安岡正篤の言葉   平成2610月度 徳永圀典

東洋哲学の真骨頂

 私の好きな慈雲尊者という真言律の名僧がある。大和の葛城の人だが、亡くなるまで講義をしておられて、その中にいわゆる生命の灯が消えかかってきて本が読めなくなってきた。生命の灯が消えかかっていることを和尚ご自身はまだご存じない。それで侍者(じしゃ)を呼ばれて「油をさせ」と言われた。小僧は行ってとにかく油を足した。しはらくしたら又「暗い、油をさせ」と、もうご本人は目が見えない。生命の灯がまさに消えかかっているのだから・・・。

「はて、さっき注いだばかりだが」と小僧が見ると、まだいっぱいある。それで「和尚さま、油はまだいっぱいございます」と言ったら、「ああ、そうか」と言われて「禅家では()脱立(だつりゅう)(ぼう)(座ったまま亡くなったり、立ったまま死ぬこと)とやらをやられるそうだが、わしがはの、横になるのじゃ」と、お釈迦さまのように横になってそのまま亡くなられたという、おもしろい死に方だね。

こういうふうにして天地悠々たるところが東洋哲学の一つの特徴である。     知命と立命

(ずい)(えん)(ぎょう)、ご縁に従え

 人間はいくら理想をもって実践に励もうと思っても、手がかりがなければ観念の遊戯、煩悩になってしまう。手がかりというものが即ち縁である。いかなる因も、因からそのまま果にはならない。因果と言うけれども、因から一足飛びに果にはならない。因には何かそこに手がかりがあって、そこから果が生まれてくる。これを縁という。即ち縁から起こる、縁起である。因果は言い換えれば縁起である。

因果は限りないけれども、すべてこれは縁から起こってくる。そこで、どういう縁を持つかということが一番大事である。そこで縁という字を日本語に訳す時には「()る」と読む。いろいろの問題が起こってくるのは、限りない要素であるところの因が、何かを手がかりにして、そこから起こってきて限りない果を生む。それが又いろいろの反動を生んでくる。即ち報になってくる。これは面白いですね。 禅と陽明学

 

 錬れた人物の少ない戦後

 今日の日本にはシンギュラーポイントが沢山ある。これに処するには心がけの出来た人、修練のできた人でなければならぬ。これを現代の心理学者もmature mind と言っています。

今日の世界のいろいろな不幸、禍は、もっぱら人間が機械的、物質的、科学的、技術的には異常な発達をしたが、その反面、精神的、道徳的にはアンバランスがある。そこから生ずる人間のimmaturity 即ち、錬れていない、出来ていない、幼稚である、このimmature mindが大きな問題を引き起こすのであります。

いかにして現代人のmature mindを養うかということが心理学的見地から見ても重大な問題であります。 知命と立命

優と憂、人間は経験で憂えなければ人物が出来ない。

優という字はまさるという字であり、ゆったりする、余裕があると

いう一連の意味があるわけです。人が憂うと書いてある。文字をだ

んだん作っていった人びとの深い経験と覚りがこの文字によく表れ

ている。人間はいろいろな経験にあって憂えなければ人物が出来ない。何の心配もなく平々凡々に暮らしていたのでは優人、優れた人になれないのです。大いに憂患を体験して悩みぬいてこないと人物ができない。いろいろの問題について経験を積み、悩み、憂いを積んで思索し、鍛錬されて初めて余裕、即ちゆったりとした落ち着き

が出来る。そうして人間が優れてくる。黄河の水もしばしば人間に

苦労させた。優游(ゆうゆう)として自適すると言ますが、適という字はかな

う、いつの間にという文字、同時にゆくという字であります。優游(ゆうゆう)として自ら()これが「優游(ゆうゆう)自適」です。黄河の長い惨憺たる治水苦心の結果は優游(ゆうゆう)自適に落ち着いたわけです        禅と陽明学