追憶の章「故・松本三郎専務取締役」
中興の祖・堀田体制は昭和27年スタート。私は外国関係強化一環人事らしく当初から本店外国部に在勤していた。大阪市上本町独身寮で同室、極めて親密な故・四ッ柳浩氏(昭和26年入行、東大法・在学司法試験合格者・元弁護士)の在勤する総務部法規を訪ねての帰り二階総務部前の薄暗い廊下を歩いていた。
前方から堀田頭取の次にあたられる銀行ナンバー2の松本三郎専務が歩いてこられた。私は立ち止まりお辞儀をした。すると、立ち止まられ、私の方にお顔を向けられ「元気で頑張っていますか」と、あの細面のお顔の眼鏡の奥から優しい眼差しを向けられた。私は「ハイッ」とお答えするのが精一杯であった。興奮した。感動した。この風景、松本専務の風采風姿は85歳の今日まで私の脳裏に強く深く焼きついた。あんな偉いお方が、ペェペェの私に慈愛に満ちたお言葉と眼差しを向けられた。上に立つ人間の在るべき姿として、人格者と言われたその御徳風に魅せられ、心に深く刻み込みこまれた。
時、改まって昭和50年代の央、川西市の広壮な大邸宅・松本邸の厳粛な仏間、美しく荘厳された御柩、故・松本専務・元松下電子工業社長へ、私は悲しみを奥深くに秘め、こみ上げる万感の思いを抑えつつ、心からの哀悼・殯の拝礼を捧げた。なぜ私が拝礼を直接出来たのか、人生のご縁とは実に摩訶不思議である。当時私は支店長であったが次長としてお仕えしたのが松本三郎専務のご子息・松本淳一郎天六支店長・元常任監査役であった。私は不思議なご縁に感無量、神妙な思いで松本支店長にお仕えした。引退後の60才代には松本氏とは、元取締役森川礼次郎氏や繁益幸雄氏ら古代史や登山交流の仲間と、折々の懇親会に参加、現在もご挨拶は欠かしてはおらない。
役員の話となった、高橋忠介元副頭取・元副会長は営業部外国為替課長時代にお仕えした。ロンドン支店からお帰りのポストであった。その後、私は神戸支店に転出、外国関係外回り時代には高橋氏は外国部長になっておられた。外為新規先獲得成績優秀者が外国部長に招かれ数ヶ店が並んで着席していた時、部屋にお出ましになられ歩きながら直ぐ私を見つけられ「徳永君、頑張っているね」と笑顔で声をかけて下さり名誉を感じたのも忘れ難い。爾後も接触は何度もあったが余計な事はお話にならない。私が60才で引退直後、住友病院に友達を見舞って院内を歩いていた、高橋元副会長が奥様の手押しの車に乗っておられた。私は駆け寄ってご挨拶した、少しお話した、やがて「では、徳永さん、これで失礼するよ」と病室にお帰りになられた。初めて徳永さんと呼びかけられた、これがこの世の最後のお言葉であった、親和ある温かい空気が流れ、余韻が残ったままだ。ご冥福を心からお祈り申し上げる。
仰ぎ見た神戸支店長波多野一雄元副頭取がご転出時、中華料理店・神仙閣で送別会があった。曲名は忘れたが、波多野氏のシューベルトの美しき水車小屋の娘か、冬の旅であったか、氏の本格的なドイツリート・Liedの艶なる美声は忘れない、痺れる思いであった。
1.朝はふたゝびこゝにあり 朝はわれらと共にあり 埋れよ眠り 行けよ夢 隠れよさらば小夜嵐
2.諸羽うちふる鶏は 咽喉の笛を吹き鳴らし けふの命の戦闘の よそほひせよと叫ぶかな
3.野に出でよ 野に出でよ 稲の穂は黄にみのりたり 草鞋とく結へ鎌も執れ 風に嘶く馬もやれ
細倉寮長は上甲子園の私の新婚家庭を訪ねてこられた。晩年には千葉県に子息のチカちゃんに同行して去られたが終生、上述メンバーと交流が続いた。