真のエリート       

何とだらしない政局であろうか。

多くの政治家たちは、事毎に人を責めて一向に自分を省みることをしていない。

こんなことで、日本は一体全体どうなると思うのか。

識者もメデイアも、もう少し国家問題として奮起できないものであろうか。

大衆とは

人間には、自分というものなど考えても見ず、くだらぬ自分というものから脱け出て、「真我」を高めたいという衝動も感ぜず、従って、自分に多くの試練・問題を課すようなことをしないで、その日、その日の生活をとりとめもなく過してゆく事で満足する人々。

反対に

エリートとは、

あるがままの自分に満足せず、例え自分にそれだけの力が無くとも、それならば、尚更に自分を優れたものに鍛えあげようとして、自分自身に多くの要求を課し、敢えて自ら困難な問題に当たって義務を負おうとする人間である。

真のエリートは、いつの時代でも、その当時流行する一般の風潮や思想言論などに容易に同調せず、安価な解決案に賛成せず、慎重に、力強く、自ら信ずる道を進んで行く人間である。

このエリート不在の現今日本になってしまった。 

愚民そのものの日本に劣化した。それは大臣、国会議員、官僚に見る通りである。

かかる意味で、現在の日本のエリートらしいエリートと言えるのは、石原慎太郎であり、橋下大阪市長であろう。

彼らに期待すること絶大である。日本は、古代の律令国家体制そのままの官僚体制である。これを打破するに、この二人に起爆装置になって欲しい、今回こそ日本再生の為に成功して欲しいものである。 

既存の秩序内にしか行動しない議員は時代にそぐわないことを国民は銘記しなくてはならぬ。

これら真のエリートをいかに組織して、これにより、如何に過ち無く大衆を調整し、伝統国家的、民族的成功を遺棄することなく、国家の将来破滅を招かぬように、あらゆる手回しをして遂行するのが政治の根本使命である。 

政治家が、このような意義と使命を忘れ、職責を怠り、私利私欲に走り、時代の要請に応じえなくなり、且つ自己堕落すると国家の未来は無いに等しい。 

現代に最も必要なものは、現代に拘泥しないで、現代の運命を自ら打開する信念を持った勇気ある人々である。

日本は危ない。噴火山上の乱舞の如しである。

橋下大阪市長や石原慎太郎に期待する処は大である。

日本最後のチャンスである。

         平成2421

徳永日本学研究所 代表 徳永圀典