伊達政宗と片倉景綱・真田幸村

平成19年2月

 1日 片倉景綱 景綱は米沢の神職片倉景長の子、政宗が幼い頃から近侍として仕えた。疱瘡で失明した政宗の右目をえぐり出したのは彼だと言われる。政宗軍団の参謀として,数々の戦いで政宗を勝利に導く。 知謀の士として評価が高いが,戦場での武勲も多い。「秀吉は蒼蝿のようなもので,何度追い払ってもきりがない。」と小田原参陣を強く主張し,伊達家を滅亡から救った。秀吉から,田村五万石大名に取り立てようと言われたが,自分は伊達家の家臣であると強く断った。
 2日

仙台藩となって白石城を預けられた。仙台藩で城として幕府から認められたのは,仙台城と白石城だけであり,このことからも政宗の彼に対する信頼の深さがうかがえる。以後片倉家は,代々白石を治める。景綱は元和元年(1615)享年五十九歳で死去、そあとは嫡子の重長(重綱)。

 重綱は慶長五年の白石の陣に父景綱とともに出陣、同十九年、大坂冬の陣には伊達軍の先鋒として千余人を率いて出陣。嫡男重長は大坂の陣で大活躍、鬼小十郎と呼ばれた。道明寺口で後藤基次・薄田隼人正の軍と戦い、これを大破した。このときの重長の奮戦は際立ち以後、「鬼の小十郎」と称された。
 3日

この重長の奮戦のことを聞いた景綱は「武士には将たる器、武者、歩卒の器というものがある。一軍の将たる者、乱戦の中で組み討ちを演ずるなど慮外の極み(後略)」と大目玉を食らわした。

若気の至りがあったとはいえ、重長は父に劣らぬ器量・武略をもつ人物であった。重長は素晴らしい美男子であったといい、初めて上洛した重長を見た大坂城内は大騒ぎとなり、小早川秀秋は重長を追い回したという逸話がある。
 4日

重長の妻は真田幸村の娘。大坂の陣に真田幸村は大坂方として活躍したが、夏の陣における重長の人間像を見込んだ幸村が娘を託した。そのとき、重長には室がいたが、その後、他界したため大坂から

奥州に伴った幸村の娘を妻に迎えた。慶安四年(1651)片倉氏は伊達一家に列せられ、万治二年(1659)重長は享年七十六歳で死去した。子孫は、白石城主として代々封を受け継ぎ、明治維新を迎えた。
 5日 政宗と景綱の会話 景綱は政宗の絶対的忠臣であり死ぬ直前の会話を山岡荘八から引用する

心と(からだ)

「殿はまだお気付きなさらぬようだ」「何を気づかぬと申すのじゃ」 

 6日

「ご自分の持ち物と、天からの借り物の区別をご存知ない」
「はて、妙なことを言い出したぞ、何が我が物で、何が借り物だと申すのじゃ」

「されば、人間は、この(からだ)というものと、その中身の心とで出来ております」

「躰と心の二つでのう・・?」
 7日 自分のものは心だけ 「はい・・、そのうち、自分のものは心だけ・・躰は根っからの借り物、壊れものにござりまする。心は自分のものゆえ、鍛え方さえよければ、何百年、何千年と生き続けます。釈尊のように、大神宮さまのように・・しかし、躰はそうは参らぬので、使い方次第では十年でも壊れます。 五十年か六十年は保ちましても、百年、千年とは絶対に保とませぬ」
「フーム。成程の・・」
「爺の心は、あなた様を世に出したい一心で・・、戦国の頃から激しく躰を使いすぎました。使えば必ず壊れるものが、この躰にござりまする。
 8日

「そうか・躰は借り物、壊れものか」
「それゆえ、壊れたものは、さっさと貸したお方が引き揚げますので」
「わが心は自分のものでも躰は天からの借りものか・」

「はい・・それゆえ、この借りもの、初めは心の命ずるままに使います。しかし、使い方が荒ければ荒いほど、壊れる時期も早いわけで。ハハハ・・乱暴な心の者は、幼年のおりに木から落ちたり水火と知らずに飛び込んだりして貸したお方に取り返さされます。
 9日

爺も実は、それが借りものとは気がつかず、どんな敵の中にも眼をつむって飛び込みました。ようまあ、討死という形で今日までこの躰、取り返されなんだと不思議に思うておりますわけで・・」
「・・・」

「しかし、爺の心はこれで満足しております。あなた様を、ご無事に、戦の中をくぐり抜けさせた・・そうしたいのが、爺の希い、爺の望み・・その望みが果たせましたので、思い残すことは露ほどもござりませぬ・・爺は笑うて、壊れた(からだ)を大地にお返し致します。それゆえ、あなた様も決してお嘆きなさらぬように・・」
10日

片倉家と真田幸村

大坂夏の陣の決戦前夜、5月6日の夜に幸村は徳川軍方の伊達家先鋒である片倉小十郎重綱の陣所に娘の阿梅をおくり、保護を委ねたことが知られているが、このとき阿梅のほかに、おかね、阿菖蒲、女子(名前不詳)、そして当時 3歳だった次男大八も保護されて片倉家の居城白石で養育された。阿梅は後に重綱の室。片倉家はもともと信州の諏訪出身とされ、真田家とは同郷であった。また豊臣秀吉に出仕していた京都伏見時代には伊達家と隣り合わせで旧知の間柄であった。
11日

伊達藩は偽系図までつくって幸村の子孫を保護した。東北の雄藩・仙台にて現在まで存続する仙台真田家。だが、伊達家とは大坂の役では雌雄をかけて死闘を繰り広げた。敵将に子女を託した幸村の心境はいかばかりだったか。幸村はどうして敵将に大事な子女をたくしたのか、 父・昌幸が関ケ原の役に際して嫡男信

幸(幸村兄)を敵の徳川方においたことにならった。西軍にはもはや子女を託すべき人物がいなかった。幸村は『窮鳥入懐』に鑑み、敵将でもっとも義にあついと思われる片倉家にゆだねた。世に伝わる「犬伏の別れ」たのむべき武将・後藤又兵衛の討ち死にで意を決したと思われる。 父・片倉景綱は秀吉の大名への取り立てを辞し政宗に仕えた。義にあつい一族であろう。
12日

寛永17年28歳になっていた大八は二代藩主伊達忠宗の時に仙台藩に出仕が叶い、真田四郎兵衛守信と名乗ることになる。しかし、幕府より仙台藩に真田守信の家系調査を命じた。このため藩では偽の系図を作成してこれをしのいだがこのとき真田姓を片倉姓にして幕府の面目をたてたと言われる。また「大八」についてはひきとられた先の京都で石投げのときの石に当たった夭折したという情報を流した。その後明暦3年(1657)に公義使(他藩でいう江 

戸留守居役)に任じられたがこのとき守信の家系を問題とした幕閣・松平信綱などが在任中であり、藩内からの異議のためすぐに免職になっている。守信は寛文10年(1670)に59歳で死去、白石市の当信寺に葬られ、墓碑には一文銭が刻まれた。なお家紋は結雁(真田家のもうひとつの家紋)。そして42年後の正徳2年(1712)2代辰信の時に藩より真田姓への復姓が叶った。奇しくもそれは守信の生誕100年目の事。幸村の系譜が脈々と受け継がれ現代に至っていることに歴史のロマンを禁じえない。あっぱれ真田の智慧か。

13日 伊達政宗
15671636
『寛政重修諸家譜』によれば、伊達氏はもともと藤原氏の流れだが、文治5年(1189)、源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐したとき、藤原鎌足を初代とした17代目の朝宗(伊達氏の祖)がこれに従って戦功があり、奥州伊達郡を与えられて以後、伊達氏と名乗ったという。 朝宗より14代稙宗が陸奥国の守護となり、相馬、芦名、大崎など、近隣の諸豪族と婚姻を結び、勢力を拡大。その子15代晴宗も奥州探題に任命され、その後も、稙宗と晴宗、晴宗とその子輝宗と、親子対立の抗争にまみれながらも、一族を岩城、留守、石川、国分など、豪族の名跡を継いで拡大を重ねた。
14日 政宗は、永禄10年(1567)8月3日伊達輝宗の嫡子として米沢城に誕生。母は最上義光の妹。幼名は梵天丸。幼時に疱瘡にかかり右目を失明。 天正5年(1577)、元服して藤次郎政宗と名乗り、のち政宗。朝宗から八代後、大膳大夫政宗が武名と和歌の道(文武両道)の達人であったことにあやかり、命名された。
15日

ちなみに伊達政宗の異名である「独眼竜」は、中国の後唐の第一世昭宗・李克用が、片目でありながら英傑で、独眼竜と呼ばれた故事に発している。

生涯に武勇のみならず文芸の才でも注目すべき政宗の教養は、幼少時より禅僧、虎哉宗乙に師事した事が大きく、仏教、漢詩、人格形成に大きな影響を及ぼしたと見られる。
16日 初陣は15歳、相馬氏との戦いの時。天正12年(1584)、41歳の輝宗は18歳の政宗に家督を譲った。特に輝宗が病弱であった形跡もなく、一説に、政宗の実母最上殿が、政宗の片目とその性質をきらい、弟の小次郎に家督を継がせるべく策動していたので、輝宗
が先を制して政宗を立てたともいう。こののち、政宗は宿敵芦名氏との対決姿勢を強めていく。天正13年(1585)9月岩代安達の小浜城主、大内定綱が伊達氏に叛いて、会津の葦名氏や常陸の佐竹氏と通じた。政宗がこれを攻めると、定綱は岩代の二本松城の畠山義継の元に逃れ、その城に囲われた。
17日 政宗は二本松城を攻めようとしていたが、畠山義継は50人ほどの兵を連れ、小浜城にいた政宗にわびに来て、所領はけずられたが許された。翌日義継は、御礼と称して輝宗の 陣所の宮森城(小浜城)に来た。義継は礼を述べた帰りがけ、門まで送ってきた輝宗をとつぜん拉致し、脇差を輝宗の胸元につきつけながら、二本松に去ろうとした。
18日 主人を人質にとられた伊達家の家来たちは手出しできず、畠山主従の一団をとり囲みながら、阿武隈河畔の高田ヶ原(高田の渡し)まで追ってきたところで、この日早朝から鷹狩りに出ていた政宗が急報を聞き、駆けつけた。輝宗はこのとき、政宗に「義継を討て。自分にかまって伊達の恥にするな」とさけんだと言わ れる。政宗は家来に鉄砲の一斉射撃を命じ、義継は輝宗を刺し殺して、小高い丘に上がり切腹して果てた。残りの畠山の従者は一人残らず討ち殺され、伊達の家来たちは義継の死体を切りさいたという。この事件の原因は、畠山方の計画的な行動だったとも、輝宗が義継を斬るという風聞があったためとも言われるが、真相はわからない。
19日 こののち政宗は、父の仇の義継の嫡子、国王丸の二本松城を攻めるが、佐竹、芦名らは連合軍3万となり援軍に寄せたため、8千の兵をもって応戦、人取橋の戦となる。一族伊達成実の奮戦で勝利をおさめ、8ヵ月後に二本松は降伏。以後、政宗は近隣の小豪族を討ち平らげ、苛烈なほどに所領を拡大していく。 天正17年(1589)、摺上原の戦においては、磐梯山の麓で芦名、佐竹連合軍1万6千に対し、2万3千の大軍で立ち向かう裏で、芦名氏の家来、猪苗代氏の内応などもあり、圧勝の上、葦名氏を追放。居城黒川城を奪い、本拠を米沢城から黒川城(今の会津若松城)に移す。芦名義広は実家、佐竹氏に身を寄せた。
20日

これにより政宗は奥州66郡の半分、30余郡(沿岸を除く福島、宮城両県と岩手県南部、山形県南部)を手中におさめたが、中央で天下を握っていた秀吉は、この事を叱咤。これに対して政宗は、適当な申し開きをしている。

このころから秀吉をはじめ、その周辺の権力者と文通し、贈り物などしつつ中央の情報にもある程度通じていたと思われる。政宗が実力で奥州を制覇していた時期はわずか5年ほどであり、この後、侵略や統一の戦はしていない。
21日

政宗の家臣団は、一門、一家、準一家、一族などがあり、血縁や臣従の過程の違いにより分類される。
一門は一族衆の中でも伊達姓を許され、代表として伊達成実がいる。他に石川、留守、亘理、白石、岩城などの諸氏。一家は遠戚による譜代重臣であり鮎貝、小梁川、石母田など。準一家は外様衆で、

芦名氏や二階堂氏の旧臣、大名家などから政宗の代に臣従した氏族。一族は譜代で、大立目、遠藤、茂庭、原田などがあり、茂庭義直、綱元親子がこれである。一族以下に宿老、着座、太刀上、召出などがあり、片倉重綱は着座であったがのちに一家に昇格。遠藤元信も商人の出身であったが、政宗はこうした低い身分からも登用したという。
22日 天正18年、秀吉が小田原征伐を開始。かねてより文通のあった秀吉の側近前田利家や、浅野長政からも知らせもあり、また政宗の放っていた情報網からも窺い知れたに違いないが、政宗はなかなか腰を上げなかった。理由はよくわからない。 当時、四国の長宗我部氏、九州の島津氏が結局、征伐を受けるまでは従わなかったが、この心境に似たものか、中央から距離を隔てていた事に安心していただけか、城中の重臣の意見が分かれたとする説もある。しかし、次々に入る知らせを受け、ようやく小田原参陣を決意。ここでまた事件勃発。
23日

通説では、政宗が出発する前日、母に食事に招かれたが、政宗の膳を膳番が毒見したところ、血を吐いて倒れたという。政宗は直ちに帰って弟小次郎を呼びよせ、これを斬った。すでに秀吉の怒りにふれた政宗を毒殺し、弟小次郎を

立て、伊達家の安泰をはかろうとした母の計画でその黒幕は母の実家最上氏であったともいい、また一説には母がかねがね伊達家の家督を小次郎に継がせたがっており、領国を留守にするにあたって、政宗が打った大芝居だともいう。何しろこのあと、政宗の母は実家最上氏のところに去っている。
24日

このとき秀吉は、白衣(死装束)で現れた政宗の首を、杖で打ち「もう少しおくれて参着したら首が危なかったものを」といったという。また、自分の刀を政宗にもたせて伴をさせ、石垣山の頂上から

小田原の布陣を説明したので、政宗は秀吉の肝の大きさに驚いた、などと伝わっているが、今さら秀吉を害せば返って伊達家の破滅は免れないので、恐らくは後世の付会であろう。 
25日

小田原城を落とした秀吉は8月9日、会津にて奥州の配置を定め、会津に蒲生氏郷を42万石で入れ政宗は岩出山城に移った。この際、検地や新領主らの不手際により大崎、葛西氏の旧領を与えられた

木村吉清(5千石から30万石の大名に抜擢)の所領をはじめ奥羽各地に百姓一揆が起きた。蒲生氏郷と政宗は鎮圧を命じられ、氏郷は鎮圧に活躍したが、政宗はむしろ一揆を煽動したと言われている。
26日

この頃、会津黒川にて92万石の大大名に一躍昇進していた蒲生氏郷は、秀吉により政宗の監視を命じられ、氏郷は政宗に謀反の疑いありと報告したとも言われ、政宗は、新任大名たちの失政を煽り、奥羽全領の支配をねらったと見なされ、秀吉から京に呼ばれて詰問を受ける。この時、政宗が死装束に金箔の磔柱を用意して弁明につとめた話が有名だが、実際には、蒲生氏郷の突然の病死と、徳川家康や前田利家のとりなしという好材料に恵まれて無事を得たと見る方が妥当だろう。が、政宗自身に知己が多かった事も確かで、特に和歌の教養は、秀吉主催の歌会に多く呼ばれている事からもしのばれる。他に茶道、書道、能、香道などが知られている。文禄元年(1592)の朝鮮の役にあたり、政宗は千人の将兵を引き連れて上洛し、軍装の壮麗さで秀吉にほめられている。予備軍として肥前の名護屋城につめ、翌2年(1593)4月か

ら8月の間は渡海。南朝鮮で戦い、9月名護屋に帰陣。文禄4年(1595)岩出山に帰国。7月、関白秀次が秀吉のために自殺すると、政宗はこれに連座して秀吉の怒りを招き、伊予に転封させられそうになったが、家康のとりなしにより無事を得た。関ヶ原の戦いでは家康に通じ、会津若松の上杉景勝を攻撃。戦後は千代(仙台)に城を築きはじめた。出山城は居城としては手狭さで、地理も悪かったため、千代の築城では、規模や領国統治の条件を考慮し、城が完成し、千代を仙台と改めると城下町の経営に力を入れている。仙台城は、大手門を肥前名護屋城から移し、桃山風の書院造りなどは、秀吉の好みにも似て豪華なものであったが、天下も定まり、領土拡大の不可能を見通したのか、武備としての天守、城の飾りとしての天守の趣きは感じられない。この時期、政宗は秀吉の遺命を破り、長女五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を成立。この後も嫡子忠宗に、徳川二代将軍、秀忠の養女振姫を正室に迎えるなど、徳川家と密接になっていく。
27日

ちなみに政宗は、十指に余る子供に恵まれている。嫡子となった忠宗は正室愛姫の生んだ二男であり、庶長子、秀宗は分家の上、四国の宇和島伊達氏の藩祖となる。また九男宗実は、伊達成実の養子となっている。政宗には逸話が多いが、徳川政権が安定してからは、武将としてより外様大名として保身する話が多い。家康が政権を握ると、外様大名はつぎつぎと江戸参勤して妻子を江戸に居住させ、家康に二心なきを証明したが、政宗は諸大名に先がけて子の秀宗をいち早く江戸に送った。あるとき、政宗が京都から

歌舞伎の一団を仙台に呼んで興行させたが、武将の中には、かつての勇武な政宗と比べて嘆く者も多かった。が、加藤清正は、「さすがに伊達」と、さっそく熊本にも歌舞伎を呼んで興行させた。これも大名たちが遊芸にふけっている方が、幕府に怪しまれないと思ったからだという。慶長16年(1611)ごろ、宣教師パードレ・ソテロによって切支丹に興味をもち、城下での布教を許したが、同18年(1613)にローマに派遣した支倉常長が、元和6年(1620)に日本に帰る間に、切支丹禁令が発せられたため、帰国した常長を牢につなぐことになる。  
28日

大阪の陣においては、はじめから徳川家に荷担。夏の陣で豪将、後藤基次を討ち取っている。元和元年(1615)、伊達家江戸屋敷が火事にあったが、修理は小規模で済んだ。しかし政宗はこわして新築しようとしたので、重臣は万一のための軍資金をこそ案じた。政宗は「天下太平で戦乱の起きる心配もない今、万が一には公儀から軍資金は借用すればよい」と一笑し、屋敷を建て直した。これも江戸に贅沢な屋敷を建てて幕府に見せ、警戒を解くためという。
徳川家光が将軍就任のとき諸侯を集めて「祖父家康、父秀忠は諸侯の授けを得て将軍となったが自分は生まれながらの将軍であるから、すべ

ての大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異存があれば直ちに国元にて一戦の準備をされよ」と言った。政宗は居並ぶ諸侯の前に出て、「政宗はもとより、諸侯にも異存のあるはずがありません」と平伏したので、みな同じように頭を下げたという。政宗は家光の前では、常に腰の大脇差を控えの間に置いて席に着いたが、家光は、家康、秀忠、家光の三代に仕えた政宗に報いて、特に脇差を許した。政宗は、「家康公、秀忠公二代には、戦場で御恩に報ゆることもできましたが、上様にはそれらしきこともできませんのに、ありがたお言葉をいただき、御恩は死んでも忘れません」と答え、心地よく酩酊して大いびきをかいて寝てしまった。家光の近習が政宗の大脇差を抜くと、中身は木刀であったという。
惜しむべし政宗 政宗の晩年は家光によく愛されたようであり、政宗が病床につくと、家光は直接見舞ったり、医者の手配をしている。寛永13年(1636)5月24日、江戸の桜田藩邸にて政宗死去、70歳。官位は従三位権中納言、陸奥守。近年の発掘調査によると、死因は食道噴門癌による、癌性腹膜炎と診断された。 辞世
「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」。

他に
「馬上少年過ギ、世平白髪多シ、残躯ハ天ノ赦ス所、楽シマザレバ是レ如何」が有名。

のち伊達騒動などの危機もあったが伊達家は安泰で明治を迎えた。