安岡正篤の言葉 平成28年2月例会 徳永圀典選

民族とは精神である 

 私はどういう因縁か大学時代から、特に中国を中心に、日本の栄枯盛衰の歴史を学び、世に立ってからは近代日本の大正以来の変遷をつぶさに身をもって体験して参りました。国家の機密にも常に参画し、戦前・戦中・戦後と激変して参りました日本の時勢を身をもって体験して参りました。そして今もそれを体験しておるのでありますが、そういう学問の体験に徴して、今日の日本、明日の日本というものを考えた時、なんとも言い知れぬ大きな危惧を抱かざるを得ないのであります。まかり間違ったならば、恐らくここ数年の日本は収拾すべからざる混乱に陥って、相当期間、暗黒時代・恐怖時代が来ないとも限らない。

もし、さような場合に陥った時、いかにしてこの日本の民族、同胞は救われるか。これは、もう精神でなければ救われませぬ。絶対に物質では駄目であります。

あの名高いギボンの「ローマ衰亡史」という名著があります。彼はその中でつぶさにローマの衰亡の史実を検討して、その結論の一つとして、民族とは何ぞや。民族とは精神である、ということを論断しております。つまり形のある民族というものは実に頼りないものだというのです。

 例えば、イスラエルというところは、ユダヤ民族の聖地でありまして、今日もある意味ではヨーロッパとアラブの争いの火元のような所でありますが、しかし昔のイスラエル民族というものは今日殆どないと言って宜しい。またあの世界の学問の一つの発祥地であるギリシャにしても、その文化の遺産は今日も遺っておりますけれども、ギリシャ民族は、今日あると言ってよいのか、分からぬ程に民族の血のつながりというものは無くなってしまっております。ローマもまた然りであります。シーザーやプルタスのあのローマ人は、もはや今日亡んでおるといって宜しい。

 要するに、これはみな精神的頽廃によって亡んでおるのであります。どんな学問をするとか、どんな産物を出すとか、或いはどんなに経済を開発するとか、というようなことはなるほど現実的には重大な問題に違いないけれども、永遠という性命から言うならば、そういうものは極めてはかないものであります。何が民族であるか、という民族の第一義に立てば、いかにして精神、民族精神を養ったか、ということが民族の凡てであって、これはもう東洋では古くから先哲の言うことでありますけれども、長い目でみると結局は精神に帰するのであります。  人間学のすすめ

 

敬と愛と夫婦

 この頃の夫婦、男女関係を見ていると、愛ということはしきりに論ずるけれども、敬するということは言わぬ。男女関係・夫婦関係に尊敬し合うということがなくなってきました。男女関係・夫婦関係のくずれる所以であります。愛するだけであるから、しばらくするとあらが見えてきて、どうしても駄目になりがちです。敬があると言うことはお互いに感心し合うということです。夫婦はお互い感心し合わなければいけない。純人間的関係、つまり精神的関係になってこなければ敬というものは生まれない。  人間学のすすめ

 

歩く

 乗物が発達して人間が歩けなくなった。そのために人間の足が弱くなりました。足が弱くなるということは、足ほ足ると読む如く、人間の健康はこれで足りるというくらい大事な条件です、だからこれは、身体が弱くなったということです。見てくれはみな体格がよくなったけれども、生命・エネルギーという点から言うと、たいそう弱くなってしまった。私どもの学生時代は、みな一里や二里歩くのが平気でした。またその頃は歩けました。この頃はうっかり歩くことも出来ませぬ。       天地にかなう人間の生き方

食べ物

 そもそも人間の飲食というものは、その人間が住み慣れたところにできる、季節の物を摂取するのが最もよい。これは西洋の医学・生理学などの一つの結論であり、また東洋医学では昔から主張されてきておることであります。住み慣れた所に出来る季節の物を食ったり、飲んだりするなどというと、そんなけちなことを言っておっては駄目だとか、古臭い非科学的なことだとか、と今までは言われ、また考えておった。処が世界で最も進歩した医学者・生理学者が、結局それが人間に一番良いのだ、という結論に到達したのです。

             干支の活学

顔は報告書

 今まで、お前の顔にちゃんと書いてある、という語が例え話に過ぎないと思っていたのが、そうではなくて、人の精神・心理というものは悉くその人の顔に現れているのです。従って、人相とは怖いもので、いくら表面の体裁をつくろっても本当のことが凡て出ているわけです。凡眼を欺くことはできるが達人の心眼を欺くことはできません。目で大体のことがわかるというのは本当です。これが眼相であります。こういうふうに人間の顔は、自分の生理・心理のすべての報告書なのであります。     人物を修める