推古天皇、摂政聖徳太子の登場

平成28年2月

1日 天皇の大伴氏への接近

「日本書紀」は崇峻天皇と蘇我氏の対立がなにゆえに生じたのか、その理由は明らかにしていません。然し、崇峻天皇が天皇としての自覚をもたれればもたれるほど、蘇我氏の専横と天皇の傀儡化に憤慨されるのは当然のことです。

2日 崇峻天皇は馬子に不満

基本的に崇峻天皇は馬子に対して常々不満を感じておられ、それが種々の問題で意見の対立となって噴出し両者ともにお互いを押さえ込もうとして確執が深まっていたのだと思われます。

3日 天皇大伴氏への接近

崇峻天皇はいずれ蘇我氏の専横を排除しようと考えておられたようで、それは大伴氏への接近というかたちに現れています。

4日

崇峻天皇の元年、大伴(おおともの)糠手連(あらてむらじ)(むすめ)小手子(こてこ)が皇后に立てられ、この皇后と崇峻天皇の間には蜂子(はちこ)皇子(おうじ)(にしき)(ての)皇女(みこ)が生まれています。

5日 大伴氏の女が皇后 どのような経緯で大伴氏の女が皇后に立てられたのか詳らかではありませんが、少なくとも蘇我氏が望んでそうしたわけはなく、これは天皇の意思によるものと考えてよいでしょう。
6日 中央政界で最高権力の大伴氏 大伴氏は物部氏とならぶ武門の家柄で、東征など積極的な軍事行動をとった雄略天皇の時代、その親衛軍となって活躍し、大連となって中央政界で最高権力を掌中にしたのでした。
7日

ちなみに、大伴の「トモ」は伴造(とものみやつこ)(朝廷の職務を分担する豪族)のトモで、大伴氏が軍事をつかさどった伴造であったことを表し、「オオ」は兵士が多数であることを意味する多いの「オオ」とみるのが定説ですが、私はこれを王の「オオ」であるとみて、「王の伴」即ち親衛軍を指揮した豪族と解釈しています。

8日

大伴氏は雄略朝末から継体朝にかけて全盛期を迎えましたが、朝鮮経営における失政を問われ欽明朝に入って大伴金村の失脚によって中央政界から退いていたのでした。しかしその後、大伴氏に代わって物部氏が権勢を揮いましたが、その物部氏が蘇我氏によって一掃されたため、再び大伴氏台頭の機会が訪れていたのです。

9日

崇峻天皇は、蘇我氏の専横に対抗するため、兵馬の権を取り戻した大伴氏への接近を図ったとみられます。親衛軍を指揮する大伴氏との紐帯を強めて天皇の与党とすることで身辺の警護を安全かつ厳重にし警戒態勢を整えたのです。また常に蘇我氏の動向を睨んであらば蘇我氏を打倒しようと考えていたと思われます。

10日 崇峻天皇暗殺事件

朝鮮遠征軍派遣の陰謀

猪献上の際の崇峻天皇の発言の如く、天皇の蘇我氏への対立姿勢が鮮明になると、馬子は自らが擁立した崇峻天皇を諦め新しく傀儡天皇を立てるために天皇の暗殺を企みました。

11日

しかし崇峻天皇の方も親衛軍指揮官・大伴氏らとの関係を蜜にして身辺警護を厳重にしている上、蘇我氏の動きに常に注意を向けているのです。馬子と雖も、思い通りに事を運べない状況でした。

そこで馬子は、先ず朝鮮状況を利用して天皇身辺の無防衛化を図かりました。

12日

この頃、朝鮮に於いては、新羅が強大化しており既に欽明朝の562年、それまでかろうじて死守していた任那十国も新羅によって奪い取られていました。数世紀にわたる日本の朝鮮支配の根拠地・任那は、このとき名実ともに滅亡したのです。それ以来、任那再興は歴代天皇の関心事となり敏達天皇などは用明天皇にそのことを遺詔したのでした。その思いは崇峻天皇とて同じでしたので、崇峻天皇4年、591年、十一月、とうとう任那再興のために軍が編成され派遣されたのです。

13日

軍は、紀男(きのを)麻呂(まろの)宿(すく)()巨勢(こせの)(さるの)(おみ)大伴喫連(おおとものくいむらじ)葛城(かつらぎの)()奈良(ならの)(おみ)を大将軍としは、臣・連クラスの有力豪族たちを副将とする二万余の大部隊で、筑紫に駐留し、新羅へ遣わした使者の交渉結果を待って半島へ侵攻するという作戦でした。出兵は長期に及び、その間、大和の軍兵は手薄になり、天皇側近の武将たちも都を離れている状態になったのです。

14日

この状態は馬子にすれば、天皇に反蘇我氏の兵を挙げられる危険もなく、天皇暗殺を決行しやすいばかりか直ちに反撃を受けることもないのです。恐らく馬子は天皇の任那再興への思いを助長し、積極的に出兵策を推進したと思われます。

15ひ  暗殺の決行

翌、崇峻天皇の5年10月14日、「崇峻天皇紀」は例の猪献上にまつわる逸話を記載し、その後に続けて次ぎのように崇峻天皇の暗殺劇とその後の馬子の事件処理を淡々と記述しています。

16日 「十月三日、馬子は「今日、天皇に東国の調を奉る」と群臣たちを欺いた。そして、東漢(やまとのあやの)(あたいの)(こま)をして、天皇を殺害せしめた。天皇の亡骸はその日のうちに(くら)(はしの)(おか)陵に葬られた。五日、馬子は早馬を筑紫の将軍たちへ走らせ、「朝廷内に乱れがあったからと言って外征の件を怠つてはならない」と命じた。
17日

この月、十一月、東漢直駒は蘇我(みめ)河上娘(かわかみのいらつめ)(馬子の(むすめ)・崇峻天皇の后)を強奪して自分の妻としていたが、馬子はそのことを知らず、河上娘は死んだものと思っていた。東漢直駒は、河上娘を汚したことが露見し、大臣(馬子)によって殺された。

18日

即ち、馬子は東国から徴収した調物を奉ると言って在京の群臣を騙し、その儀式のために天皇の警備を解かせ、無防備になった天皇を東漢直駒に弑逆(しぎゃく)させたのです。東国は第五世紀以降天皇領の多いところなので、天皇・群臣ともに馬子の言にまんまと騙されたのでしょう。突然襲いかかられた天皇は、抵抗することもなく殺害されたものと思われます。

19日

東漢氏は応神朝に渡来した帰化系氏族で、第六世紀前半までは朝廷の実務に就いていたのですが、その後は蘇我氏に接近して政界に進出するようになっていました。従って東漢直駒のように地位ある有力氏族の長自らが、公式の場でいきなり天皇弑逆(しぎゃく)に及ぶとは思いもよらぬことで天皇は完全に油断があったのでしょう。

20日 馬子の暗殺隠蔽策 天皇暗殺に成功するや、馬子は直ちに事後処理にかかりました。
21日 天皇の亡骸はその日のうちに埋葬されたとありますが、天皇が崩ぜられた時は殯宮(もがりのみや)で長期に及ぶ儀式を行った後に埋葬されるのが慣例で、即日埋葬してしまうというのは異常なことです。
22日

これは明らかに天皇暗殺の証拠隠滅のためであり、真相を隠蔽するための工作です。

23日

また馬子は筑紫に遠ざけておいた将軍たちに朝廷内の混乱は心配せずに外征に専念するように伝えていますが、これは将軍たちが不安を抱いて大和へ引き返してくるのを防止したものです。馬子にすれば、こうして時間をかせいでいるうちに天皇暗殺を隠蔽し、さらに自分に都合のよう体制をスタートさせておこうと考えたに違いありません。

24日

さらに、馬子は天皇暗殺の隠蔽工作の仕上げとして、暗殺の実行行為者である東漢直駒を殺した理由として「日本書紀」は馬子の女・河上娘を東漢直駒が奪い、犯したからだとしていますが、それは一種のトリックに過ぎません。暗殺犯を殺すことで、天皇暗殺の真相、つまり馬子が暗殺の黒幕であることを隠蔽するために口を封じたのです。

25日

蘇我氏の天皇ロボット化への執着

「日本書紀」は別の本にある話として、天皇の寵愛が衰えたのを恨みに思った大伴小手子が馬子へ、天皇は馬子を殺そうと画策していると密告し、これを聞いた馬子が驚き、逆に天皇殺害に及んだのだとする見方を伝えていまが真相は分かりません。
26日

いずれにせよ、馬子が崇峻天皇の黒巻であることは確かなことです。そして暗殺後の状況を見れば、天皇暗殺の隠蔽工作の隠蔽工作は行われているものの、蘇我氏による天皇暗殺は半ば公然たるものであったと見られます。隠蔽工作は一応、体裁を整えるためになされたと見るべきものかも知れません。

27日 事ここに至り蘇我氏は自勢力に都合の悪い者は天皇であろうと殺害し、天皇を殺害しても権力者として君臨し続けられるまでに強大な存在になっていたのです。
28日 反抗する者は天皇であろうが抹殺する---そのことを事実を以て示したのです。逆に言えば、天脳の権威がそれほどに弱体化していたわけです。
29日 独裁体制

然し、蘇我氏はそれほどの実力を持ちながらも“天皇”そのものは抹殺せず、崇峻天皇暗殺後も一族出の皇子・皇女を立てて臨時政権をつくり、再び傀儡天皇による独裁体制を築いていこうとしたのでした。