安岡正篤先生「易の根本思想」11
 

平成21年1月

 1日

十三
同人(どうじん)
 

天上(てんじょう)火下(かか) 天火(てんか)同人(どうじん)
同志の結集」。弘く同志を天下に求めて、大いに文明を発揚する象である。卦の面より見れば、内卦の()()は知性を意味し、外卦は(けん)で、実行力に富む。

二・五・位を得て正応(しょうおう)し、大業を成すに(よろ)し。どこまでも大人君子の道を守ってゆくに宜し。それだけに、人物を類別して、明確に認識せねばならぬ。目がきかねばいけないのである。

 2日 初九

六二

初九
門戸を開放して同志を迎えれば文句ない。

六二
同志を集めたのはよいが、とかく親しい者同志となる。うまくない。

 3日 九三

九四

九三
野心を起こして伏兵を設けるような奸計(かんけい)をめぐらすが、なかなか望み通りにゆかぬ。遂行しようとしてはいけない 

九四

覇権を狙うが、駄目である。(くる)しんで則に反ればよい。 

 4日 九五

上九


九五
同人の首班である。後を狙う者(四・三)の為に苦労するが、下の応爻(おうこう)である六二の賢士(けんし)と心を合わせてゆけば、いかなる妨害をも排除して、相見て笑えるようになる。二人心を同じうすれば、その()きこと金をも断つ。同心の言はその香り蘭の如きものがある。

上九

功成って現役を去れば、郊に遊ぶようなものである。人々は都内に集まって忙しい。訪ねくる者も少ないが、優游自適(ゆうゆうじてき)しつつ尚も志を失はねば悔ゆることはない。

 5日

十四 大有(たいゆう)

火上(かじょう)天下(天下) 火天(かてん)大有(たいゆう)

努力の培養」。

日・天上に輝く(しょう)である。元に(とお)る。悪を(とど)め、善を掲げて、天の(きゅう)(めい)(したが)うがよい。

大象(たいしょう)は「順天休(じゅんてんきゅう)(めい)」、休は休息であり、平和であり、幸福であり、偉大である。然し、中に含まれている互卦(ごけ)を見れば澤天夬(たくてんかい)である。他人に忌まれ、(あやう)い所がある。裏返せば((さく)())水地比(すいちひ)で、(まこと)が大切である。でないと匪人(ひじん)に悩まねばならぬ。 

 6日

初九

九二

初九
初に当って有害なことにかかわりあうわけはないが、尚且驕りや、怠りや、小人に交はらぬように勉強すればよろし。

九二
大車に重荷を積んでゆくようにすれば(とが)はない。徳川家康の家訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如しと合致する。この爻の象伝に「積中(せきちゅう)不敗(ふはい)」ということがある。中に積みは敗れざるなりで、いかなる重荷も端に積めば転覆しようが、中に積めば失敗することはない。積中はよく字や雅名(がめい)に用いられる。

 7日 九三

九四
九三

大有は此処にあって大いに力を有する。九五を天子とすれば、諸侯の位である。この時、自らの勢力を私せず、その有する所を天子の為に捧げねばならぬ。小人はそれができない。

九四
三爻より更に進んで力も加わりも衆も集まった所であり、大臣の位である。この時に、自ら驕り、また天子を凌ぐことのないよう、補佐の任にふさわしく智慧を働かせて謙虚を失はねば咎はない。

 8日 六五

上九

六五

孚よりして自ら上下の交り美しく、人々をして感発(かんぱつ)せしめ、何の警戒の要も無いから、安易自然で、しかも犯すことのできない威厳がある。吉。

上九

天より之を(たす)ける。吉にして(よろ)しからぬはない。 

 9日

十五 (けん)

地上(ちじょう)山下(さんか) 地山(ちさん)(けん)

謙虚の徳用」。
大有(だいゆう)()けるに(けん)を以てする。易理は実に深い。(はじめ)有らぬはないが、(おわり)有るは少い。君子は終を慎む。

天道(てんどう)(みつ)るものを()いて謙なるものを益し、地道(ちどう)(みつる)を変じて謙に流し、鬼神(きじん)(みつる)を害して謙に福し、人道(じんどう)(みつる)(にく)んで謙を好む。

10日 謙虚の徳用 謙は尊くして光り、(ひく)くしてしかも()えることはできない。君子の終である。すでに大有である。次は公平でなければならぬ、均当(きんとう)でなければならぬ。

大象(たいしょう)に曰く、君子以て多を?(へら)し、()を益し、物を(はか)り、()を平らかにすと。卦の面より言うも、高きもの下に在るの象である。 

11日 (めい)(けん)

初六

謙々(けんけん)、あくまでもへり下って自ら修養する。君子である。

六二

謙おのづから外に現れる、これを「(めい)(けん)」という。
貞なるほど吉である。

12日 戒慎(かいしん)

九三
益々努力してしかも謙である。かくてこそ終有り吉である。万民が服する。易の諸卦、ほとんどが三爻に於てその危機を指摘し、戒慎(かいしん)を説いている。独りこの謙の三爻に於て礼讃を惜しまない。

六四

三爻の上の四爻である。謙なれば益々その感化を及ぼすことが大きい。

13日

謙徳(けんとく)(めい)(けん)

六五
主たる者自ら富貴とせず、「謙徳(けんとく)」を以て衆を(ひき)いてゆけば、服せぬ者を征伐(せいばつ)して(よろ)し。(よろ)しからぬことはない。

上六
二爻と同じく(めい)(けん)とあるが、これは馬融の注釈の通り「(めい)(けん)」であろう。何が謙であるかに惑うことである。同時に謙も過ぐれば、侮りを受ける。或は自国の中に服せぬ者も出て折角の志もまだ達成できぬことになろう。こういう不逞(ふてい)(やから)は征伐してよろしい。

14日

十六 ()

雷上(らいじょう)地下(ちか) 雷地豫(らいちよ)
自適の道」。大有を謙徳で承ければ必ず「()(らく)」する。豫は「たのしむ」。「あそぶ」である。勢力もでき、人望も集り、万事順調であるから余裕綽々として遊び楽しむことができる。故に誤って「怠る」ことになる。

これを「あらかじめ」よく考えて、道理に随ってゆかねばならぬ。「遊び楽しむ」と、「怠る」と、「あらかじめする」とは、豫の三義である。

15日 自適の道 卦の面より見れば、地上に陽気の雷動する象であり、春である。順()にして動く() 天地・順を以て動く。故に、日月(にちげつ)(うやま)らず、四時(しじ)たがわぬ。聖人・順を以て動く。則ち刑罰清くして民服する。
16日 (すう)(とく)

豫は九四が主で、資格・上下をよく補導する象であり、外に有力な藩候を建てて威令(いれい)を行う象である。

春遊(しゅんゆう)(ふけ)ってはならない。雷の奮うように、民心を高揚するような音楽を作り、徳を(とうと)び、天帝や祖宗の祭を盛んにせねばならぬ。
17日 志操堅固(しそうけんご)

初六

九四に応じ、どうも始に当って驕り楽しむ傾向が見える。早くも志・窮する。凶。

六二
志操(しそう)堅固(けんご)なること石の如くして、速やかに怠惰(たいだ)逸楽(いつらく)を斥け、変わらずにゆけば吉である。二爻は中正である。あくまでも中正でなくてはならぬ。

18日

豫悔(よかい)

六三

豫す。悔いること。遅ければ悔あり。「く」は目を見張って上を()ること。みあげることで、九四を指すこと勿論である。二爻で戒慎(かいしん)せねばならぬのだが、どうしても、驕奢逸(きょうしゃいつ)(らく)に心ひかれ。これを悔ゆること遅ければ、文字通り後悔になるであろう。「豫悔(よかい)」が大切である。

九四

由豫(ゆよ)す。とにもかくにも前半三段階、謙徳を失わず修省努力してきたからには、自分よりも人々が有り難がって、自分を頼りに楽しむ。それが由豫である。天下とともに楽しむこそ、志大いに行われるのである。

19日 積善(せきぜん)

六五
九五の王位(おうい)であるが、陰徳を以て居り、下に人望の盛んな(けん)(しん)(九四)が居る。「貞にして()む」ところがある。然し、(つね)を失はねば亡びることはない。

上六

結局、逸楽に目がくらむ。然し、そうなってもよく(かわ)りさえすれば、積善(せきぜん)のおかげを以て(とが)はない。

20日

十七
(ずい)

澤上(たくじょう)雷下(らいか) 沢雷随(たくらいずい)
順応と自得」。魅力を感じて、人が争って付き随ってくる象である。成年の男子が乙女に随喜する象である。

やはり貞なるに(よろ)し。
この時、好い気になって共に遊び過してはならぬ。時が来れば、さっさと退いて、休養せねばならぬ。随のきびきびした動的意義は大なるものがある。

21日 (さい)に返る

政党の領袖(りょうしゅう)に追随者が沢山でき、首尾よく組閣したような場合など、これが適用されるべき切実な例である。即ち時義(じぎ)大なるものがある。

この時、首相たる者の皆と一諸になって愉快愉快では談ずるに足りない。夜になったら、さっさと政客の群を去り(さい)に返ってゆっくりとくつろぎ有益な書を読むなり、会心の友と食を共にして清話(せいわ)するようでなくてはならぬ。

22日 堂々と 初九
今までの仕事が(かわ)ることがある。従前通り道を守ってゆけば吉。私党を作らず、正しい人々と弘く交はればよろし。

六二
九五と正応している。堂々と大義の為に随うべきである。それを初九と陰陽相引いて、卑しい結託をすれば、大切な人から見放されるであろう。 

23日 志操(しそう)(かわ)らぬこと

六三

この地位は最も私心無く、上下の結びとなるべき所である。然るに上なる九四に()かれ、故旧(こきゅう)同人(どうじん)(そむ)き易い。志操(しそう)(かわ)らぬことが大切である。

九四

九五を(たす)ける(けん)(よう)の地、下の勢望(せいぼう)を獲ることができるが、陰の位で、野心を持ち、上を(しの)ぐと解され易く凶である。道義的に(ちか)う所あれば、妥当しない。明は盟である。

24日 興亡の理ここに在り 九五どこまでも善を育ててゆくことである。吉。

上六
随も極まると復た人心の離散となる。結局は、いかにしてこれを(つな)ぎとめ、結びを強くするかである。折角、湯王より連綿として続いて来た

(いん)(ちょう)も、(じゅう)(おう)の末に至って、天下解体し、人民離散しようとするに方つた、西伯(文王)西山(岐山)(まつ)って、新に人心を(つな)いだ。興亡の理、ここに深く省察すべきものがある。

25日 ()(りん)

六三
ここに至って咸臨が「(かん)(りん)」となってはならない。それは当初の感激を忘れ、好い加減にやってゆこうとすることである。これを心配して警戒すれば咎はない。

六四
正位にして初爻と正応している。(たく)の三爻に比して、懇切に臨まねばならぬ。これを「()(りん)」という。
 

26日 (とん)(りん)

六五

衆の悦服推戴(えっぷくすいたい)するような智慧に輝いた(のぞ)みかたが出来れば吉である。

上六
臨の至極(しごく)は、また功成り遂げた人は、すべて人間味が(あつ)くなければならぬ。何事に臨んでも(せき)(とく)(あつ)くして、始めて人々の風俗も敦厚(とんこう)になる。これを「(とん)(りん)」とす。

27日

十九
(くわん)

風上(ふうじょう)地下(ちか) 風地觀(ふうちくわん)

国民教化と自戒」。臨は要するに内なる誠を(あつ)くすることである。それが宗教的敬虔さを以て表れたものがこの(くわん)である。

衷心より誠意発して厳粛なる態度(ぎょう)を以て神前に進み、手を洗って、これから神にお供えをしようとする。それを参列の人々が粛然として顴ておる、これが顴だと卦辞に説いている。 

28日 大顴(だいかん)仰顴(ぎょうかん)

顴におのつがら二つの場合がある。一つは大顴(だいかん)といって、大所高所から見渡すことであり、他は仰顴(ぎょうかん)、即ち下より仰ぎみることである。

大象(たいしょう)に説いている通り、この卦は神に誓って、自に修め、人々の模範となり、広く世界を見渡し、民衆を顴察して、教を()き、下々が仰ぎ顴て、おのづから感化されるようにすることである。
29日 ()(かん)

初六

児童のように純真な然し幼稚な心を以て顴る場合である。童顴という。普通人なら、これでも咎はないが、志あり、指導者としての責任ある人々、君子はこんなことでは足りない。

六二

地位低く、(けん)狭く、わづかに(のぞ)きみる程度である。専ら家庭に生活する女子なら(よろ)しいが、丈夫(ますらお)はそれでは()づべきものである。()(かん)という。

30日 幕賓(ばくひん)

六三

三爻は内卦(うちけ)の首で、これより愈々影響力の大きくなる立場に進む際であるから、自分の現在の実態、わが業績等をよく自ら観察して進退せねばならぬ。

六四
国家の政治教化がどのように行われ、文明がいかに発達しているかという、「国の光り」を観る。そしてその人物才幹が単に臣事(しんじ)の程度に止まらず、能く国王の幕賓(ばくひん)として尊重せられるほどがよろし。

31日 己の在り方を観る 九五

国の光りはつまり国の統治者の反映である。王者はこの意味に於て、まづ能く己自身の在り方を反観せねばならぬ。

上九

究極はその生(在り方)を観るものである。君子であれば咎はない。常にこれではいけないというだけの志がなければならぬ。