高松塚古墳と古墳文化の終焉古墳文化の終焉

平成27年2月

1日 法の網を潜り抜ける末期古墳 律令制が守られている限り、古墳は「墓制令」の範囲内で造らなければなりません。そして、その規定に従えば自ら墳墓の大きさが縮小し、数も減少するはずで、事実、大化以後になると墳墓が縮小化し、数も減少していったわけです。従って、「墓制令」はやはり氏姓制度の社会から律令制の社会へという社会変革に伴った埋葬形式の変革を意味する制度であったと位置づけられます。
2日 人間の欲望 然し、制度上では古墳造営は縮小されますが、法令が発布されたからといって即座に人間の欲望を全て抑えることはできません。限られた数の人間しか造れず、また墳墓の大きさも規定されて小さくなりますが、それで満足しない力ある者は規定以外の方向で何とか立派な墳墓を造ろうという気持ちになったはずです。
3日 規定外の高松塚古墳 そこで規定外の高松塚古墳のように、壁面に絵画を描いたりすることで、規模の縮小化を補おうとするかのような傾向が末期の古墳にみられます。
4日 土地・人民の私有禁止 末期古墳が内部の装飾などで立派な古墳を目指したことこれは墓制令の基本理念である土地・人民の私有禁止という律令体制の浸透の一つの現われではないかと私には思えるのです。
高松塚古墳と古墳文化の終焉 古墳文化の終焉
5日 石舞台古墳 第七世紀の大古墳といえば、奈良県明日香村に有名な石舞台古墳があります。これは巨石墳の代表のように言われる古墳ですが、巨石墳というのは一般に巨大な自然石からなる横穴式石室に対して用いられる呼称です。
6日 横穴式石室 石舞台古墳は一辺が約50米の方墳、一説では上円下方墳とも言われ、方墳としてはかなりに大きな部類に属します。しかも、巨石古墳の名の通り横穴式石室は19米に及び、一個70トンを超える巨石が積み上げられているのです。
7日 蘇我氏の権勢 被葬者は蘇我馬子と言われ、同時代の聖徳太子の円墳が直径50米ですから、いかにも当時の蘇我氏の権勢を表した古墳と言えます。
8日 巨石墳 石舞台古墳は第七世紀前半の構築とみられ、こうした巨石墳は外にも岩屋古墳などが存在しますが、そうした巨石墳も第七世紀後半には畿内には見られなくなります。
9日 小規模古墳化

大型古墳は既に第六世紀から減少していましたが第七世紀も大化改新以後となると古墳自体の数もまばらな上大型古墳は既に第六世紀から減少していましたが第七世紀も大化改新以後となると古墳自体の数もまばらな上、小規模の古墳しかみられなくなります。例えば、高松塚古墳は第七世紀後半から第八世紀初頭に構築されて円墳とみられますが、大きさは直径約18米、高さが約5米に過ぎず、この時期にはもはやかっての100米を超えるような大型古墳は過去の遺物と言えます。
10日 横穴式石室が消滅 また第七世紀後半には横穴式石室が消滅しそれよりも工事の手間がかからない羨道(せんどう)(玄室(げんしつ)へ遺骸をおさめる為の石道・横穴式石室の一部)を省いて棺を入れるだけの横口式石槨(せつかく)がみられます。高松塚古墳もこの横口式石槨を採用しています。
11日 群集墳終わる さらに、第六世紀に爆発的な勢いで全国に広まった群集墳は第七世紀前半にその勢いを減速し、後半には新しい古墳が群集墳に加わることはなくなります。既存の古墳への追葬もなくなり。群集墳粋は文字通り死の領域として誰も振り向かなくなくなったのです。
12日 第八世紀に古墳文化は終焉 こうして畿内では第七世紀末-第八世紀初頭の高松塚古墳や文武天皇陵あたりを最後に古墳は消滅したと言ってよい状態になります。関東では第八世紀になってもまだ横穴式石室を持った立派な古墳も造られていますが、それも殆ど消滅寸前と言える状態です。東北地方には、この後も群集墳の風習がみられるようですが、一応、第八世紀に古墳文化は終焉を迎えたと言ってよいでしょう。
13日

石舞台古墳
奈良県武市郡明日香村にある古墳。から堀をめぐらした方墳であつたが、早く封土を失い、巨石で築かれた横穴式石室が露出。 
蘇我馬子
?626(推古34)古代の中央豪族。稲目の子。父についで大臣(おおおみ)となる。
14日 高松塚古墳 奈良県武市郡明日香村平田にある七世紀末--八世紀初頭の彩色壁画古墳。天武・持統天皇合葬陵の南方にあり、墳丘徑18米、高さ5米の版築円墳。内部構造は凝灰岩切石を組み合わせた横口式石槨。石槨内全面に漆喰が塗られ、北壁(奥壁)に玄武、東壁に青龍と日輪、西壁に白虎と月輪、天井に星宿、東西両側壁に男女各四人が一組ずつ描かれる。人骨、海獣葡萄鏡、刀装金具、玉類、漆塗木棺が出土。
15日 高松塚古墳の被葬者の謎 いわば古墳文化の掉尾(ちょうび)を飾る高松塚古墳、周知のようにこの古墳は昭和47年の発掘調査によって見事な壁画が発見されたことから一時期さまざまに話題を提供しました。高松塚古墳は江戸時代は文武天皇陵とみなされていましたが明治に入って文武天皇陵が別に比定されると、以後完全に忘れ去られ、国有地であった為か辛うじて開墾を免れているに過ぎない状態でした。
16日 見棄てられた古墳 その見棄てられた古墳から余りに立派な壁画や貴重な遺物が発掘されたため、その意外な発見が第七世紀頃の古代史の謎を解く鍵になるのではないかとが寄せられたのでした。
17日 話題の中心は 話題の中心はその立派な遺物や壁画からして被葬者は古代史上に名を残している人物ではないかということでした。然し、この点に関しては未だ皇族ないし上級貴族であったろうという発見当時の所見から進展をみない状況です。
埋葬に就いての意識変化
18日 終末期古墳にみる文化の多様性 そのように被葬者という点では謎に包まれたままですが、この古墳が持つ資料的な意味は貴重なものと言われます。それは考古学や古代史は勿論、天文学史、美術史など当時の学問・文化を詳しく知るために豊富な情報を提供しているのです。
19日 想や学問・風俗 壁画には()神図(しんず)星宿図(せいしゅくず)・人物図が描かれ、当時の思想や学問・風俗を反映したものと言われています。四神図は玄武・青龍・朱雀(すじゃく)(びゃっ)()の動物絵を北東南西に配した図で、中国漢代の墳墓に描かれ、当時は高句麗や百済の墳墓にも描かれていたものです。
20日 (はた) また四神を題材にした(はた)や持ち物は、第八世紀初頭の朝賀儀式などに使用されたことが文献上も確認されています。さらに、人物図などにも高句麗や中国の影響は強く、女性図などは中国陜西省の永泰公主墓の壁画と構図や持ち物などに類似点が多いと言われています。
21日 海獣葡萄鏡 ちなみに、遺物の中の海獣(かいじゅう)葡萄(ぶどう)(きょう)と言われる鏡は、中国の隋・唐時代のもので、全く同形のものが中国陜西省で出土していることが知られています。
22日 日本独自の文化も 然し、そのように朝鮮の文化の影響は強く見られますが、そこには大陸文化にない日本独自の文化もみてとれます。いわば、中国や朝鮮の文化の要素を混ぜ合わせながら日本的なものを表現しているとでも言えそうです。
23日 日本は
既に洗練された独自の文化体系
壁画や文化面はこれ以上深入りしませんが、こうしたことから、高松塚古墳が構築された頃の日本は、既に洗練された独自の文化体系を築き始めていたと言えるかもしれません。そして、漆喰の上に金箔銀箔を貼り、極彩色で描かれた高松塚古墳の華麗な壁画は、そうした文化的活動にかなりのエネルギーを費やすことを可能にした政治的な安定状況を示しているように思われます。即ち律令国家の完成という状況を。
24日 海獣葡萄鏡 中国鏡の一。隋・唐のもので、特に唐代に盛行。背面に獅子形のつまみを中心にして海獣文と葡萄唐草文をあしらっている。
25日 古墳文化終焉の諸原因 古墳文化が第八世紀に終焉を迎えた大きな原因は、先に述べたように律令国家確立に伴って発布された埋葬形式における規制としての、「墓制令」に従えば、庶民が古墳を造ることはできなくなるわけですから、大和朝廷の支配がゆくわたる程に群集墳が消滅するのは当然の事態と言わねばなりません。又、古墳を営むことの出来る人も限られた少人数ですから、少なくとも朝廷の支配が強く及ぶ畿内において古墳が激減したのは自然です。古墳の規模が小さくなったのも、「墓制令」の数字が教えるところです。ただし、数字の単位については正確に現代のメートル法に換算できませんが、(一般的には高麗尺で一尺35センチ換算、然し普尺。唐尺など他の換算法も考えられる)、大きく見れば「墓制令」の規定している縮小化が進んでいることは間違いないといえます。
26日 耕作地拡大

古墳造営を否定

高松塚古墳も、「墓制令」の後であり、その規制を受けていると考えられますし、そう考えてよいほどの小規模古墳であると言えます。このように規模が縮小してしまえば、いわば権威の象徴としての古墳の存在意義がかなり損なわれたと思われます。高松塚古墳のように立派な壁画を施しても、外からは分らないわけですから、支配者層が次第に古墳造営に魅力を感じなくなったであろうことは十分想像できます。こうした事も古墳衰退の一因とみてよいでしょう。また、大化の「墓制令」の後にも、土地を公地視し、耕作地を拡大しようとする欲求が古墳造営を否定していったであろうと事も考えられます。

27日 墳を造る基本的な意欲がなくなった

然し、そのように様々な要因があるにせよ、一部の人には造営が認められているのですから、古墳が完全に消滅していった事の原因としては、古墳を造営する宗教的観念の変化といいますか、人間の側に古墳を造る基本的な意欲がなくなっていったことも考えなければなにないでしょう。そもそも、古墳がどのような宗教観で造られたのかちと言えば、少なくとも遺骸を古墳に葬り、その地を聖地として遺骸とともに永久に残すという発想があったことは間違いないでしょう。そこには、生きた証は肉体の保存という形によって永久に残されるのだというような素朴な信仰が覗われます。

28日 初めての火葬

長い歴史に終止符

処が、律令国家確立に邁進した持統天皇は、大宝3(703)、天皇として初めて火葬によって自らを葬られたのでした。それは、肉体と魂の分離、そして魂の永遠性を信じたからこその行いと言えます。それが仏教思想を反映したものであることは言うまでもありませんが、ここに遺骸を永久保存するという古墳はその根本において存在意義をなくしたのです。火葬された骨は小さな石櫃に入れれば済むのであり、それ以上の処置は魂の不滅とは全く関係ありません。古墳の造営を許された人々も、天皇にならって自ら火葬を選択し、意味を失った古墳造営は忘れたられていつたのではないでしょうか。古墳文化は、こうして物心両面においてそれを支える基盤が消失し、長い歴史に終止符を打った、私はそのように考えます。

註  唐尺
唐で用いた尺。日本で律令制で小尺(しょうしゃく)として採用。