后に立てましたが、天皇が崩御された後、

蝦夷はまたも山背大兄皇子をさしおいて皇后を即位

させたのでした。この女帝が皇極天皇です。

皇極天皇は舒明天皇と同じく、敏達天皇の皇子・押坂

彦人大兄皇子の血筋ですが、押坂彦人大兄皇子の母は

息長真手王の女・広姫であり、ここに蘇我氏を外戚と

しない息長系の天皇が二代続いたことになります。

蝦夷が蘇我氏を外戚とする山背大兄皇子を立てず、あ

えて血縁関係のない息長系の天皇を立てたことは、天

皇氏的自覚のある山背大兄皇子を何としてでも排し

傀儡化しやすい天皇を立てることに腐心したからに

ほかなりません。

皇極天皇も舒明天皇以上に蘇我氏の傀儡天皇でした。

蝦夷は天皇を象徴的な存在にしてしまい、皇極天皇の

二年、自分が病気にかかると、勝手に子・入鹿に紫冠

(大臣の冠)を授け、自らが天皇であるかのように振舞

ったのです。そして、蝦夷に代わって大臣の権限を手

にした入鹿が恣にその権力を(ふる)ったのです。

 

註 息長氏

  古代の豪族。本拠は近江国坂田郡。「古事記」は、

  応神天皇の孫オオホト王の子孫とする。「古事記」の天皇家系譜には名前に「息長」を含む皇子・皇女がたびたびみられる。

 

蘇我入鹿の暴虐

蘇我入鹿はその性質が悪逆無道にして威勢は父・蝦夷

よりも大きかったため、人びとは非常な恐れ、盗賊さ

えも入鹿の苛酷な処置を恐れて道に落ちているもの

も拾わなくなったという伝説があるほどの人物です。

その入鹿にとって、名声ある聖徳太子の皇子・山背大

兄皇子に人々の信望が集まっているのは何としても

許しがたいことでした。もともと蝦夷・入鹿父子が舒

明天皇・皇極天皇を即位させたのは舒明天皇と馬子の

女・法提郎媛との間に生まれた皇子、即ち入鹿の従兄

弟に当たる古人大兄皇子の成長を待って天皇に立て、

さらなる天皇の傀儡化、蘇我独裁を考えていたからで

もありました。

蝦夷が大臣の間は、蘇我氏はまだそうした思惑のため

に実力行使に出ることはなかったたのですが、皇極朝

になって名実ともに権力の頂点に立った入鹿は、その

残忍な性格のままに山背大兄皇子の殺害に動いたの

です。

皇極天皇二年、643年、それまでに上宮家(聖徳太子

の一族)の部民を自分たちの墓で使役するなど、さん

ざんに嫌がらせをしてきた入鹿は、突如として斑鳩に

いた上宮家一族の殺害を命じて兵を差し向けます。こ

のとき、山背大兄皇子は一旦、生駒山中に逃れますが、

側近三輪(みわの)文屋(ふみやの)(きみ)が「東国のわが部民たちを以て挙兵す

れば必ず勝てます」と勧めたにもかかわらず、斑鳩に

戻ってしまわれたのです。

そして、入鹿の兵に囲まれた山背大兄皇子は「兵を起

こせば私は必ず入鹿を討つことができる。しかし、自

分一人の身のために民を苦しめるわけにはいかない。

この身は入鹿に差し出す」と言って一族もろとも果て

たのでした。

こうして聖徳太子の子孫は入鹿によって殲滅されま

した。

しかし、これを聞き知った蝦夷は、さすがに時局を読

むに敏だったのか、「ああ、入鹿よ、なんと愚かなこ

とをしたのだ。それではお前の命も危ういぞ」と怒り

罵ったといいます。言うまでもなく、蝦夷は入鹿の暴

挙によって蘇我氏の横暴に対する反発が一挙に噴出

すことを恐れたのです。

 

註 部

  大化改新以前の社会で、朝廷や豪族が個々に所有支配していた人民の集団、農民、漁民、特殊技術者たちからなり、集団ごとに豪族名、地名、職能名をつけて呼ばれた。

 

  生駒山

  奈良県と大阪府との境にある山。生駒山山地の主峰。海抜642米、草香山。