老荘を読む その二
平成21年2月
2月 1日 | 地位・財産 |
「甚だ愛すれば必ず大いに費え、多く蔵すれば必ず厚く亡う」。 (第四十四章) |
地位と生命とどちらが大切かとの質問の答えである。 |
2月 2日 | 止足の戒め |
「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず」。 |
控え目にしておれば、辱めを受けない。止まることを心得ておれば危険はない。 中国人の現実的生活の智慧であろうが人間社会の心理に合致している。 |
2月 3日 | 美田を残さず |
老子ではないが、漢時代に疎広という人あり。朝廷で皇太子の補導をしたが、一応の成果を見届けるや「足るを知れば辱められず」と引退し郷里に帰った。惜しげなく金品を散じた。友人は心配し「子孫のために少しは田地を買うように勧めた」。 |
疎広は「子孫に余分な財産を残すのは、怠惰を教えるようなもの。 賢にして財多ければその志を損ない、愚にして財多ければその過ちを益す。それでなくても富める者は人の怨みを買いやすい」と。 |
2月 4日 | 寡黙がちょうどいい |
「大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し」。 (第四十五章) |
技巧を磨き上げたその先は、自然そのままの姿。一見、稚拙のように見えるものこそ技巧の極致。同様に、真の雄弁というものは訥弁と変わりはない。 |
2月 5日 | 説得力 |
立て板に水のような能弁は以外と説得力に欠ける。なぜであろうか。第一に、べらべらまくし立てれば、人間が軽薄な印象を与えられ信用されない。 第二に、能弁過ぎれば、前後の矛盾が露呈しやすい。 |
第三は、 老子の「不言の教え、無為の益は天下能くこれに及ぶこと希なり」である。 |
2月 6日 | 不言の教え |
「不言の教え、無為の益は天下能くこれに及ぶこと希なり」。 (第四十三章) |
その人がおれば、黙っていても、自ずから感化が他に及ぶ。 これが不言の教えである。 |
2月 7日 | 清静 |
「清静にして以て天下正たるべし」。 (第四十五章) |
清静とは「無為自然」のことで老子の政治哲学である。 要するに@上からの指示命令をできるだけ少なくする。 A政策を積極的に展開しないで民間活力にまかす。一つの政治手法ではあるが現代は難しい。 |
2月 8日 | 孔子と老子 |
若い時、孔子は老子の評判を聞いて、教えを請いに行く。すると老子は言った。「良賈は深く蔵して虚しきが若く、君子は盛徳ありて容貌愚なるが若し」 |
という一句を引用し次のように戒めたと言う。 「そなたには、驕りとか欲とか、気取りや邪心、そんな要素が有りすぎる。それらは総て、そなたにとって有害なものだ。わしが言いたいのはそれだけだよ」と。 |
2月 9日 | 禍の元 |
「禍は足るを知らざるよりも大なるはなく、咎は得るを欲するよりも?なるはなし」。 (第四十六章) |
老子の処世哲学の要は「知足」、即ち足るを知ることである。更に、「この世の中で最大の災厄は、足るを知らぬ心に起因する。最大の罪悪は、利益を貪る心に起因している」と言い切ったのである。 |
2月10日 | 道の把握によりできる |
「聖人は行かずして知り、見ずして名かに、為さずして成る」。(第四十七章) |
道を体得した聖人は、外に出なくても物事を理解し、目で見なくても物事を識別できる。外に出なくても天下の動静を知ることができる。確かな判断ができるというのである。 |
2月11日 | 減らすことの効用 |
「学を為むる者は日に益し、道を聞く者は日に損ず。これを損してまた損し、以って無為に至る。無為なれば則ち為さざるなし」。 (第四十八章) |
学問を修める者は日ごとに知識を増やして行くが、道を修める者は日ごとに減らしていく。 減らして、減らしていったその果てに、無為の境地に到達する。そこまでに到れば、どんなことでも出来ないことはない。 「減らすことに成功した人ほど、人生の達人と言えるのかもしれない」。 |
2月12日 | 無心 |
「聖人は恒に無心、百姓の心を以って心となす」。 (第四十九章) |
道を体得した聖人というものは、いつも無心であり、民の心をそのまま我が心としているのだという。 「善であろうと不善であろうと、そのまま善として受け入れる。だからいつも善を体現している。信であろうと不信であろうと、そのまま信として受け入れる。だからいつも信を体現している」と老子はいう。 |
2月13日 | 赤ん坊の在り方こそ |
「含徳の厚きは、赤子に比す」。(第五十五章) |
老子の主張は、深い徳を秘めた人物は赤ん坊のようなものだという。それは赤ん坊が「@無心である。A柔軟である。B活力がある。C調和がとれている。D言葉を発しない。」。これらは「道」と合致しているからだという。 |
2月14日 | 理想的人物 |
「知る者は言わず、 言うものは知らず」。 (第五十六章) |
「道」を体得している人物は知識をひけらさないし言わない。なんでもいいある事に精通している人は一般に寡黙である。 そんな人には、親しんでいいのか、疎んじていいのか、利益を与えていいのか、損害かけていいのか、尊敬していいのか、軽蔑していいのか、とんと見当がつかない、こういう人物こそ最も理想的なのであろうか。 |
2月15日 | 文明批判 |
「天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し。民に利器多くして、邦家ますます昏し。人に智慧多くして、奇物ますます起こる。法物ますます章かにして、盗賊あること多し」。 (第五十七章) |
老子は自然の素朴さをよしとした。文明の批判である。 概 |
2月16日 | 締めつけが強いと・・ |
「その政閔閔たれば、その民は屯屯たり。その政察察たれば、その民は欠欠たり」。(第五十八章) |
閔閔とは慎重なこと。屯屯とは生活に満足していること。察察とは締め付けを厳しくすること。欠欠とは欲求不満の状態。「無為の政治なら人民は何の気兼ねなくのんびりと暮らせる。過酷な政治なら人民は裏をかいて狡猾に立ち回る」。 |
2月17日 | 塞翁が馬 |
「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり」。 (第五十八章) |
禍福は糾える縄の如し。の語源は老子らしい。人間万事塞翁が馬の思想である。禍を転じて福となすの精神が肝要。 |
2月18日 | 偏りがない |
「聖人は方にして割かず。廉にして刺さず。直にして紲びず。光りて輝かず」。 (第五十八章) |
聖人は方正であって而も人を裁断しない。 廉直であって人を批判しない。 真っ直ぐであって而も曲げて人に従う。明知であっても人に誇らない。偏りがないのだ。 |
2月19日 | 控え目 |
「人を治め天に事うるは、嗇に若くはなし」。 (第五十九章) |
嗇の字は農作物を収穫する、つまり都会生活の浪費、奢侈と対照的な農村の質朴な生活を意味した。そこから無駄を省く、控え目にする、出し惜しむと派生した。ここは「控え目」の意が適切。中国・元時代の名宰相・耶律楚材のモットーは「一利を興すは、一害を除くに如かず」であった。老子の理想の政治に近い。 |
2月20日 | 為政者の心得 |
「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」。 (第六十章) |
小鮮とは小魚。国家を治めるコツを小魚の煮方に例えている。民間活力にできるだけ任せるということ。老子の「無為の政治」を語った言葉であろう。 |
2月21日 | 円滑な人間関係 |
「怨みに報いるに徳を以ってす」。 (第六十三章) |
老子は怨みに報いるに徳―善行―でお返しするのが理想的なのだという。A氏に恨みがあるとする、その時、第三者にA氏の事を聞かれた、人情としてはA氏を非難したいが、ここで、逆張りに「ああ、A氏は立派な人ですよ」と褒めてやる。この対応が「徳」を以てすることらしい。 |
2月22日 | 大事は小事から |
「天下の難きは易きより作り、天下の大は細より作る」。(第六十三章) |
どのような困難も容易なことから生まれ、いかなる大事も些細なことから始まっている。大きな仕事を成し遂げるには些細なことの積み重ねが必要。一発勝負では成功しなすい。 |
2月23日 | 安請けあいは怪我の元 |
「軽諾は必ず信寡し」。 (第六十三章) |
安請け合いは不信の元である。信とはウソをつかない、約束したことは必ず守ることである。 |
2月24日 | 問題解決 |
「その安きは持し易く、そのいまだ兆さざるは謀り易し」。 (第六十四章) |
もつれた問題は解決がむつかしい。その解決には @問題の所在を兆しのある前に発見する深い洞察力。 A発見したら直ぐ対策を講じる機敏な対応能力。 |
2月25日 | 地道な努力を |
「合抱の木は毫末より生じ、九成の台は?土より起こり、百仭の高きは足下より始まる」。 (第六十四章) |
一抱えする程の木も、小さい苗木から成長する。 九階建ての大宮殿も土台固めから着手し、百仭の高さも足元の一歩から始まる。こつこつと積み上げて行く持続的な努力を大切にと語った言葉、 現今中国はニセとインチキの国、 老子先生「如何なるぞこれ」 徳永圀典 |
2月26日 | 初心 |
「終りを慎むこと始めの若くなれば、則ち敗事なし」。 (六十四章) |
戦国策という古典「百里を行く者は九十を半ばとす」という言葉がある。初心忘るべからずなのである。 |
2月27日 | やはり謙譲 | 江海の能く百谷の王たる所以は、その善くこれに下るを以ってなり。ここを以って能く百谷の王となる」。(第六十六章) |
大河や大海が河川の王者であるのは、低い所に位置して、諸々の流れを受け入れているからだというのだ。立派な為政者は、国民を統治するには、謙虚な態度で国民にへりくだり指導者ぶらないことが必要だというのである。 |
2月28日 | 破滅 |
「我、 恒に三宝あり、持してこれを宝とす。 一に曰く、「慈」。 二に曰く、「倹」。 三に曰く、「敢えて天下の先たらず」。 (第六十七章) |
三宝とは、 一つ「慈、つまり人をいつくしむこと」。二は「倹、物事を控え目にすること」三は「人々の先頭に立たないこと」。 老子は説明する、人々をいつくしむからこそ勇気が湧いてくる。 物事を控え目にするから行き詰まらない。 人々の先頭に立たぬからこそ指導者としてかつがれる。 慈しむことを忘れて勇気だけを誇示したり、控え目な態度を捨ててわれ先にしたり、退くことをしないで先頭に立つことだけ考えたらどうなるか、破滅あるのみだと。 |