優れた祖先を、知るべし、学ぶべし 

国民を守ってくれているのが国家である。これを否定できる人は存在しない筈である。否定する人は、愚かというより欺瞞人であり無知であり、世間知らずの田舎者である。「日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれる」と 加藤登紀子が言った。 曾野綾子さんが「そんなに日本が嫌いなら日本人でいることはない。他国人になれば(産経新聞「昭和正論座」)と勧めていた。加藤登紀子は日本は嫌いだと若い時に発言したが、まだ日本で暮らしている。日本という国家が嫌なら日本国の世話になるな、外国に出ていけばよいのである。加藤登紀子はそれが出来ない、日本が良い国家だと示しているようなものである。だが加藤登紀子のような人間が存在するのも事実だ。それは、歴史を知らぬからである。世界史も国史も中国史も韓国史もロシア史も知らぬからである。戦後の偏見に満ちた教育の所産なのである。日本の父祖が営々と築いた日本をもっと現代日本人は知らなくてはならぬ。世界史的に見ても素晴らしい日本人の先祖がこの素晴らしい国を造ってくれたのである。私は色々な日本人、そして父祖の言葉を拾い出してみたいと思う。平成22年元旦  徳永圀典              

元旦

想像以上に歴史に無知な大臣や国会議員

岡田外相の天皇発言には驚いた、民主党の幹部からの批判を初め集中非難を浴びた。一部市町村議員に至っては、商売の片手間の議員だから勉強していない、無知極まりないのが日本の政治を司り、為に近隣諸国、特に韓国、中国からそれに付け込まれている。


それは危機的状況である。原因は、戦後教育に「国史」が欠如していたからである。岡田のオヤジ(イオンのオーナー)は商売ばかりで教育もせず、岡田をロクナ子供にしていないのだ。
自分の国の「歴史」を知らない連中が政治を差配しているから外国人に太刀打ちできないのである。由々しき事態を迎えている。

 1月2日 歴史は長期の目で それともう一つは、歴史を「短期間」で見てしまう、要するに歴史は「全体像」、即ち「長期的スパン」で見なくては、真実は把握できない。その端的な例が、大東亜戦争である。 裏返して申せば、「ここ500年の白人世界史」という俯瞰的、鳥瞰的視野で世界史を見ることから始めなくてはならない。例えば、日本は、中国の言い立てる「歴史観」の罠に完全に嵌まっている人々が多い。
 1月3日  満州事変のこと それは、歴史を1931年、昭和6年の満州事変から1945年、敗戦までの短期間で見るからに他ならない。満州事変調査の為に、国際連盟が派遣したリットン調査団は、7ヶ月をかけて245ページの報告書を作成した。 それは「日本・支那紛争に関する国際連盟調査委員会の報告」である。それによると、調査団は確かに満州国の独立は認めなかったが、日清戦争にまで遡って日本と中国の立場と、両国の歴史を極めて公正に分析している。
 1月4日 リットン報告 報告書の何処にも、現在の日本や中国で言われている「邪悪な日本の軍国主義に対する、気の毒な中国」という単純構図で満州事変を分析している部分は無い」。 それ処か、「世界規模でパワーバランス」が変化した十九世紀に、中国は孤立状態を脱すべきだったにも拘らず「この新たなる接触に応ぜんとするの用意無かりき」と批判されている。
 1月5日 賞賛された日本 日本は「自己の古き伝統の価値を減ずることなく西洋の科学と技術を同化し、西洋の標準を採用したる速度と完全性は遍く賞賛せられたり」と報告している。 リットン調査団は、その日本を攻撃した中国・国民党の激しい反日政策、教科書、人民外交協会など、中国社会の各層で鼓舞された「抗日・反日運動」が中国人民の感情の自然な盛り上がりというより、国民党政府の政策だった面の指摘までしているのである。
 1月6日 守らなかったのは中国 反日教育は当時も現在も、中国不変の国策なのである。米国外交官マクマリーは、1935年、即ち満州事変勃発4年後、満州事変を「中国は満州で蒔いた種を自分で刈り取っている」と書いている。 マクマリーは、「中国との条約を含め国際条約を守ったのは日本であり、守らなかったのは中国であること」、「両国を公平に扱わなかった米国の偏りが、日本にとって耐え難い状況を作り出した」とまで指摘しているのである。
 1月7日 掟破りの常習犯・中国 これらを指摘する評論家も識者も消えつつある上、政治家が不勉強だし、まして国民は無知であり、日本は不当な国際的地位を完全なものにしつつある。それは国民が国史を勉強しないからである。 中国の掟破りは昔も今も日常茶飯事である。領海侵犯、国際法違反、油田問題、靖国問題など溢れている。1926年の関税実施がある。その4年前1922年、ワシントン会議で、各国の単独行動が禁止されたにも関わらず、広東の国民党政府は、突如これを実施した。
 1月8日 誠実な対処をした日本 日本はワシントン会議の参加諸国が集り協議すべきだとしたが、アメリカは中国のその非を咎めず逆に日本の要求を拒否した。このようなアメリカの傾向は歴史的にあった。翌年の1927年春、中国の国民党軍が、日米英各国の公館などを襲撃し、暴動と殺戮をほしいままにしたのである。南京事件と言われるこの事態でもアメリカは国民党への制裁行為に加わらなかった。 道理を欠いた、この中国とアメリカとのやり方に直面しながらも、日本は満州事変までは「ワシントン会議の協定文書並びにその精神を守ることに極めて忠実であった。
この事は、当時の各国外交団全員が等しく認めていた」、「当時、中国問題に最も深くかかわっていた人たちは、日本政府は申し分なく誠実に約束を守っていると考えた。」とまでマクマリーは書いているのである。
 1月9日 歴史全体像を見る目を

満州事変と、その後の歴史の責任を日本にのみ求めるのは、もういい加減にして欲しいのであるがその歴史すら知らない日本人のお粗末さである。これでは外国の言いなりである。日本の責任を見つめながら、米国と中国、そしてソ連の行動を分析

して、歴史全体像を見つめる新しい視点を日本人は持たなくてはならぬ。
それなしには、未来永劫、中国に恫喝され、日本の領海を侵され、資源を奪われても、尚、中国の顔色を奪われて尚、中国の顔色を覗う国のままなのであろうか、愚かしい。
1月10日 マクマリーの言葉「中国人の本性」 人権意識が甦った中国人は故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のために向こう見ずに暴力に訴え挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとしても力で反撃されそうな見込みがあると、オドオドするが敵対者が何か弱みの兆しを見せると、忽ち威張り散らす。 中国に好意を持つ外交官たちは、中国が外国に対する敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ、一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。(1935年の覚書の一部要約)
1月11日 国を思うということ

国を思い、国、国民の為なら死んでもよい、と父祖達は思って身を捧げてきた。そう言う想いを私も少年時代には思って育った。そのように思う人たちが人口の大半を占めていた時代が半世紀前には日本にあったのだ。その国・国民を思う気持ちとはどんなものかが本当に分からねば、明治維

新も、日露戦争も、大東亜戦争も分からないであろう。アメリカの占領政策と、それを引き継いでいる勢力―社民党とか菅直人のリベラル等々―はそのような気持ちを日本の若者に完全に忘れさせ忘却の深淵に投げ入れようとしてきたのである。国を思う気持ちが日本の若者に忘れられて果して良いのであろうか。
1月12日 正気ノ歌

江戸時代の藤田東湖の「正気ノ歌」は私が小学校4-5年生の頃に覚えた歌である。これを暗誦し、日本に生まれた「誇り」をしみじみと感じたものである。書き出しのみ示す。
天地(てんち)正大(せいだい)の氣、(すい)(ぜん)として神州(しんしゅう)(あつ)る。(ひい)でては、不二(ふじ)(がく)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋(せんしゅう)(そび)(そそ)ぎては、大瀛(たいえい)の水となり、洋洋として(はつ)(しゅう)(めぐ)る。(ひら)いては、萬朶(ばんだ)の櫻となり、(しゅう)(ほう)(とも)(たぐい)ひし(がた)し。 ()りては、百錬の鐵となり、鋭利なることぼう()つべし。(じん)(しん)(ゆう)()武夫(ぶふ)(ことごと)好仇(こうきゅう)~州(しんしゅう)(たれ)君臨(くんりん)す、(ばん)()、天皇を(あお)ぐ。皇風(こうふう)六合(りくごう)(あまね)く、明徳(めいとく)は大陽にr(ひと)し。世に()(りゅう)無くんばあらず。正氣(せいき)、時に光を(はな)つ。
1月13日 正気ノ歌「語彙解説」 天地(てんち)正大(せいだい)の氣とは、天地間に充ち満つる正気。(すい)(ぜん)とは純粋であり絶対に邪気を混じない。神州(しんしゅう)は日本のこと。不二(ふじ)(がく)は富士山。巍巍(ぎぎ)は高く聳え立つさま。千秋(せんしゅう)は千年の義であり、久遠(くおん)、永久の意味。大瀛(たいえい)は大洋、大海。(はつ)(しゅう)は日本国の異称。 萬朶(ばんだ)は、花がついて垂れた枝。(しゅう)(ほう)は多くのかぐわしい花。百錬(ひゃくれん)の鐵は、幾度も鍛えに鍛えた結果出来上がった鉄、即ち日本刀のこと。(ぼう)は兜のこと。(じん)(しん)は忠愛の情の厚い臣。(ゆう)()は熊とヒグマ、勇猛の士をさす。好仇(こうきゅう)はよい相手、仲間のこと。(ばん)()は永久。皇風(こうふう)は皇室の感化。六合(りくごう)は東西南北の六方、全世界を指す。明徳は光明の徳、天皇のご神格のこと。
1月14日 正気ノ歌「解説」 天地正大の気は、世界でも一番純粋な形で神州、つまり日本に集まっている、その証拠に国土に於いては富士の高嶺が屹然として聳え、その地から流れる水が太平洋となって島国を囲み英気を巡らせている、咲く花は枝振りも素晴らしい 桜で・・・と、技術から人心に至るまで日本礼讃が延々と続く。
そして最後に、そんな素晴らしい日本でも、悪しきものが興隆する時はある。然し、将にそんな時こそ、正気時に放つのが日本の真髄だと締めくくるのである。
 
1月15日 正気、時に放つ光りとは 東湖の視点で日本歴史を顧みる。例えば、道鏡が出て天皇に成り代わろうとしたギリギリの時に和気清麻呂が現れて正された。また平家が奢り始めたその時に源氏が軌道を変えた。蒙古襲来の絶対絶命の時に神風が吹いたとか幕末の政体が国を維持出来ず欧米列強に浸食されようとした時に維新が成功した。 不思議に日本の国は、最後の肝心要の時に正気が光を放ってきているのである。
その証が世界に類例のない皇統の連綿によるものである。世界にかかる国はない。

現代も、皇太子に男子がいなかったが、秋篠宮家に世継ぎの皇子がお生まれになり緊急事態は避け得た。
1月16日 命懸けで生きる男 (こうべ)(めぐ)らせば蒼茫(そうぼう)たり 浪速(なにわ)の城、(ほう)(そう)(また)聴く杜鵑(とけん)の声 (たん)(しん)一片(いっぺん)人知るや否や 家郷(かきょう)を夢見ずして(てい)(きょう)(ゆめ)む」

振り返り見れば、もう海上遥か彼方へ茫々(ぼうぼう)と僅かにそれかと見える大阪の城。
船窓にもたれて又寂しいホトトギスの声を聞く。
こうして東西に旅しているのも、国を思えばこそーだが、誰れかこの心を知ってくれるだろうか。
いつも夢は家郷の父母でなく、帝都、天朝の御事ばかりなのだが!!
 

1月17日 命懸けで生きる男吉田松陰 昨日の詩は誰の歌であろうか、吉田松陰の作である。命懸けで生きる男の感慨である。松陰は大変な親孝行者であったが、愈々郷里を立ち船出しようという時に「生きるか死ぬか分からん。 だが今は自分の真心を持って日本の事を考えるのだ。家や郷里のことは暫くおこう」と決意するのだ。明治維新は、こう言った人たち自発的な集まりによってこそ成し遂げられるのだと思う。
1月18日 帝郷とは父祖の国のこと 一旦、何かを成し遂げようとする時には、一先ず自分のことを忘れてそれだけを考える、という心意気は今の時代にも通ずるで。 仕事で物凄く大きな契約を締結に行く、あるいは留学でも然り、また外交官が外交交渉に行くと言った時でも、この「家郷を夢見ずして帝郷を夢む」の志で是非共やつて欲しいのである。
1月19日 辞世の句 吉田松陰 ()れ今国の為に死す 死して(くん)(しん)(そむ)かず 悠々(ゆうゆう)たり 天地の事 (かん)(しょう)明神(めいしん)に在り。」 私は今こそ国家の為に身命を捧げよう。死すとも忠君孝養の道に外れることはない。永遠にして果てしなく広い、この天地のことを思う時、神々よ、私の()(こう)の正しきをご照覧ください。
小沢一郎に教えてやりたい。
1月20日 享年30。
生涯独身。

悠々たり天地の事、鑑照、明神に在り」。

これが30歳の青年の死に直面した時の言葉である。

死に直面した時の、覚悟を越えた、悟りの清々しさが伝わってくる。このような人生観は、つい五十年前までは多くの日本男児が抱いていたものである。 
1月21日 日本人の思想的伝統 国を思い、親を思い、その教えや道に違えることなく、自らを律した生き方を構築するのは、鎌倉時代以降、武士に広がった禅的な思想と共に日本の思想的伝統である。 それが戦後アメリカが導入した教育により、かかる視点は学校教育や芸術文化から徹底的に排除されてしまった。だが、日本の心根には脈々と伝わっておると信じたい。
1月22日 泉岳寺前を過ぎて

かくすればかくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」。
これは泉岳寺前を過ぎてとある。赤穂義士の気持ちを歌ったものである。元禄泰平の世、徒党を組んで吉良家に意趣返しすれば全員切腹となるのは必定であり分かりきったことだ。しかし、そうしないではおられなかった。

「やむにやまれぬ魂」というものがあるのだと松蔭は自身の実感を込めて詠んだのである。この魂は何も日本だけのものではない。国王や教会に叛乱すれば磔にされるのは分かっていながら自分の思う正義を押し通したのは西洋でも枚挙にいとまがない。
人間としての魂は万国共通である。
1月23日

辞世の句

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」。事をなさんとする当然の気概であり、これを大和魂というが、これは現在でも備えている人たちもいるし中世に日本にきた宣教師などもこの気概を持っていた。 戦後、日本の伝統や精神主義を完全に否定しようとしたマッカーサーや大和魂という言葉に異様に過剰反応する日本人がおり教育界から消滅した。だが、それに共感する血は今尚私たちに流れている。素直に認めていいものである。
1月24日 佐久間艇長の遺言 「少官ノ不注意ニヨリ陛下ノ(テイ)ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳無シ、サレド艇員(テイイン)一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ、我レラハ国家ノ為メ職ニ(タオ)れシト(イエド)唯々(タダタダ)遺憾トスル所ハ 天下ノ士ハ之ヲ誤リ以テ将来潜水艦ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ、(ネガワ)クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艦ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレンコトヲサスレバ我レ等(ヒトツ)モ遺憾トスル所ナシ。」
1月25日

沈没ノ原因 瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依テ手ニテ之ヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ)約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ、

沈据後ノ状況、一、傾斜約仰角十三度位 一、配電盤ツカリタル為メ電燈消エ、  電纜燃エ 悪瓦斯ヲ発生 呼吸ニ困難ヲ感ゼリ、十四日午前十時頃沈没ス、此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニイ力ム、
1月26日

一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ、燈消エ ゲーヂ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水シ終レルモノト認ム、電流ハ全ク使用スル能ハズ、電液ハ溢ルモ少々、海水ハ入ラズ「クロリン」ガス発生セズ、残気ハ五〇〇ポンド位ナリ、唯々頼ム所ハ手働ポンプアルノミ、「ツリム」ハ安全ノ為メヨビ浮量六〇〇(モーターノトキハ二〇〇位)トセリ

(右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)溢入ノ水ニ浸サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ、余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ、細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ、世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン、サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス、
1月27日

一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ、排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ、此ノ辺深度ハ十尋位ナレバ正シキモノナラン、
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、

カカルトキニ困ル故、幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽クセリ、満足ニ思フ、我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス、サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出ノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ、田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)
1月28日 公遺言 謹ンデ陛下ニ(もう)ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ、左ノ諸君ニ宜敷、(順序不順)
 一、斎藤大臣 一、島村中将 一、藤井中将 
一、名和少将 一、山下少将 一、成田少将 (気圧高マリ鼓マクヲ破ラルル如キ感アリ)
 一、小栗大佐 
 
一、井出大佐  一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(竜) 一、松村少佐(菊)(小生ノ兄ナリ)
 一、舟越大佐、 一、成田鋼太郎先生
 一、生田小金次先生、
―十二時三十分呼吸非常ニクルシイ瓦素(がそ)(りん)ヲブローアウトセシシ積リナレドモ、ガソリンニヨウタ 一、中野大佐、十二時四十分ナリ、
 
1月29日 諸行無常ノ世ニ処スル人世ノ明日ヲモ計リ知ルベカラザル、実ニ朝露ノ如シ、サレバ人タルモノ予メ生前ニ於テ死後ノ善策ヲ講ジ置カザレバ、一朝無常ノ嵐ニ誘ハルルニ際シ、
遺族ヲシテ徒ラニ路頭ニ迷ハシメ、或ハ骨肉ヲシテ不義ノ争ヒヲ譲サシムルニ至ルコトアラン。
我レ此ノ事アランコトヲ慮リ、我ガ所有権内ニアル確実ナル遺産ヲ予メ分配シ、以テ我ガ無キ後、老父ノ養老、舎弟ノ学費、遺女ノ養育、修学、及結婚ノ諸費ニ充テシメ、他日ノ争端ヲ未発ニ防ガント欲ス。夫レ各自宜シク人道義理ヲ重ンジ、決シテ相犯スナカレ。苟モ我ガ言ヲ無視シ、之ニ背クモノアラバ、天ハ許サジ。・・・中略・・・
1月30日

章ヘノ贈与金ハ、実父可盛殿ニテ管理ス。大学卒業後ハ必ズ自分自活ヲ為スベシ。但シ右贈与金ノ残余ハ、企業ノ資金トシテ使用ヲ許ス。章、大学卒業後ハ実父ヲ養フ義務アリ。又吾ガ女ヲ監督スル責アリ。但シ父ヘノ配余金ニハ手ヲ触ル可カラズ。輝子ヘノ贈与金ハ、父上監督シ、父上死後ハ章及外戚伯父糟谷宗一殿トノ連帯責任ヲ以テ之ヲ管理シ、輝子ノ為メ有利ニ使用スベシ。輝子不幸ニシテ幼死セバ、右金ハ章ニ贈与ス。輝子成長後ハ養子ヲ容レ、吾ガ後ヲ継ガシムベシ。

右金ハ養子ノ学資ニ流用スル事ヲ許ス。但シ之ガ監理ハ、章及宗一殿ニテナシ、其ノ人選及監督等モ右両人ニテナスコトヲ望ム。終リニ臨ミ尚ホ一言ス(章及輝子ヘ)
健康ハ人生ノ活動ノ要素ナリ。各自健康ヲ第一トシ、正心誠意、熱心以テ己ガ職務ニ尽粋スベシ。高潔ノ精神ト清廉ノ行トヲ以テ自ラ任ジ、人生ノ義務ヲ全フスベシ。自営自活ハ独立男子ノ本文ナリ、女子ノ本文なり、寸毛モ卑劣ノ依頼心ヲ起スナカレ。 四十三年一月
      於呉
可盛殿 章殿  輝子殿
1月31日

此書ハ糟谷宗一殿ニモ示ス可シ。父上ハ既ニ老境ノ御身ナリ、万事章ノ意見ニ従ハレタシ。決シテ頑説ヲ主張シ、
吾ガ遺族ノ将来ヲ誤ラシムルコトアリ給フナカレ。・・・中略・・・

追補
 
我レ死セバ遺骨ハ郷里ニ於テ亡妻ノモノト同一ノ棺ニ入レ混葬サスベシ          
            終