岫雲斎の「老荘思想雑感」 その二

急に思い立って「老荘」に就いてまとめて感慨をまとめ始めた、書き流しである。果してどのようになるのか。

平成24年2月度

2月 1日

荘子の道
「天地に先立ちて生ずるもの有るも、それは物ならんや。物を物としてあらしむるものは、物に非ざるなり」。

訳。「天地開闢以前から道は実在していたが、この道は「物」即ち生滅変化する現象世界の万物とは次元を異にするものである。物を物として在らしめる根源的な理法、それが道であるが、道は物ではありえない」。

2月2日

或は、「道は終始無く、物に死生有り。・・・一虚一滴、その形に(とど)まらず。・・消息(しょうそく)盈虚(えいきょ)して、終れば則ち始め有り。・・動くとして変ぜざるなく、時として移らざるなし」。(秋水篇)

2月3日

訳。「道は始まりも終りもない無始から無終に至る果てしなき変化の流れであるが、その流れの中でも生滅する万物は有限の存在であり死しては生じ生じてはまた死んでゆく。ある時は虚ろ(うつ)となり、ある時は満ちるという盛衰を繰り返し一瞬たりとも古い形に止まることはない。陰が消えれば、陽が息ぶき、()ちては()ける生滅変化の果てしなき流れは、終ればまた始まり、無限の循環を繰り返す。万物の生々変化は一瞬一瞬の動きの中で不断に変移し、一刻一刻の時間とともに絶えず推移してゆく。というように刻々変化して止むことのない変化の流れそのものが道であると云う

老・壮の道の相違
2月4日

老子は、道を静的、荘子は動的と見ている。老子は、「その根に復帰す」とか「嬰児に復帰す」、「(ぼく)に復帰す」「古の道を執りて今の有るものを(おさ)む」の如く「太古の道に復帰する」ことを強調している。

2月5日

荘子は、「物に乗りて心を遊ばしむ」、「時に安んじて(したが)うに処る」、「(おく)らざるなく、迎えざるなし」のように「道とともに往き変化に乗って遊ぶ」ことを強調している。 老子と荘子のこの違いは、必然的に歴史観の相違となる。

2月6日

老子は、復帰すべきものとしての道を考えるから「後ろ向きの歴史観」となり、荘子は、その反対に「今こそを問題視して現在をどう生きるかと現実と対決する、前向きの歴史観」ということになる。

2月7日 「母と水」とは老荘の哲学、また道教では、根本原理の道のシンボルとしている。道には母のイメージが濃厚。水では、老子は「上善(じょうぜん)は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の(にく)む所に()る。故に道に(ちか)し」(第八章)とある。
2月8日

訳。最上の善は水のようなものだ。水は万物に恵みを与えるが争うことはせず、人々の嫌がる低湿の地を住みかとする。だから水の在り方は無為自然の道の在り方に近い。

2月9日

こんなのもある、「天下に水よりも柔弱なるは莫し。而して堅強を攻むる者、之に能く勝る莫きは、其の以て之を易うる無きを以てなり」(78)
訳。世の中に水ほど柔らかいものはない。固くて強いものを攻めるにはこれに勝るものはない。水の本性を変えるものは何もないからである。

2月10日

母と水の「柔らかさ」「たおやかさ」こそ処世の第一とする所以である。 老子に「曲なれば木は寿命を全うし、尺取虫は身を枉げてこそ伸びる」。ジグザグと紆余曲折な態度こそ「道」に適った在り方として尊重するのである。

2月11日

老子と左
「君子、居れば則ち左を貴ぶ」。教養ある人間は日常生活では、左を上位とする。老子とか道教では、右よりも左が優位である。日本でも左大臣は右大臣より上位である。

2月12日

女性と太陽
太陽を女性神とし、赤を女性の色とするのが「老子」の思想という。老子の「玄牝」の哲学による思想信仰らしい。日本も大きな影響を古代から受けている。

2月13日

中国古代の老荘、道教の思想を一言で表せば「道」と一つになると専門家はいう。これを漢字二字で表せば「自然」の生き方であり、四字ならば「無為自然」の在り方、五字ならば「無為自然の道」の教え即ち道教だという。

2月14日

岫雲斎の悟
つくづく思うのだが、欧米の思考原理は、唯一の正しさを希求する。対立しその原理に矛盾するものを排斥しようとするのが欧米原理である。それは一神教の原理と同一である。

2月15日

然し、対立し矛盾するものが同時に成り立っているのがこの現実の世界である。矛盾との調和の世界こそ大自然の原理にほかならないと思うのである。ということは、ここ500年の欧米支配による現在世界の支配原理は大自然の理法と異なっており、いずれは矛盾に突き当たり矛盾が露呈する、それが到来しつつあるのが現在の様相ではないか。

2月16日

「調和する世界」を求める事が人類共存の原理とならねば平和は到来しないのである。それは、老荘の「万物斉同」の哲学である。欧米原理の排除、差別、独存ではなく、受容、平等、共存の原理こそ21世紀の哲学ではないか。それは日本的存念、神道の哲学と一致するものがある。

2月17日

「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ」
老子の言葉である。順境であろうが、逆境にあろうが、あるがままの人生を楽しむ、という老荘の教えが、現代こそ示唆するものが大きく深いのではあるまいか。

2月18日

「柔よく剛を制す」、或は「蟷螂(とうろう)の斧」など身近な言葉に根付いている老荘思想。身を引いて、困難を避ける、或は隠退を勧めているのでもない。心は自由でありながら、巨視的な目で物事を捉える事を指摘しているのではないか。老荘には惹きつけられるものが漂っている。

2月19日

現代人は、総ての価値観が「損か得」のみに墜ちていることに早く気づかなくてはならぬ。戦後の日本式経営が成功して繁栄の基礎を築いた。独り一人の日本人は世界的に見て極めて優秀だから経済面でも世界の頂点を極めつつあった。世界の屋台骨をこの500年間運営してきた欧米人が、それを放置する筈は無かった。欧米人の成功の仕組みが日本人に敗北したから、別な仕組みを巧妙に狡賢く仕掛けるのは彼等はお手の物なのである。バブル崩壊後からそれは仕掛けられている。やがて、それが現実化してくるような気配がするし、私にはその直観がある。

2月20日

グローバリズムは失敗した。最後のアメリカの反転攻撃が、TPPによる日本最終攻略ではあるまいか。世界史的に「真の太平洋戦争」が開始されつつある。これに負けたら「日本」は壊滅してしまうだろう。

21日

ここらで、本来の「日本式経営」こそ国益に適うのだが、気力も胆力もない現代の政治家・経済人もその思想の背景の思想が乏しく、アメリカに押し込まれて日本は自壊してしまうような気配である。

22日

なぜ、そうなのが、私は、現代人が、余りにも、東洋学の古典思想が欠如しているからだと考えている。その上、国家観も、人物育成も、すべて研鑽が欠けているから、日本はどうにもならない様相を迎えるであろうとさえ洞察している。

23日 第一、現代政治家には「哲学」がない。金銭の損得だけが彼等の哲学なのではないか。チッポケナ連中ばかりの為政者である。経済人も、そうだと断定できそうである。
24日

世界中で問題が噴出している時こそ、普遍的な価値基準でリードしなくてはならぬが、その素養が完全に欠如している。

25日

常日頃から、国家とはなにか、正義とは何か、平和とは何か、とか國際政治経済の根源的な問題に関しての素養が欠けているから、世界を指導できる政治家や経済人が輩出しないのである。

26日

人類・人間の基礎科学に相当するのだが根本的な哲学を研究しなくては指導者たり得ない。日本人は本当にそれが欠如している。

27日

根本的な哲学とは、古典に他ならない。それは、経営書でもないし、経済書でもない、プラトンであったり、バイブルであったり、「人間はいかに生きるべきか」の普遍的な議論ができなくてはならぬのではないか。

28日 「きちんとした価値基準」みたいなものを持っていなくてはならぬ。
29日

古典は、「人生の原理原則」を教えてくれる。その素養に欠けた日本人が財界中枢にまで及んでいるのではないか。政治家の劣化は著しいが支配層である財界人の劣化、高級官僚の劣化も酷いようである。見識が欠けた指導者が増えている。だから、胆識など生まれようが無いのかもしれない。