徳永圀典の書き下し「日本国体論」その一

平成20年7月度

 1日 序章 21世紀に入り、日本人、そして日本国は、亡国への道に突入し断崖絶壁に位置するように思う日々である。 それは、日々発生している社会現象に如実に表れている。
 2日

政治、良識の府であるべき国会があの通りで、国家観や「公」の欠如した政治家ばかりとなっている。 また、彼らは見識も「胆識」も欠け、且つ道徳的に腐敗堕落し、社会や青少年に範を示さない。

 3日

国会は「悪のモデル院」のようである。国家・国民を背負っているという勇気も気概も無い連中ばかりに見える。彼らは、最早や、国民の尊敬の対象ではない。

 4日 人間としての基本である倫理・道徳を身につけていない戦後生まれの青少年・壮年・若老年層が大多数となり、その結果が日々の殺人事件である。良き日本人の原型がわからない日本人ばかりとなったのだ。 
 5日

太古の時代から、諸般に亘り格段に秀でていた日本人が、アメリカに敗戦し、2千年の素晴らしい伝統・文化を放擲し、あるゆる物事の価値基準が金銭オンリーとなってしまったからである。

 6日

幕末に来日した欧米の賢人達が、白人の模倣をすれば日本はおかしくなると言ったが、敗戦後それが一段と徹底されて遂に日本人のアイデンティティを完全に喪失しつつある現在である。

 7日 日本民族の本質

古代

魏志倭人伝の記録にもある如く、日本人は太古より、「婦人(いん)せず、妬忌(とき)せず。盗窃(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし」

 8日
隋書
によれば

また、1400年前の中国書隋書(ずいしょ)()国伝(こくでん)「人すこぶる(てん)(せい)にして、争訟(そうしょう)まれに、盗賊少なし。・・気候温暖にして草木は冬も青く、土地は膏腴(こうゆ)にして・・・性質直にして雅風(がふう)あり」

 9日 日本人のレベルの高さ

中世に至っては、ザビエル、「それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、「盗み」について、これ程までに節操のある人々を見たことがありません」と、日本人のレベルの高さは中国・欧米を遥かに抜きん出ているのである。

10日

阪神大震災の時に火事場も泥棒も無かったことに世界が驚いたものだ。日本人のモラルの高さは2000年来のものである。今回の中国・四川大地震ではあの通り「略奪」が多発しているのである。孔子・孟子の国の中国と比較して見ればいい。論語・孟子の書の倫理は移動し「日本で遵守されている」のである。

11日 幕末・明治維新 18世紀、幕末から明治維新当時に来日した欧米人は、武士は貧しいことに少しの恥じらいもなく、また庶民は武士を尊敬していると記録している。日本のどの地方を旅しても婦人一人で少しも危険はないとも体験している。
12日 日本人の大きな美徳ー

「日本人の礼儀正しさは、日本人の大きな美徳の一つであるが、身分の上下に関係ないことは、「躾」を初めとした教育が良く行き届いていたということである。日本の制度が末端まで機能していたことの証左である。とケンペルは指摘している。

13日

イザべラは、「奥地や北海道を1200マイルにわたり旅したが、全く安全で、然も心配もない。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にも逢わず全く安全に旅行できる国は無い」と言う。 これ程まで高いレベルの日本人は「今いずこへ」である。

14日 戦後の日本人 歴史的に、この素晴らしい資質の日本人が、戦後、なぜ、奇妙なことになつてしまったのか。私は、その原因に就いて持論を開陳する。
一つ、国民の倫理道徳教育の場が戦後日本には皆無なのである。外国、特に西欧では、「宗教」が国民の倫理・道徳教育の場となっている。
15日

だが、日本の場合は欧米と、著しく異なり、「日本仏教」は堕落しきったままであり、日本「神道」の精神を学ぼうとしない日本人となった。本来ならそれ等に代る日本人の道徳倫理の原点である「目に見えない、明文化されてもいない、だから、書物にもなっていない「武士道」が倫理・道徳の規範になるべきであるが、戦後は世代間の「伝統の断絶」が起き、それも廃頽してしまつたままなのである。

16日

武士道精神は、文字に書かれていないが、世々、親子の口から口へ伝えられ、人から人へ以心伝心、心から心へ伝わって戦前の日本人の倫理理的基礎となっていた。
嘘をつくな、正直であれ。人の物を盗むな。渇しても盗泉の水を飲むな。人様に迷惑をかけるな。弱い者を助けよ。弱い者を苛めるな。兄弟仲良く、親を大事に。長幼の序を守れ。家の恥を外に曝すな。ご先祖様に顔向けならぬことをするな。公に尽くす。家の名誉を。等々である。

17日 「至誠の思想」は儒教を越えた 新渡戸の武士道、「日本人なら、是非共一度は読むべし」である。

「日本の武士道は儒教を超えたものである。
それは「至誠」が根幹であり、「不言実行」あるのみの不文律を築き上げている」。

18日 中国には無い
「至誠」の思想

この「至誠の思想」こそ、日本人は、もっともっと自信と誇りを持ち、積極的に「國際社会のリーダー」の役割を果してゆかねばならぬ。「日本精神の根幹は「武士道」、即ち「義」を重んじ、「至誠」を以て、「率先垂範」、「実践躬行」するという「大和魂」がその精髄である。「至誠」は中国には皆無である。

19日 大和魂こそ日本

地下水の流れのように今猶、脈々として「武士道」精神が日本人の中に生き残っていると信じたい。枯れていないと信じている。 「この大和魂こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的真理であり、人類社会が今直面している危機的状況を乗り切っていく為に、絶対に必要不可欠な精神的指針ではないか」。

20日

「武士道」は何も武芸礼賛軍事書ではない。武士の厳しい戒律が書かれた本でもない。寧ろ日本人に於ける道徳の道を説いたものだ。

21日

新渡戸は、その書の巻頭に言う「ある時ベルギーの学者と話している時、その学者が日本には宗教教育が無いと知り驚き宗教教育無くして、どのような教育をするのかと聞かれた際、新渡戸は愕然とし答えられなかったと言う。

22日 日本人の善悪の観念の根元は

新渡戸は「何故なら私が幼い頃学んだ「人の(みち)たる教訓」は学校で受けたものだはなかったからだ。そこで私に「善悪の観念」を作り出させた様々な要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことに漸く思い当った」と言う。

23日

日本は明文化されない文化の国なのである。例えば神道、キリスト教などと違い、神道は戒律や明文化された教義も無い。このように日本は「明文化されていない文化」の文明なのである。明文化しなくてもよい、その必要がない高い人倫的風土なのであった。

24日

天皇と神道により日本国は創生したものであり、かかる意味で「日本は間違いなく神々の国」なのである。これを否定する人間は無知蒙昧に近いのである。自己のアイデイティティを否定することなのである。

25日

中国の、孔子や孟子の儒教なども、誠実な行いが出来ない民族だからこそ、しつこく教えた、それが「論語」等の文章化され継承されたのである。

26日ー

30日
精神的空家の
戦後日本人

日本の場合、聖徳太子の「十七条の憲法」は、モーゼ、孔子、孟子のようには説いていない。日本人の場合には、モラルの高さは当然の「当たり前」の事でありわざわざ書く必要が無かったのが真実である。日本人には「和」を唱えるだけで良かったのだ。

外国では、明文化し厳しく教えなければならなかった。日本では古代から常識以前の当然のことなのであった。孔子の教えは、それを確認したに過ぎないので

のである。だが、戦後六十年経て、武士道的倫理・徳目が消えうせつつある現在、武士道精神を持つ世代が去ると、日本は宗教が倫理を教えないから、人間としての「芯」が無いに等しく、社会は、極端に「非道徳」となり、現在、その結果が現実化しているのである。敗戦後、日本人としての「魂」を作る努力を放棄してきたからである。 自覚的に民族精神を鍛錬する何らの方策を放擲していた。
戦後日本人は「精神的空家」なのである。これでは、禽獣のような国民ばかりとなるのは必定なのである。 これらの自覚が急務である、これがその一つ。

31日 中国を越えていた日本人

第二は、日本人の最も好む「誠」である。 確かに、日本は古代には中国からの儒教を学び、そして江戸時代には「義」を武士道の中心の思想に到着せしめた。然し、日本人はその中国の儒教を越えた概念を、日本の最高に高いものへと、止揚しアウフヘーベンさせているのに気づかない。