太平・無事の曲者

4月、私は85歳となった、日々登山し、勉学し日常生活全般に亘り先ず規則正しい生活をしている。

太平無事と言う言葉がある。大変に結構なことだ、だがこれは極めて曲者でもあるというのが85年間生きてきた人間としての実感である。

我々の生活・肉体の動向でもそうだが、余りに平穏無事だと肉体というものは直ぐ、だらしなくなるのも事実である。実人生も、そうである。戦中戦後のことを思うと本当に良く生き残ったと思う。戦後、肋膜で一年休学したが以後今日まで健康に過せた。その苦しい体験が結果的に自分を精神的に強くしたと確信する。人工的にでも苦難の体験を求める事が人間には大切なことだとも実感する。

身体、精神というものは、鍛えなくては駄目だというのが私の体験である。人間は肉体と精神で成り立っているが、何の苦しみもないと精神的には伸びてしまう、つまらなくなる。楽をしてはよくない、そこが身体・人生というもののデリケートな一面でもある。

太平な世の中もそうであり、太平だと、どうしても人間は堕落する。平和の真っ只中に生きる人間として、この風潮を直そうと思うならば、どう対処したらいいか。それは「紀綱を正す」、即ち何事によらず筋道を通す。そして、現代風俗に負けない、現代風俗に完全に従わないで、この風俗を直し正していく気概が大切なように思える。

学生は学生らしく、社員は社員らしく、先生は先生らしく、親は親らしく、政治家は政治家らしく、役人は役人らしく筋道を立てる。筋道を通すことが基本的に極めて大切で、それを放ったらかしにしておいて、いろいろ即席療法の膏薬貼りをやっても、それは駄目なことを85歳の体験から申したい。

       徳永圀典