神戸支店物語断簡    徳永圀典

 

住銀創業時店舗は本店、東京、神戸、尾道。神戸支店は本店同様の長谷部竹腰設計の歴史的建造物、そこに長期間在勤した私には思い入れが一入(ひとしお)深い。数年前その建物は解体され時代の変遷に感無量。

 

外国部(部長故滝沢中元常務)→営業部外国為替課(課長故高橋忠介元副頭取)から神戸支店外国係に転勤した昭和344月頃の支店長初め、錚々たること、厚重なること、恰も人物人材の大樹林帯の如き地区大母店。人事部長からご着任の支店長故波多野一雄元副頭取、次長は巽外夫元頭取。融資最終決断は住友の名の信用の(ふるい)だと営業部指導を受けた紐育帰りの師・故森本淳外国係長元支店長独身寮時代からのお人柄、いま尚尊敬してやまぬ南壮郎貸付係長元取締役。外国副係長は営業部外為で机を並べた伊藤朝夫元紐育支店長。外為取扱高は全店三位と記憶。

 

外国係受付時代、L/Cと輸出手形、船荷証券、船積書類買取点検に忙殺、神戸寄港APL豪華船ウイルソン号等の出張両替は魅力。外国人と親密になる、ユダヤ人アイザック・ルッフレーマーさんは真珠の輸出商、窓口に近づきつつ独特なトーン「トクナ〜ガサ〜ン」と手を挙げる明るい笑顔は忘れない。米国ピッツバーグの鉄鋼技術者、欧州、インド、米国から頻繁に来日したコレッティ氏に巨額の自由円預金をして貰ったが日本の愛人まで紹介されて辟易。

この頃、巽次長が世界のネスレ日本社長と面談され実現の融資は邦銀嚆矢(こうし)。マンダレート社長、ルースウエイト部長は夫々ケンブリッジ、オックスフォード大学出身、当社は合理的で当座はオーバードラフト契約。

 

が外国係副係長に任命されたのは着任2年後の29才昭和3641日、ヒラだがタイトルはpro―manager。私はコルレス銀行へ届出したサインで船荷証券、為替手形の譲渡裏書をしていた。

 

外国係は低い天井下、主営業場の高い天井工事中の土曜日深夜、仮天井が営業場に全面落下、全員緊急動員、必死で復元作業。日曜は業者フル回転、月曜朝は何知らぬ顔で営業開始、破顔(はがん)の故芦田杏三支店長曰く俺は運がいい。不幸中の幸いであった。

 

取引先係着任時、隣席の北元悌二元常任監査役の聡明なるご助言は忘れない。私は外資系、領事、華僑、貿易商社を担当、華僑には(ちん)(とく)(にん)黄萬(こうまん)(きょ)任烈(にんれっ)(しん)大人(たいじん)が多く白人より東洋人と思っが現中国人観は異なる。半年二人次長部下は呻吟秋霜(しゅうそう)次長故秋葉節一元常務スイスネスレ本社を訪問倫敦支店預金実現。巨額の年間外為持込みの英文契約に成功故山口幸治次長元東西建築社長と快哉を共にした嘉納照彦支店長は主管者会議でLook Overseas!と叫ばれた筈。支店長は京都一力(いちりき)にネスレ社長を接待、私は別室待機。帰途支店長と雑談しつつ野道のツレション、大物だなと思った。9ヶ月でご栄転()の次長森川礼次郎元取締役の残響忘じ難く後年叩門(こうもん)、繁益氏と古代史・登山を清遊。この頃、邂逅した繁益幸雄元日総研常務、南健一元支店長元三国重工業常務、古田完元常任監査役のお三方とは人生の歩みと共に深まる思いの友誼が(つむ)がれ、敬愛申し上げてやまない。

外国人顧客開拓の一環、神戸在住外国婦人に当店で草月流フラワー・アレンジメントスクールを企画、英文案内状で参集を呼びかけたのも懐かしい。堀田頭取ご来神時、特製蒲鉾や(あお)(たつ)の穴子寿司を受け取りに行くなどおもしろし。

 

神戸に三近藤あり。近藤忠、現川島織物セルコン。そしてOLD PARR日本総代理店近藤商店オーナー近藤(はる)()氏と芦屋登山会出会い山の盟友となる。父茂吉氏は日本山岳会草分け、長次郎谷→剣岳→別山乗越の日本初縦走者、ガイド佐伯平蔵の平蔵(へいぞう)(たん)、剣沢ニ股の巨岩を近藤岩と命名し地図に名を残す。 

西宮は六百坪大邸宅に独居の米国株資産家老婦人、或る日、徳永さん、松下幸之助氏の褒めた“離れ”差し上げますと言われて唖然。没後、私名義の信託預金ありと弁護士から知らせあるも謝絶。三宮の老舗輸入商老婦人社長には家族ぐるみで養子にと懇望され当惑。子供なく臨終に故大内山清取締役支店長に立会(たちあい)願い私が問答をして後継を決定。共に信用の本質を知る

 

最終章。故阪部俊作・故日高礼四郎の両取締役支店長の思いっきりやってくれのお言葉、副参事取引先係長として至心(ししん)にお仕えした、人事の機微要諦を学んだ、人間洞察の達人であられた。

職務上の苦難は多々あったが無我夢中に一過(いっか)の感の神戸支店、一流教授による実践銀行学?の神戸ゼミであった。

在店前半の断簡となった、郷里の如く思い出が尽きない。在店を共にした方々、お世話様になりました、篤く御礼を申し上げます。