鳥取木鶏研究会 平成20年2月4日例会
安岡正篤「易学」
陰陽五行説
陰陽五行
また、この易学に陰陽五行の思想が取り入れられて内容の一つをなし、内容の本質的なものになっております。そこで、この陰陽五行が分かりませんと、また途中で迷ってしまうことがあります。
元来、陰陽五行は戦国時代から漢の初めにかけて、その原理と思想、理論が発達したのであります。専門的には、色々の議論もありますが、どちらかと申しますと純理論より、何百年あるいは何千年という長い生活の実習から帰納された統計学的理論と考えますと、純粋科学とか哲学というものとは違った意味、価値、確実性があります。
つまり陰陽五行なんて云うものは、古代のまことに非科学的な思想、理論あるいは概念であるというふうに簡単に片付けてしまっては、非実際的でありまして、大変な年期を入れた上、想像もつかんような多くの材料を集めて出来た統計学的結論通論であると考えれば一番妥当でありましょう。
素材の準備が足りない浅薄な科学的結論などと比較にならぬ現実性、真実性があるわけでありますから、その点をはっきりと識別しておかなければなりません。
特に陰陽の思想というものは、この頃非常に科学的―サイエンティフィック scientificにも応用されるように全く変わってまいりました。
五行というほうの考え方は、まだ科学者方面からは大いに反論がありますが、陰陽相対(待)性理論というものは、一つの動かすべからざる理論になっております。そしてこれは極めて現実的なものであります。陰陽というものを正しく理解せず、うろ覚え、不鮮明でありますと混乱してしまいます。
陰陽五行説概説
そこでこれを概説致しますと、天地、人間の創造変化造化に本質的な相対、相待つー相対立するとともに相関連する、形の上では相対して同時に相待つ。
これを相対(待)と云って、相対(待)性理論というものがあります。その根源は「陰」であります。
陰が根本
これを草木を例にとって考えるとよくわかります。木は根・幹・枝・葉・花とだんだん分かれ分かれて繁茂していく、これが発動分化の力であります。これが逆になりますと花・葉・枝・幹・根と統一し含蓄されます。
つまりこの発動分化の力と統一含蓄の二つが相待つ相対性理論であります。その統一し含蓄する力、これが「陰」で根本であります。日本の国学随神の道では、これを産霊と申しまして、これは非常に神秘な創造の働きでありますから、神道、随神の道は、この産霊の信仰であり理論であります。これがつまり「陰」であります。
陽
それに対して分化発展していく働き、これが陽でありますから、この二つが相対立しつつ相まって、ここに生育化育が行われ、万物は大きく育つのであります。これが陰陽、相対(待)性理論であります。
そこで「陽」は「陰」に待ちませんと、つまりただ分化発展していくだけですと、分かれ分かれていきますから、遂には、分からなくなるのであります。
分からぬは易学の言葉
この「分からぬ」という言葉は面白い言葉でありまして、もともと易学の言葉です。普通は頭の問題と思っておりますが、本当は創造―クリエーションの問題で、余り分派すると力がなくなり、余り茂りすぎると生命力、創造力がなくなりますから、わからなくなる。
そこでこれを結ばなければなりません。枝から幹に、幹から根にという具合に結ばなければなりません。これが創造の理論であって、易の陰陽の理論でもあります。
陰と陽の意味
そこで「陰」は、籠もる、結ぶという意味があり、「陽」は、表立つ、分かれる、従って繁栄していくが、やがてこれは生命の真理から離れる。
余り分かれ分かれて枝葉にはしりすぎると生命成長の働きがとまる。つまり創造、成長の道からいうと嘘、偽になります。そこで陽という字には表という意味と、偽るという意味があります。
偽
私達の身体もそうでありまして、飲食が余り陽性になると、真理から離れて偽るようになる。だから暴飲暴食しますと、生理に反する偽でありますから病気になります。
また余り才だの、弁だのというものがありますと、よほどの陰の修行、つまり反省、修養をしませんと偽になり過つようになります。
徳と知能
人格では、この陰陽の陰、即ち成長の原動力、結びの力、これを「徳」と申します。
また分かれて枝葉となり、花実となる陽の力、これを才幹、知能と申します。
人格
そして、この徳性と才幹、知能が相まって、ここに人格というものができあがるわけであります。
われわれの欲望というものは、いうまでもなくこれは陽性です。それに対する内省、反省というものは陰であります。
完
2月の言葉 四患
第一「偽」、 第二「私」、 第三「放」、 第四「奢」。
「偽」。偽がよくないということ。これは政治ばかりではありません。偽はイ偏に為すという字ですが、元来、人の為すことは往々偽にもなります。
「私」。私心があってはならぬ、ということ。
「放」。規律を失って、放埓・放縦になってはいけないということ。法律や法則・道徳を守らなくなることです。
「奢」。国民が贅沢になってはいけないということ。奢は国民の命取りであるばかりでなく、国政にも命取りになります。
あらん限りを尽くしてきた日本
この四つが揃ったら、絶対にうまくゆかないというのであります。処が、日本は今まで、この偽・私・放・奢のあらん限りを尽くしてきたと申してよいでしょう。恐ろしいことです。然も四患だけではなく五寒も揃っています。
これは尋常に済むわけがありません。そこで思い切って大改革をやらなければいけないというのが必然の要請であります。処が人間には因習になづむということがありまして、今迄の悪い習慣を一掃して、国民が瞠目するような大革新をやるということは、言うは易く行うは難い。
平成20年2月4日
鳥取木鶏研究会 代表 徳永圀典