成人式“一考察”

成人式が終わり、冷静になったここらで改めて成人式なるものを考察してみる。法律で定めた成人式なるものは、日本古来よりの風習である元服にあやかり決めたものであろう。地方公共団体が法律による成人・二十歳になった人々を招き祝福し激励する行事で他国にはなかろう。成人、法的に法律行為の出来る年齢、背景には社会に於いてまず成熟したとしているのであろう。一つの区切りであり祝福するにやぶさかではない。

確かに肉体的には、ほぼ一人前になったと見てよかろう。今年から選挙権年齢が18歳と法律が変わるが、何を以って大人・成人とするかは難しい問題である。

私は、大人の人間、社会人としての人間とは、「肉体の成熟」と「知・情・意」で構成されると考えている。これらがバランスよく一定レベルまで達成されて成年である。昔流を求めるものではないが、親の脛マルかじり、レンタル料数十万の振袖、肉体だけ大人になった、ただそれだけで、凡て親がかりでありながら、完全社会人のように無罪放免のような本人、それを行政が煽り、社会も全き成人のように扱うのが、本当に良いのか甚だ疑問を持つ。成人式を終えたら、本人も国民、行政・社会ともども、完全成人とみているとしたら、社会全体として甚だ危険である。その兆候と悪影響は肥大化されつつあるように思える。やがては大人になって行くのだからでは済まされぬほど社会人としての「知・情・意」の鍛錬が欠けたままの社会人が増えている。これからの社会人としての責任、礼儀や規範を学び自らの言動に責任を持つ、自覚向上の精神的、簡素美門出式に転換できぬものであろうか。

               徳永圀典