安岡正篤先生「易と人生哲学」平成20年1月 M              
 平成20年1月

 1日 宿命 これまでの講義の中で申しましたが、人間の生活、存在というものは一つの大きな命、即ち必然である大自然、即ち造化というものの一部分でありますから、その造化の支配制約を受ける。そういう意味で変化してやま ない運命の中に「宿命」というものがある。宿は()()であり、やどは「とどまる」という字であります。つまり放っておけば、人間は自然の法則に支配されて、物質的、機械的な存在になって生活する、これが宿命であります。
 2日 (すう)と命数

この自然と人間生活と存在の中には、色々と因果関係がありまして、その内容は実に複雑無限であります。そういう運命の中にある色々の因果関係を「命数」ということも嘗てお話致しました。

数と言えば、(かず)と読みますから、即ちあの人は三十才で死んだ、あの人は八十才だが元気だ等、そういう命の数を命数というのだと考えますが、学問的に申しますと、命数とはもっと深い意味があって、命というもの即ち、人間自然を通ずる創造・進化即ち造化の働きの中にある、複雑な因果の関係、これを数というのであります。
 3日 数奇(すうき)

そこで「あの人は数奇な運命にもてあそばれた」という言葉がありますがそれは普通人の考えるような因果の法則から外

れた、不思議な因果関係を言うわけであります。
数というのは、そういう因果の関係、理法を言います。
 4日 (にょ)是説(ぜせつ)

さて、宿命に()せず、運命の理法に従ってこれを実践する、最創造していく、 
re−create
していくという意味で、これを立命という。その一番代表的なものがこの易学であります。

そこでその命数を更につっ込んで明らかにしたものに、如是説―十如(じゅうにょ)()百如(ひゃくにょ)()と云って人間の複雑微妙な因果関係を巧みに解説したものが法華経にある、ということも既に引用解説致しました。それを古来から独特の見地や解釈で、非常に世に広く優れた感化を与えてまいりましたのが易学であります。
 5日 指針を得る易学 そこで、この易を学びますと、我々の生活、我々の存在、我々の活動の法則と、それに対する指針を得るわけであります。それが易学の中から、易占というものを発達させた所以であります。こういう応用の方が切実な ものでありますから易学は非常に早く民衆に普及致しましてそれに従って又色々俗解やあるいは曲解や誤用等が行われてまいりました。これをやりますと本当に極まるところのない興味と応用がございます。即ち易の中にある易占というものを取り上げてそういう点を観察致しますと興味津々たるものがございます。
 6日 易に通ずる者は占わず、
即ち
「易は(ぼく)せず」
今朝、東京の友人が電話して参りまして、「過日、今年末のことを占ってみたところ異変があると出た。不思議に思っていると福田内閣が辞職するという政変があった」と言って、得意然と自分の占の当たったことを誇って参りましたので、苦笑致しましたが兎に角こ れをやりますと面白くて仕方なくなるものであります。面白くなると益々占ってみたくなるので次第に堕落する。十分考えないで、単に当ったというようなことばかり興味を持つようになる。これは一種の堕落であります。「易に通ずる者は占わず」という言葉さえありまして、占う必用がないという見識になって初めて易学をやったと言えるのであります。これは易学をやる者の忘れてはならない一つの根本問題です。
 7日 易は占を学ぶものではない。 易学をやるということは、占を学ぶのではなく、占う必用のない智恵を得る、思索、決断力を養うということであります。 然し、当るとか、当らぬとかいうことは面白いものでありますから、例えば明治以降の名高い易の書物を見ましても、そういう占いの例ばかりーと言っては語弊がありますが、際限なく出ております。
 8日 佐久間象山 佐久間象山が、元治元年最後に故郷の信州から上京致します時に彼の敬服しておった小原鉄心という人が岐阜におりましたので立ち寄りました。そこでその席にいた人が、象山の上京について占いましたところ沢天夬(たくてんかい)の卦得た。これは六十四卦の一つでありますが。 、この場合好い卦ではありません特にその(じょう)(こう)の言葉がよくありません。「行けば凶である」と、だから占した人は、象山に「やめなさい」と忠告しました。象山という人は非常に易に通じた人で、易に関する著書もあります。ところが象山は苦笑して「いや、私は行かなければならない」と言って京都へ出て、果せるかな暗殺されます。そこで「占のとおりであった」と、そのとめた人はあとでしみじみと話をしておるのであります。
 9日 真易・本易 こういうことが面白くなって、易をやりますと兎角(えき)(せん)の方に走るのでありますが、それだけ根本的な易学をしっかり身につけておきませんと堕落しやすいのであり ます。
既に、大分、易のお話をして参りましたので、易に興味をもたれた方が多いと思いますが、どうか悪い易、俗易にならないように、(しん)(えき)本易(ほんえき)をおやりなさるようにおすすめ致します。
10日 (はっ)(かん)の法

通ずれば・・

「禮する所・・」
八観とは、八種類の人間観察法でありまして、先ずその
第一に、「通ずれば其の禮する所を()」。

役職について課長から部長というように地位が昇ります。そうすると何を礼拝するか、即ち何を尊重するかを観察すると、それなりに人物を知ることができる。
11日 進む所を・・


(たか)ければ其の進むる所を()

地位が上がると、どういう人物を進めるか、人物ばかりではありません、ゴルフを進める人もあるだろうし、将棋を進める人もあるだろうと思いますが、その進める所を観ると人物がわかる。 

12日 富めば・・

富めば其の養う所を観る

金ができたら何を養うか、これは好い着眼であります。金ができるとまず家をつくるとか、骨董品を集めるとか、或いは犬やその他の動物を飼う人もあるだろうし、女を養う人もあるだろうと思います。その養う所によって人物を観察することができる。 

13日 聴けば・・

聞けば其の行ふ所を見る

聞いても聞きっぱなしで実行しない人があり、すぐ実行に移す人もある。他人の善言を聞いてどうするかを注目することは確かに人物を観察する一手段である。
14日 (いた)れば・・・ (いた)れば其の好む所を観る 止るという字は足趾(あしあと)象形(しょうけい)文字でありまして、あるところへ達すること、そこで(いた)ると読みます。又とどまるとも読み、そこ行く着くことです。あるところまで行く着くと例えば重役になった、すると部下が「あの重役は、近頃ゴルフをやるようになった」などというのは、一つの観察結果であります。
15日 習へば・・

習へば其の言う所を観る

習熟すると、どういうことを言い出すかを観察する。これもまことに切実でありまして碁を打っても、将棋を指しても、又謡曲をやりましても習熟しますと、そのいうことが違ってきます。そこで言う所を観ると人物観察ができます。 

16日 窮すれば・・

窮すれば其の受けざる所を観る

人間でありますから好いことばかりではありません。窮することもある。これは大変辛辣(しんらつ)であります。貧乏しますと他人の援助を何でも受けようとします。そのような境遇になって何を受けないかを見て人物を観察する。受くる所を観るのではなく、受けざる所を観るというのは面白く、又大変妙味があります。
17日

賎しければ・・

賎しければ其の為さざる所を観る

「俺なんか何をしたって構うもんか」と言って、賎しくなると人間何でもやる。そのような境遇になっても、何をしないかを観察する。深刻な言葉です。 

(ろっ)(けん)の法
18日 六種類の人間検査法

第一
「之を喜ばしめて・・」

(ろっ)(けん)というのは六種類の人間検査法でありまして、これはいままでの講座の中で一度はとりあげたものではないかと思います。

(これ)を喜ばしめて其の(しゅ)(ため)

人間は喜ばされると、意外にだらしのなくなるものであります。今度大平内閣ができますが、組閣あるいは内閣改造の際に、よく聞く言葉に「今度は君を○○大臣にしてやる」ということがあります。これを匂わされた当の政治家は「今度は俺を大臣にしてくれるな」と思うに相違ありません。そこから色々の悶着がおこるのでありますが、そこで(ろっ)(けん)には、その第一にこれを置き、喜ばされた場合に、どれだけ守る所があるか、即ち自分で自分の生活を打ち立て、これを維持していく原理原則を持っているかを調べる。だらしなさがあるかどうかです。
19日 之を楽しませて・・ 之を楽しましめて以て其の(へき)(ため)

喜ぶというのはより多く本能的感情ですが、楽しむというのは、それに理性の加わった感情です。例えば酒を喜ぶというのは本能です。然し、酒を楽しむというのは、これに理性や教養が加わるわけです。そこに喜ぶと楽しむとの相違がある。喜ぶと人間は相好を崩してだらしなくなる。つまり守るところを失う。処が楽しむは理性の問題でありますから、思想とか見識というものが加わるから、兎角かたよりやすい。そこで楽しまして偏る所を観る。
20日 之を怒らしめて・・

之を怒らしめて以て其の(せつ)(ため)

怒りというのは爆発性のものであります。爆発は物を破壊するように、人間の感情も非常に破壊的です。従って怒らしめて節を調べる、即ち締まり方を観る、なかなか痛いことであります。 

21日 之を懼れしめて・・

之を(おそ)れしめて以て其の(とく)(ため)

特は、独立の独と同じで一本立ち、自主独立を表します。人間は恐れると自立性・自主性を失い、ふらふらになります。そこで恐れさせて、その自立性を調べる。これも辛辣(しんらつ)であります。
22日 之を(かな)しましめて・・ 之を(かな)しましめて以て其の人を験す 人間の感情の中で「かなしむ」という感情は一番本能的であります。例えば、仏教では「菩薩道の至極(しごく)は何か」と言えば()だと言われます。悲しむという感情に慈愛が加わりますと、慈悲であります。そこで菩薩とは何ぞやということを一言で申しますと慈悲であります。
23日 慈悲 更に、慈悲を縮めていうなら悲、そこでその至極のものが大悲(だいひ)観音(かんのん)悲母(ひぼ)観音(かんのん)でありまして、母の母たる至極の感情は、子を悲しむことであります。そこで愛という字をかなしむ(○○○○)と読むのであります。 愛は悲しい。楽しい愛というのはまだ愛の究極ではなく、本当の愛は悲しい。ですから愛の化身(けしん)である母は常に悲しむものであります。子供が病気をしたと言って悲しむのは当たり前ですが、子供が出世をした時でも、母は「あんなことになってどんな苦労をするだろうか」と悲しむ。人が喜んでいる時に母は悲しむ。これが本当の慈悲であります。だから慈愛より慈悲の方が深刻な言葉、本質的な言葉であります。
24日 之を苦しましめて・・ 之を苦しましめて以て其の志を験す

人間は苦悩にあうと、理想、目的即ち志が挫折して、薄志(はくし)弱行(じゃっこう)になる。どんなに苦しくても志を失わないということは、大変難しいことである。そこで苦しませてその志を調べる。 

25日 (はっ)(かん)(ろっ)(けん)

この(はっ)(かん)(ろっ)(けん)というものは、()()春秋(しゅんじゅう)という書物にある言葉であります。呂氏春秋は中国の春秋(しゅんじゅう)戦国(せんごく)時代に行われ

ておった、知識学問のエンサイクロペディアとも言うべき書物であります。そこで、この(はっ)(かん)(ろっ)(けん)は、中国の学者、識者が非常に敬服尊重しておるものの一つであります。成る程これで人物を観察しますと、どういう人間であるかということは隠しようがありません。
26日

(ろく)(せき)四隠(よんいん)

このほから呂氏春秋には、(ろく)(せき)四隠(よんいん)と申しまして、身に近い六つのもの、即ち、父母、兄弟、妻子の実体、和、不和。

それから四つの隠れたもの、どういう友達とつきあったおるか。どういう古いなじみを持っておるか。どういう所に住んでおるか。どういう構えをしておるか。ということを調べる。
27日 東洋人物学 (はっ)(かん)(ろっ)(けん)(ろく)(せき)四隠(よんいん)とこれだけ調べると、論語に「(ひと)焉んぞ(いずくんぞ)(かく)さんや」  という有名な言葉がありまして達人からこういうふうに観察されますと逃げようがありません。どんな奸物(かんぶつ)でも正体が露見致します。これは東洋人物学ともいうべきものであります。  
28日 易学は人物学

易学というものは、これは人間学、人物学であります。真に易を学べば、占う必要はなく、それだけで見識ができますから、占う学問ではなく、おさめる学問であります。さて、易を学びますと、人間が変わってくる。或いは変えることができる、別の言葉で言いますと、おさめる(修・治)ことができるのであります。

そこで、その教え、道というものに従って人間はどのように変化していくかという問題を、一から九に分けまして、描写解説したものがありまして、これを「性命の造詣」と申します。この人はどういう造詣を持っておるか等、非常に精細と申しますか、詳しく大変好いところをつかまえておりますが、ある意味に於いては辛辣であります。
29日

(せい)(めい)造詣(ぞうけい)

学問、修業の始めは、まだ垢抜けない、これを野人(やじん)()という字で表す。それが暫くすると、こなれてくる。これを(じゅう)という。一年にして野、二年にして従。そうなりますと次第にゆき詰まらなくなる。進歩する。これを(つう)という。三年にして通。そして四年にして(ぶつ)、つまり日本語でいうと、(もの)になる。学問的にいうと物は、法という文字に通ずるのでありまして、野、従、通と順を経て進みますと初めて、きちんと形ができる。

つまり法則が立って一通り人間ができる。そうすると五年にして(らい)。これは新たなインスピレーションー霊感が出てくるということであります。そうすると、それまでに見られなかった神秘な作用がでるようになる。これを鬼入(きにゅう)と言います。鬼は悪い意味ではなく、神秘的という意味です。つまり六年にして鬼入、そうすると七年にして天性(てんせい)、つまり人間のくさみ、癖というようなものが抜けて自然の姿が出てくる。そこで八年にして、死を知らず、生を知らず、つまり死生を超脱する。そうなると最後に、九年にして大妙(だいみょう)なり。妙は真に通ずということであります。 

30日 大易

易を学んでいきますと、このように、人間が変わってくる。或いは変えることができる。そこで色々と通俗を離れて神秘というものを体験する。それを更に進めていきますと、易学は神秘の学問へ進みます。

そうすると又堕落とか偏向というものが起こりますから、元に返さなければなりません。元に返せば天地自然の理法に従って、自己の生活、自分の仕事、自分の世界を改めていく、革新、解脱していく。即ち大易であります。
31日

そこで人間の学問として易学くらい、深い、徹底して、規模の大きいものはないというのが専門家の定説であります。ただそういう学問であるだけに、中々易学の真髄を把握するということは難しく、兎角偏したり、堕落したり、いわゆる曲学になりやすい。
そこで度々申しますが初めが大切であります。

「易学とは何か」ということは結局「人間とは何か」ということであります。これを正しく知って初めて易を学んだというべきであり、これが基本となって、倫理学、政治学、経済学等に自由自在に応用がきくわけであります。時間がまいりましたから、これで第九回目を終わります。あと一回でありますから、易の活用というか、占につきまして締めくくって、皆さんの長い生涯の学問求道上の御参考に供したいと存じます。
(昭和五十三年十一月二十九日講)