高松塚古墳の被葬者の謎
1月1日 | 高松塚古墳の被葬者の謎 | いわば古墳文化の掉尾を飾る高松塚古墳、周知のようにこの古墳は昭和47年の発掘調査によって見事な壁画が発見されたことから、一時期さまざまに話題を提供しました。高松塚古墳は江戸時代は文武天皇稜とみなされていましたが、明治に入って文武天皇稜が別に比定されると、以後、完全に忘れ去られ国有地であった為に辛うじて開墾をまぬがれているに過ぎない状態でした。その見棄てられた古墳から余り立派な壁画や貴重な遺物が発掘された為に、その意外な発見が第七世紀ごろの古代史の謎を解く鍵になるのではないかと大きな期待が寄せられたのでした。 |
2日 | 埋葬についての意識の変化 |
話題の中心はその立派な遺物や壁画からして、被葬者は古代史上に名を残している人物ではないかと言うことでした。然し、この点に関しては未だ皇族ないし上級貴族であったろうという発見当時の所見から進展を見ない状況です。 |
3日 |
終末期古墳にみる文化の多様性 |
そのように被葬者という点では謎に包まれたままですが、こま古墳が持つ資料的な意味は貴重なものといわれます。それは考古学や古代史はもちろん、天文学史・美術史など当時の学問・文化を詳しく知るために豊富な情報を提供しているのです。 |
4日 | 豊富な情報を提供 |
壁画には四神図・星宿図・人物図が描かれ、当時の思想や学問・風俗を反映したものと言われています。それは考古学や古代史は勿論、天文学史・美術史など当時の学問・文化を詳しく知るために豊富な情報を提供しているのです。 |
5日 | 高句麗や中国の影響は強い |
また四神を題材にした幡や持ち物は、第八世紀初頭の朝賀儀式などに使用されたことが文献上も確認されています。さらに、人物図などにもまた四神を題材にした幡や持ち物は、第八世紀初頭の朝賀儀式などに使用されたことが文献上も確認されています。さらに、人物図などにも高句麗や中国の影響は強く女性図などは中国陜西省の永泰公主墓の壁画と構図や持ち物などに類似点が多いと言われています。 |
6日 |
洗練された独自の文化体系 |
ちなみに遺物の中の海獣葡萄鏡と言われる鏡は、中国の隋・唐時代のもので、全く同形のものが中国陜西省で出土していることが知られています。 |
7日 | 律令国家の完成を示す高松塚古墳 |
壁画や文化面にこれ以上深入りしませんが、こうしたことから、高松塚古墳が構築された頃の日本は、既に洗練された独自の文化体系を築き始めていたといえるかもしれません。そして漆喰の上に金箔や銀箔を貼り、極彩色で描かれた高松塚古墳の華麗な壁画は、そうした文化的活動にかなりのエネルギーを費やすことを可能にして政治的な安定状況を示しているように思われます。即ち律令国家の完成という状況を。 |
8日 |
註 海獣葡萄鏡 |
中国鏡の一。隋・唐のもので、特に唐代に盛行。背面に獅子形のつまみを中心にして海獣文と葡萄唐草文をあしらってある。 |
9日 | 第30講 |
末期古墳と氏族制度の終焉 |
9日 | 氏姓と古墳文化 |
これまでの講義で見てきましたように、総じて古墳の耐用はその当時の社会組織、社会構造に大きな影響を受けています。例えば、中期の巨大古墳であれば、被葬者とその墳墓を造る人々の上下の支配関係が古墳を通して如実に示されているわけです。 |
10日 | 墳墓これを語る |
こうした視点に立つならば古墳と国家の発展が結びつき歴史解釈の上で重要な働きを示すようになります。このことは正しく「記録なきところ、墳墓これを語る」という諺があるほどで、古墳が歴史的事実を立証する具体的な材料となるということです。 |
11日 | 六世紀までの古墳回顧 |
それでは、これまで見てきた第六世紀までの古墳を全体として振り返ってみた場合、どのような歴史的事実が確認できるのでしょうか。 |
12日 | 共通する歴史的事実 |
各期における古墳が夫々の時代の社会情勢を反映している事はこれまで述べて来たとおりです。然し、そうした各期の特徴的な歴史的事実とは別に、古墳の変遷を通じて共通する歴史的事実もみてとれると思います。 |
13日 | 自由裁量 |
即ち、第六世紀までの古墳は特にそれを造るための法的な規制が殆どなく、みんなが自由に古墳を営んでいたという歴史的事実に気づかれるのではないでしょうか。力のある者ほど大きな古墳を造る、力のない者は造らない、或は力に応じた古墳を造る、という古墳造営における自由裁量がみられるのです。 |
14日 | 氏姓制度 |
こうした古墳造営にみられる自由さこそは、律令体制以前の所謂氏姓制度の社会を反映したものと把握できます。逆に言えば、古墳造営の態様が語る実力支配の社会こそ氏姓制度の社会をよく表していると言えるのです。 |
15日 | 大きな曲がり角 |
そして、この論理を推し進めれば古墳造営に関して何らかの法的規制が行われるようになった時、古墳時代は大きな曲がり角を迎えるというだけでなく、氏姓制度の社会は終焉を迎えると考えられます。 |
16日 | 古墳造営にかけられた法の網 |
大化2年、西暦646年、つまり中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼしたクーデター事件の翌年です。この年の正月、いわゆる大化の改新の詔が発せられ、その直後の3月22日の孝徳天皇は墓制に関する詔勅を発布しました。 |
17日 | 薄葬令 |
なぜ薄葬令と言うのかと言えば、それまでの古墳が非常に厚葬であった。例えば、色々な副葬を古墳に入れるなとして厚葬が行われていたのに対し、孝徳天皇の詔勅は、死者を葬るのに厚葬てはいけない。余り手をかけてはいけないと云う詔勅であると云う解釈がなされ、薄葬令と言われているのです。 |
18日 |
「薄葬令」への疑問 |
孝徳天皇の詔勅を「薄葬令」と命名する根拠の一つは古墳の厚葬にあるわけですが、然し中国や朝鮮半島など他の国の墳墓と比較して日本の古墳が果して厚葬と言えるのか、また大化の改新以後に古墳が薄葬になったと言えるのか、そうした点から見て、薄葬令には大いに疑問が生じます。 |
19日 |
中国の薄葬令を見ると、確かに中国の皇帝はしばしば「埋葬は薄葬でなければいけない」という詔勅を出しています。恐らく、それが念頭に置かれたため、孝徳天皇の詔勅も薄葬令だという風に解釈されたのかもしれません。 |
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20日 |
然し、日本の古墳で最も厚葬と思われるものと中国の墳墓とを比較してみれば、例えば中国で厚葬と言われる秦の始皇帝の皇陵の副葬品と日本のそれと比較してみれば、比較するのもおこがましいほど、日本のものは貧弱に見えます。そうであれば、孝徳天皇の詔勅を厚葬と禁止した薄葬の令であると、とすることは余りにも現実ばなれしているように感じるのです。 |
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21日 |
「薄葬令」というべきものではなく「墓制令」 |
実際、詔勅をよく検討してみると、これは「薄葬令」というべきものではなく、「墓制令」というべきものなのです。 |
22日 | 身分 |
詔勅は身分によって墳墓の大きさを規定しているだけです。まず王以上、上層の貴族(上臣)・下層の貴族(下臣)というように支配層を三つの階層に分け、夫々の階層に応じた墳墓の大きさを規定しています。 |
23日 | 庶民の墓室 |
この三階層は盛り土のある墓室の造営、つまり古墳の造営を認められますが、封土の大きさや工事日数や使役できる人数などで差をつけられています。ほかに官僚たちし墓室はよいが盛り土は認められず、庶民は墓室も盛り土も不可でただ埋めるだけと言う具合です。 |
24日 | 墓制令 |
このようにして庶民の墓にまで規制を及ぼしているのを見ると、手厚く葬ることを禁止したというより、今迄自由に造らせていた墳墓に対し、身分に応じた墳墓を造らせることに主眼があると見るべきでしょう。 |
25日 | 「墓制令」と末期古墳 |
「墓制令」の中身と律令体制 「墓制令」はどのような墓を要求しているのか。もう少し詳しく中身を見て見ましょう。 |
26日 | 詳しい中身 |
例えば王以上の身分の皇族などは古墳の内部主体・石室の大きさが長さ九尺、幅五尺、封土は一辺が九尋、高さ五尋と決められ、さらに人夫の使役は千人以内、しかもその千人の人間を七日間使ってよいという規定です。それまでのように何千人も何万人もの人を使って墳墓を造る、一ヶ月かかろうが三ヶ月かかろうが、とにかく完成するまで自由に使えるということはなくなったわけです。 |
27日 |
上層の貴族に対しては、王以上の場合と同様、古墳内部は九尺と五尺ですが、封土は七尋と三尋、五百人の人夫を使って五日以内で仕上げろという規定になっています。下級の貴族も石室の九尺・五尺は同じですが、封土が五尋・二尋半となり、人夫は二百五十人で三日間となっています。 |
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28日 |
それ以下の一般の官僚たちは、石室のサイズが長さ九尺と幅四尺、高さ四尺で封土なし、そして百人の人間を使って一日で造れとなっていて、実に細かな規定が出来ています。 |
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29日 | 私有を禁止 |
問題はなぜこうした規定を作ったのかということですが、これは律令国家完成を目指す大化改新で土地・人民の私有を禁止したからです。 |
30日 | 重要な法令 |
「墓制令」は墳墓造営において具体的な数字をあげ、その範囲内で人民を使えと命ずることで、律令国家の基本原則を徹底させる重要な法令であると考えられます。 |
31日 | 註 |
尺 |