徳永圀典の「日本歴史」I 天皇と武家  

平成19年 2月

 1日 源頼朝 武家は政権を把握する際、天皇から征夷大将軍に任命され幕府を開きこれを権力の基盤とした。そうでない場合は朝廷の高い地位を占めて政権を掴んだ。いずれにしても天皇 の権威に依存した。それが武家の限界であった。
源頼朝、1147年―1199年、武家で最初の征夷大将軍である。平氏に敗れた源義朝の子、伊豆に流された。
 2日 後白河法皇と平清盛の対立 平清盛が後白河法皇と対立、全国の武士の間に反平氏の気運が巻き起こった時、源頼朝は兵を起し平氏を滅ぼし武家の頭の地位を手に入れた。 頼朝が全国の武士から頭として信服された背景には、頼朝自身の指導者としての力量の他に清和天皇の血統を受け継いだ源氏の出身という要素があった。
 3日 天皇との関係 後白河法皇と対立した平氏を討つために、上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の呼びかけに応じ兵を挙げた頼朝は、平氏が落ちる時に奉じた安徳天皇の身の上を案じ、武士達にその安全を図るように指示した。

鎌倉に幕府を開いてからも、京都の朝廷を敬い、天皇を重んじた。自分の娘を天皇に嫁せ朝廷と幕府の安定した関係の構築の願いも持っていた。頼朝のこのような態度が後の武家権力者にも多大な影響を与え、朝廷と幕府の基本的在り方を既定したといえる。 

 4日 天皇の権威への挑戦 こうした武家の中で天皇の権威に挑戦した人物もいた。室町幕府三代将軍の足利義満1358年、1408年である。義満は長く続いた南北朝の争いを収束させ鹿苑寺金閣 を建立また明の皇帝に服従する形を採り日・明貿易を盛んにし幕府財政を豊かにした。政治的に際立った力量のあった義満は、それまでの武家の権力者が行わなかった天皇の権威への挑戦を試みたのである。
 5日 太政大臣と征夷大将軍 征夷大将軍であった義満は、それを超えた地位を望み、息子の義持に将軍を譲り天皇の臣下として最高の地位の太政大臣についた。その上、前の太政大臣で前の征夷大将軍であるという前例の無い立場 から武家と公家の双方に思うままの権力を振るおうとした。上皇に匹敵する権威と権力を備えようとしたが、急病にかかり空しく世を去る。その後は代々の将軍も義満の真似をする者は現れなかった。
近世日本 戦国事時代から天下統一へ
 6日 大航海時代 15世紀頃、ヨーロッパのイベリア半島で、ポルトガルとスペイン両国が半島を制圧した。そして両国は東に向けてポルトガルが、西にむけてスペインが航海に乗り出した。新航路の開発により夫々アジ アとアメリカ大陸へキリスト教布教と交易を求めてしのぎを削った。1450年代にポルトガルがアフリカの西海岸を南下する航海事業に手をつけた。1492年、スペインがコロンブスを派遣し大西洋をどこまでも西に向かわせた。
 7日 イスラム勢力 スペインやポルトガルがアジアを目指すならば東の陸路の筈だが地中海経由を避けたのは、8世紀以降、地中海はほぼ全域に亘りイスラム教徒に抑えられていたからである。 西ヨーロッパの諸民族は勢力を拡大しようとしても約800年間、南と東へ進出することが出来なかったのである。当時イスラム勢力は学問、芸術においても、軍事力においても中世ヨーロッパを圧倒していたのである。
 8日 宣伝の巧いヨーロッパ人 スペインもポルトガルもイベリア半島でやっとの思いでイスラムを追い出して国土統一を果たしたのである。 後にヨーロッパ人は、この時代の世界進出を「大航海時代」と自画自賛したが実際には壁のように立ちはだかるイスラム教徒への恐怖があったのである。
 9日

トルデシリャス条約

ポルトガル国王は、アフリカ南端をめぐり東回りでインドに到る航海途上で到達した全ての陸地を、永久に所領とする許可をカトリックの大本山であるローマ教皇庁から与えられた。勝手なものである。またスペイン国王もコロンブスが北アメリカ大陸への到着に成功すると領有の承認を ローマ教皇に求めた。いい加減なものである。そして、1494年、大西洋上の南北に一本の直線を引いて、線から東方で発見されるものは全てポルトガル王に属し、西方で発見されるものは全てポルトガル王に属するというトルデシリャス条約が両国間で締結された。勝手なものだ。
10日 地球ニ分割の傲慢 このトルデシリャス条約により決められた史上初の大胆極まる領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。 当時のヨーロッパ人は、まるで饅頭を二つに割るように勝手に地球を分割して自分たちの領土とみなしていたのである。
11日 戦国の動乱

戦国大名と自治都市

応仁の乱以降、足利幕府の権威は失墜、各地の実力大名が支配層であった守護大名を圧倒し勢力を伸ばしてきた。こいした戦国大名が互いに激しく争った時代を戦国時代と呼ぶ。

古い時代の政治や社会の仕組みが動揺し、また商工業が新たに発達してきた。それに伴い、堺や博多のような町が戦国大名たちに対抗しながら自治都市として発展した。朝廷や将軍のいる京都は衰え地方に文化が移転した。 

12日

ヨーロッパ人来航

天文12年、1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。六年後にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着とキリスト教の布教を開始した。

次々とポルトガル人きが来航したがヨーロッパ人の世界進出が遂に日本にも及んできたのである。16世紀にはフィリピン宗主国のスペイン人も到来した。彼らを南蛮人と呼んだ。 

13日 南蛮貿易 日本は当時、世界有数の銀産出国で、南蛮人たちは日本に火薬、時計、ガラス製品などヨーロッパの品々や中国産の生糸、絹織物をもたらし銀を手にいれアジア各地との交易に用いた。長崎や平戸で貿易が行われ、九州の大名たちも関わり盛んとなった。 ヨーロッパからの渡来物で重要なものは、鉄砲とキリスト教である。戦国大名は積極的に鉄砲を取り入れたので堺など各地でその生産が開始され、急速に普及した。鉄砲の使用は過去の戦争方法大きく変えて戦国時代を早く収束せしめたと言える。
14日 キリスト教 キリスト教はフランシスコ・ザビエルのあと、ポルトガルの商人と共にやってきた宣教師達により布教された。キリスト教は一夫一婦制を説くなど当時の日本人に新鮮な印象を与えた。また宣教師たちは病院や孤児院を作り人々の心を捉えた。 貿易利益に着目した西日本の大名たちもキリスト教を保護し、自ら信者―キリシタン大名になった者もいた。長崎、山口、京都などに教会(南蛮寺)と九州、中国、近畿地方に広がった。大友氏が四人の少年をローマ教皇に派遣―天正遣欧使節―した。東南アジアへの進出も本格化した。
15日 織田信長の台頭と足利滅亡 海外に視野が広がると、国内でも統一の気運が高まり、各地の有力大名たちは上洛して朝廷から認められ、衰弱した足利将軍家を支えることにより全国の支配者たらんとした。中でも、中部地方の豊かな生産力と京都に近い地の利を生かして頭角を現したのが尾張の織田信長である。 織田信長は駿河の今川義元を破り、三河の徳川家康と結び背後を固め、美濃の斉藤氏を討った。そして将軍足利義明を奉じて京都に上り全国統一に乗り出した、時に1568年。荒廃した朝廷の内裏を修理し朝廷の心を掴む。義昭は警戒し地方大名と組み対抗しようとしたが、信長は次々と破り結果、義昭は将軍を追われ1573年室町幕府は滅びた。
16日

信長の治世

信長は仏教勢力に厳しく対処し、自分に反対する大名と結んだ比叡山延暦寺の全山焼き討ちをし、浄土真宗の教えをもとに武装して抵抗する一向一揆と徹底的に戦い降伏させた。彼がキリスト教宣教師を優遇したのは仏教勢力を嫌悪したからであろう。信長は鉄砲の導入に積極的で、当時最強の甲斐武田勝頼の騎馬軍団 を3000丁の鉄砲で迎撃し壊滅させた(長篠合戦)。また琵琶湖畔の安土に壮大な安土城を築いた。城下に楽市・楽座令を出し、市・座の特権を廃止、商工業者に自由な営業を認め流通の妨げであった各地の関所を廃止した。旧来の政治勢力、社会制度を徹底的に破壊、新しい時代への道を切り開いた。中国、毛利氏討伐の途次、家臣明智光秀に背かれ京都本能寺で自害した。(本能寺の変)。
17日 豊臣秀吉の全国統一1. 織田信長の全国統一の意思を受け継ぎ完成させたのは家臣の豊臣秀吉である。備中高松で毛利と対峙していた秀吉は本能寺の変の報に接すると毛利ち直ちに和議を結び軍を引き返し明智光秀を討った。 更に織田家やその有力な家臣たちとの争いに勝利し、信長の後継者としての地位を確立した。天正11年、1583年、信長の安土城を模し、巨大な大阪城の築城を開始、全国を統治する意思を示した。
18日 全国統一 その後、秀吉は家康と戦ったが決着がつかずに和睦した。四国の長宗(ちょうそ)我部(がべ)氏を降伏させ朝廷から関白の地位を得た。関白となった秀吉は天皇から全国統治を任されたとし

て大名間の戦いや一揆など一切の争いを停止し解決は秀吉に委ねることを命じた。この命令を元に従わない九州の島津氏を降伏させ、また関東の北条氏を滅ぼし、伊達氏など東北大名も従えて秀吉は1590年全国を統一した。 

19日 太閤検地 統一が近くなると秀吉は統治者として全国の米の収穫高を土地ごとに調べさせそれを統一的な石高で表した検地帳を作成した。太閤検地という。 この検地により、それまだ公家や寺社などの荘園領主が持っていた田畑への様々な権利は否定され、農民は土地の所有権を法的に認められたのである。そして農民は、その土地を治める大名などの領主に年貢を納めることとなつた。
20日 刀狩と兵農分離 天正16年、1588年、秀吉は刀狩令を発し農民や寺院から刀や弓、槍、鉄砲などの武器を没収した。これを刀狩というが、結果は社会の安 全維持するのは大名や武士の役割となった。従って農民は耕作に専念することとなり、身分の違いがこうして確定し(兵農分離)平和な時代が準備されてゆくのである。
21日 キリスト教禁止 天正15年、1587年、島津氏討伐のために九州を訪れた秀吉は、日本国は「神国(しんこく)」だからキリスト教は好ましくないとしてバテレン(神父)追放令を発令した。秀吉は、元来キリスト教が一向宗のように武装して権力を求めない限り民衆の入信を認める立場であった。 然し、秀吉は九州に来て長崎が教会領となり、寺院がキリスト教徒により焼き討ちされた事実を知った。秀吉は全国統一目前にしており、小西行長、高山右近などキリシタン大名が信仰により結束し統一の障害になる懸念をした。そこで彼らにキリスト教を捨てることを迫りバテレン追放を命じた。
22日 不徹底なキリスト教禁止 当時、スペインの宣教師たちは、南アメリカで行ったのと同様に中国や日本を武力征服によりキリスト教を広めようとする計画があった。 秀吉のキリスト教への疑いは為政者としてのそれなりの根拠があった。だが秀吉は貿易による利益を失いたくないので南蛮人の来航は認めた。そのためキリスト教禁止は不徹底なものとなった。
23日 秀吉とフェリペ二世 秀吉が天下統一した頃、スペインでは国王フェリペ二世がイスラム勢力を打ち負かして絶頂期にあった。秀吉とフェリペ二世は互いに贈り物の交換をしていた。

アジアに派遣された宣教師達は国王に熱心に中国の武力制服と日本の利用価値を書簡で説いていたが、国王は慎重策を命じ動かなかった。秀吉もフェリペ二世も共に1598年に世を去った。 

24日 朝鮮出兵1.

文禄の役
秀吉の天下統一は一世紀ぶりで意気盛んで遂に明を征服し天皇も自分も明に住んで東アジアからインドまで支配しようという巨大な夢に取り付かれ文禄元年、1592年も15万の大軍を朝鮮に送った。 加藤清正、小西行長などの武将に率いられた日本軍は忽ち首都・漢城(ソウル)を落とし更に北部まで進んだ。然し、李舜臣の水軍の活躍や民衆の抵抗、明の援軍もあり戦いは日本の不利となり明と和平交渉をし撤兵した。これを文禄の役という。
25日 朝鮮出兵2.慶長の役 明との和平交渉は整わず、慶長2年、1597年、日本は再び14万の大軍で攻め込んだ。処が日本軍は朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し翌年、秀吉の死と共に兵を引 き上げた。慶長の役である。二度の亘る出兵の結果、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた。明も日本との戦いで衰え、豊臣家の支配も揺らいだ。
26日 安土桃山文化 戦乱の世であったが、信長や秀吉の時代になると商業や貿易が盛んとなり社会に活気がみなぎってきた。新興の大名や大商人は絶大な権力や富を背景に華やかな生活をした。彼らの気風を反映した豪華

で雄大な当時の文化を「桃山文化」という。桃山文化を代表する天高く聳える天守閣をもつ壮大な城がある。信長は安土城、秀吉は伏見城や大阪城を建設し権力を誇った。姫路城は城建築の最盛期を今も伝える美しい城である。 

27日 城と芸術 城郭の内部は書院造りで、華麗な彫り物や、金銀をふんだんに使った障屏画で飾られた。その制作の中心は狩野永徳・山楽ら狩野派の絵師たちである。また長谷川等伯は豪 華な障屏画を制作する一方で日本水墨画の秀作「松林図」を残した。勇壮な文化が発達する中、反動のように大名や大商人は能楽や茶の湯に深い味わいを求めた。堺の千利休は秀吉に仕えて、質素な侘び茶の作法を完成させた。
28日 庶民生活 時代の変化と共に、庶民の間でも現世を楽しむ開放的な文化が花開いた。戦国時代、来世にのみ救いを求めた庶民も世の中が落ち着いて現世を楽しむゆとりが出てきたのである。人々は色とりどりの衣服を身にまとい小唄や踊りに興じた。庶民は麻にかわつて

木綿の衣服を着るようになり小袖が一般化した。17世紀初めには出雲の阿国という女性が始めたかぶき踊りが大流行、後に歌舞伎へとつながった。琉球から伝わった楽器をもとに三味線が作られ、これら併せて語る浄瑠璃が広まった。浄瑠璃はその後、人形あやつりと結びつき人形浄瑠璃となる。