昭和天皇のどこが偉大であったか その二

エドウィン・ホイトというアメリカの軍事史家、ジャーナリスト。週刊誌『Collier』の編集長、CBS・TV NEWSのライター、製作者を務めた。著書に「空母ガムビアベイ」がある。彼の著書の一つに「世界史の中の昭和天皇」がある。そして、昭和天皇のどこが偉大であったかと問いかけている。その著書「世界史の中の昭和天皇」の序文を引用して見よう。平成23年2月

2月 1日 天皇に対して虚偽報告

さらにサイパン陥落は東條と軍首脳部が天皇に対して虚偽報告を行ってきた、という明白な証拠でもあった。天皇は、首相経験者に通常与えられる重臣の座を東條には許さなかった。つまり、首相歴任者が招聘される重臣会議に東條は呼ばれなかった、東條は恥辱の中で首相の座を去って行ったのである。

2月 2日 陸軍の方針

東條は19447月に職を去ったが、日本の運命を左右する陸軍の方針は依然として変わることが無かった。814日のこの歴史的な会議に先立つ一週間前、なんと陸軍首脳は、勝利を目指し最後まで戦い続けることを改めて誓い合ったのだ。

2月 3日 奇妙なこと

それは連合国側の無条件降伏の要求が大きな障害となったわけである。彼らは、日・独・伊の枢軸同盟を無視し、日本と不自然な中立関係を保っていたモスクワを通じて終戦の為の秘密工作を行い、これに最後の望みを抱いたりしていたのである。奇妙なことである。

2月 4日 偽りの報告 天皇の憂慮は深まるばかりであった。特に大きな衝撃を与えたのは、1945310日、300機にのぼるB29の大編隊がサイパンより飛来し、東京を襲撃したことである。巨大な焼夷弾の投下により大火災を惹起した。続いて小型の焼夷弾を積んだ飛行機が農夫が小麦を撒くように民間人の住む市街地を爆撃した。一夜で数万の家屋破壊、推定84千人の殺戮が起きたのである。一夜明けた東京の様相は残酷極まりないものであった。
2月 5日

天皇はこの惨状を聞き直ちに現場に行くと主張された。そして壊滅した市街地を視察した後、見た目にも動揺して皇居に戻り以前にも増して、「日本はこのような残酷な攻撃に最早や耐えられない」と確信されたのである。

2月 6日

然し、陸軍首脳の判断が何事にも優先される当時、天皇の気持ちが現実の政策に反映されることは殆ど期待できなかった。日本の将来を心配する天皇に対して、彼ら陸軍首脳の回答はいつも「勝利の為に戦い続ける」であった。然し、天皇は既に勝利は不可能であることをよく承知されていた。

2月 7日 軍首脳は天皇の声を聞こうとしなかった

実は、19422月、日本は戦争を終える絶好のチャンスを迎えたことがある。この時期、天皇はシンガポール占領の報告を聞き参謀総長であった杉山元大将に対して、戦争を終結するよい機会だと指摘したのである。紛れもなく和平の絶好の機会であった。だが、軍首脳は天皇の声を聞こうとしなかった。天皇はそれ以上に強く訴えなかった。

2月 8日 謂れの無い非難

半世紀後、天皇に死の床にあった時、西欧の新聞は、天皇が望めば戦争を終結できた証拠であるとして、この事実に言及した。つまり天皇に戦争責任があるという根拠に使われたのだが、先述の通り、それは謂れの無い非難である。

2月 9日

保科少将は当時の状況を知悉していた。彼は当時海軍兵備局長、陸軍は終始、自己欺瞞を続けており、杉山大将にしてもシナ事変以来、天皇に対して偽りの情報を流し続けていたのだ。シナ事変は数ヶ月で終るだろうと天皇に報告していたのである。

2月10日

こういう希望的観測と現実を混同した欺瞞は、インドシナ侵攻に於いても同様であつた。この作戦にアメリカは強硬な手段を取らないはずであり、南方への転進開始により日本の抱える諸問題は一年以内に解決されるはずてあると主張し続けていたのである。

2月11日 東條

東條首相もまた自己欺瞞の塊であった。石油不足を巡り深刻な議論が行われた時、或は爆撃された精錬設備をどう修復するのかと言う疑問を海軍が提示した時、東條は「自力でやれる」と断言した。

2月12日 軍部首脳は依然として強硬な態度

1942年頃、日本軍とドイツ軍は至る所で勝利を手にした為に東條は国民と天皇に対して枢軸国側が早期に勝利を得るであろうと断言しその呪縛から抜け出せなかったのだ。状況は一変し日本の敗色は誰の目にも明らかとなった。だが軍部首脳は依然として強硬な態度を採り続けた。

2月13日

194568日の御前会議に於いても出席者である主要閣僚や軍部首脳は「最後まで戦う」という決定を下したのである。

2月14日

だが、これは天皇が望んでいた答えではなかった。そこで天皇は623日に最高戦争指導者会議の構成目メンバーである首相・外相・陸相・海相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の六人を呼び出し、自らの考えを告げたのである。

2月15日

この席で、天皇は「最後の一兵まで戦い抜くという決意は充分に聞いてきた」と話し始めた。そして、「戦争終結についも、従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的方策を考究して実現に努めて貰いたい。各員に意見があれば聞いておきたい」と続けた。

2月16日 戦争政策に対する天皇としての最も激しい非難の意思表示

これは参集者にとって衝撃であった。天皇が六人もの人間に対して、政府の行動に表だつて疑問を表明したからである。それは過去に無かったことであった。戦争政策に対する天皇としての最も激しい非難の意思表示である。軍部は気づいていなかったが、実は天皇は彼らの発言に就いて調査してきたのである。

2月17日

天皇自身は皇居に足留めされて現場の情報は何一つ与えられなかったかもしれない。だが、天皇の近親者はそうてではなかった。軍部首脳は国民全てが最後まで戦い抜こうとしていると天皇に報告してきたが、さる皇族から「横浜に行った時、婦人や子供たちが竹竿を持って行進しているのを見た」と聞き、これらの婦人や子供たちが海岸線で米軍の戦車と機関銃に対し小銃と手榴弾、更には竹竿で戦わされるであろうと言うことを天皇は察知していた。また兵器の生産が間に合わず武器が行き渡っていないとの報告も聞いていた。

2月18日 紛糾する御前会議 726日、連合側からポツダム宣言が発表された。内容は13項目、保障占領、日本軍の撤退と解体、戦争犯罪人の処罰、民主政治の確立などであり、最終的に、日本の無条件降伏を要求するものであった。
2月19日

出席者は、鈴木首相、米内海軍大臣、阿南陸軍大臣、東郷外務大臣、平沼枢密院議長、梅津参謀総長、豊田軍令総長、内閣書記官長、陸海軍軍務局長、総合計画長官、侍従武官長。

2月20日

連合国によるポツダム宣言が読み上げられた。鈴木首相が次ぎを読み上げた、「726日りポツダム宣言に対し、天皇の国家統治の大権に変更を加える要求を条件とし、この条件の了解のもとに、日本政府はこれを受託する」。

2月21日

最高戦争指導会議の6人は、この原案に同意したが、この6人のうち阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令総長の三人は更に他の付帯条件を加えることを提案した。

2月22日

それは
1.   日本皇室の存続を確認すること。
2.   軍隊の武装解除と戦犯処罰は我々自身の指揮によって行われること。
3.   連合軍による占領を中止すること。

鈴木首相はこの付帯条件について諾否を求めた。

2月23日

この付帯条件は意見対立のまま閣議に付議されたが、閣議ら於いても意見は一致しなかった。

2月24日

東郷外務大臣は「この事態に於いて、受託は止むを得ない。ただ絶対、受託できないものを選ぶ必要がある。戦争犯罪人は受託困難な問題だが、これは戦争を継続してまだ達成しなければならない絶対条件ではない。ただし、皇室は絶対問題である」と説明した。

2月25日

米内海軍大臣は同意した。だが阿南陸軍大臣は続いて発言し、首相の見方に対して、断固、自分は反対であると述べた。

2月26日

阿南は、日本軍の解体などポツダム宣言の他の条項にも異論を唱えた。戦争を継続しアメリカ軍に対し本土結戦を挑むべきだと主張した。

2月27日

梅津参謀総長も阿南陸軍大臣に同意した。残る道は本土決戦しかない。それ以外の道は戦死者の名誉を汚す行為だとしたのである。

2月28日 真っ二つに割れた

御前会議は真っ二つに割れた。日本国民全員を死への戦いに送り込むという陸軍と海軍の強固なラインと、首相と外相に率いられたポツダム宣言受託支持派とにである。