人間は必ず負ける「命との戦い」

愚生85才、これからが本当に生との戦いだー  徳永圀典  平成28年1月


平成28年2月

1日

人間も万物と同様、枯葉のように朽ちて消え再びこの宇宙に散華する、それが大自然の原理である。天国も極楽も人間の願望であろう。

2日 閑話を終え戻る

肉体は大自然に同化しても、人間の精神はこの世に残る、それが魂であり霊魂、即ち残した言葉と事跡であろう。

3日 釈迦のダンマパダ(真理の言葉)こそ

釈迦のダンマパダ(真理の言葉)こそ、現代の知性と意欲ある人間には必要なのである。釈迦は2500年前、インド北東部で釈迦族の王子、修行三昧の末、悟りを開き仏教の開祖となる。仏陀とは「目覚めた人」あるいは「悟った人」の意である。死ねば誰でも、最早や煩悩の消えた存在となり、悟った状態となる、仏となる。生きている間に目覚めて、悟れるようにすべきなのが宗教でなくてはならぬ。私はそれを「生の哲学」と呼ぶ。

4日 法句

呼称は「釈迦」、「お釈迦様」、「釈尊」がある。前述のダンマパダ(真理の言葉)は仏教の開祖としての釈迦の言葉で、短詩形の423句のこと、「法句(ほっく)(きょう)」である。

5日 基本的指針

ダンマパダは仏教を拠り処として生きたい人間が、基本的指針、即ち「どのような心構え」で1.   ものを見、2.   ものを考え、3.   悟りへの道を歩むかを示したものである。

6日 本来の釈迦仏教は前述の如く、ただ念仏を称えれば救われると言う、誰かに救いを求めるものではないのだ。「己れの道は己れで開け」と言う厳しい教えが原点である。神頼みご利益宗教ではないのだ。自分の力で自分の人生を何とかしなくてはならない。男女とも等しく悟れると釈迦は説いている。
7日

現代の如くいかに文明が発達して安楽に暮らせても、人間の本源的、宿命的苦しみを全て除去してはくれない。医学も進歩し、世界一の日本の医学でも、文明でも消せないのが生きる苦なのである。そこから人間の真の生きる哲学の始まりである。

8日

その限りのある人生、そこに生きる人間が、信頼すべき本当の拠り処は何か、何を生き甲斐として生活したらいいのか、それを釈迦の言葉で「生の本質」を思考する一助になるのがダンマパダ(真理の言葉)ではあるまいか。 

9日

日本には仏教の宗派が色々ある。禅宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、日蓮宗などである。仏教の元祖は釈迦である。お経というのは沢山あるが、元をただせば釈迦が弟子達に説いた教えである。だが、現在ある無数のお経は直接の釈迦の言葉ではない。それらのお経の中で、釈迦の言葉を色濃く残しているのがダンマパダ(真理の言葉)なのである、最古層の経典なのである。

10日

いわゆる大乗仏教、他力本願のお題目宗派ではなく、自力本願、即ち自己修行により救いを得るのが本来の釈迦の教えなのである。それがダンマパダであり、世界一古い経典である。ダンマパダのダンマは「法」あるいは「真理」を意味するバーリ語で、パタ゜は「言葉」を意味する。連ねて「真理の言葉」、日本では法句経のことである。

11日

キリスト教のバイブルと同じでタイなど南の国々では広く読まれている。ダンマパダ、法句経の26ある章のタイトルは一対、なまけないこと、心、花、愚か者、賢い者、阿羅漢、千、悪、暴力、老い、自己、世間、ブッダ、楽、可愛いもの、怒り、けがれ、理法にかなった人、道、様々なこと、地獄、象、渇愛、比丘、バラモンとある。 

12日 上座部(じょうざぶ)仏教 即ち小乗仏教のことだが、これは釈迦の教えをかなり正確に残した教派である。ダンマパダを聖典として重視する人たちと言われる。インドから伝播して仏教が南の国々の仏教となる。小乗仏教のことであるが、この表現は、敵対する大乗仏教側からの敵意のこもった蔑称である。南の国々の人々は「上座部仏教」と呼んでいる。

13日

インドから北方の中国へ伝わった仏教もある。大乗仏教というのは、「超越的な救済者や、不可思議な力を借りて己れ自身が釈迦の悟った境地まで行こう」というもの、大衆に好まれて浸透し原仏教に並ぶまでとなった。これが日本に伝播して入ったのだ。だから、日本の仏教は本来のものより随分違ったものになっている。それでは小乗仏教が釈迦の仏教かというとそうでもない。

14日 一切皆苦 これが人生の現実である。人生は滅亡への一直線なのである。不思議な力があり救済してくれる存在など元々ありはしない。我々生きものは「死に向かってただ生きる存在である」。そして「この世は苦しみだらけである」のは間違いない、それも死が近づくにつれて増してくるのだ。我々は「死に向って生きる人」なのである。
15日 唯一救われる道 それは「自分を変えることだ」と気づかれたのが釈迦である。我々は苦しみの輪廻世界にいる、この絶対的な絶望の中で、心の平安を得て平穏な人生を歩むのには「心の平安を保つ」ことだ、それには我々の心が作り出す様々な悪心、悪行がエネルギー源となり増幅して行く、それを停止して安穏な状態に保つ為には、我々の心の中にある煩悩を完全に断ち切ることだと釈迦は悟られたのだ。
16日 自分を変えるしかない

一切皆苦のこの世で平安を保つには心の煩悩を断ち切ることだと気づかれた。人が老いて、衰えて行く、そして死ぬ事は、この世の絶対的な法則、大自然の摂理である。それは絶対である、大自然のあらゆる存在、あらゆる現象、この法は絶対法である。それは受け入れるしかないのだ。それに対応するには「自分を変えるしかない」。対応しても逃れきれないのが現実である。

17日 四諦

しかし、釈迦はそれに対処する方法を発見されたのだ。釈迦のこの悟りを「四諦(しだい)」という。

この世には四つの局面があるという。それは「苦諦(くたい)」、「集諦(じったい)」、「滅諦(めつたい)」そして「道諦(どうたい)」である。

18日 苦諦

苦諦(くたい)とは、この世はひたすら苦しみである、一切皆苦の真理のことである。

19日 集諦

集諦(じったい)」とは、その苦を生み出す原因は心の中の煩悩だと知ること。

20日 滅諦

滅諦(めつたい)」は、その煩悩を消滅させることで苦は消えるのだという真理。

21日 道諦

道諦(どうたい)」は煩悩を消滅させる為の具体的な八つの道を実践すること。

22日

要するに、苦の原因を外的な現象に帰せず「自分の心の在り方」に帰すのが釈迦の教えである。

23日 正道

(はっ)正道(しょうどう)

煩悩を消滅させる為の具体的な八つの道を示された。

人間や大自然、物事の真実の姿に気づかないと、即ち「無明」であると執着してしまう人間、それにより「苦」が発生する。この世の真実の姿・真理を知らないから苦が生ずる。その真実の姿を知れば、それまでの「無明」が「明」に変わる、つまり真実の姿を知れば「真の安らぎ」が得られると言うのが釈迦の教えである。

24日

一、「(しょう)(けん)」 正しいものの見方のこと。二、「正思(しょうし)(ゆい)」 正見による正しい考えを持つ。
三、「正語(しょうご)」 正見による正しい言葉を語る
四、「正業(しょうごう)」 正見による正しい行いをする

25日

五、「(しょう)(みょう)正見による正しい生活を実行する
六、「正精進(しょうしょうじん)」 正見による正しい努力をする
七、「正念(しょうねん)」 正見による正しい自覚をする
八、「正定(しょうじょう)」 正見による正しい瞑想を行う 

26日

正しい思いで、正しい生活をせよという。「正しい」の言葉の中味が肝要である。
一、自分中心の見解を捨てよ。
二、この大自然を客観的に、合理的に洞察せよ。
これらを日々実践して行けば煩悩は消滅するということである。

27日

前述の釈迦の真理の言葉・ダンマパダ・法句経は次のように言う。「仏と法と僧に帰依する者は、四つの聖なる真理、即ち「苦」と「苦の発生原因」と「苦の超越」と「苦の終息へとつながる八つの聖なる道」とを正しい智慧によって見る」190191

28日

「仏」は釈迦。「法」は釈迦の教え。「僧」は現代の惰弱、通常人間に過ぎない、否、門前の朝の掃除も他人任せの修行しない日本の僧など思い浮かべてはならぬ。当時のサンガという僧集団のことである。この三つを「三宝(さんぼう)」と言うが、現代的には「二宝」・「仏法」であろう日本も古代から「篤く三宝を敬え」と聖徳太子の十七条の憲法にもあるが、当時の仏教は国家仏教であり、個人救済仏教ではない。混同してはならぬ。僧は外して「二宝」良いと思われる。 

29日 釈迦仏教の本質「徳永流の見解」



仏教の在り方の本質

仏教の在り方の本質

釈迦は自分の苦悩解決のために修行したのである。他人の救済のためではなかった。これが釈迦仏教の本質である。

私は現代の僧侶を批判する。僧侶は道元禅師の如く墨染めの衣で良いのだ。金襴緞子の衣でのコケオドシは私の如く宗教の本質を知る者には、それは虚仮(こけ)に過ぎない、苦々しいばかりである。

大体、仏教の僧侶は、悩める者を救わなくてはいけない。僧侶が、若者がたむろして非行をするのを盛り場でお説教したら尊敬する。温かい、或いは冷房したお堂で、説教して、口だけで有り難そうに言うのは忌避する。

僧侶は、「背中を見せなくてはならぬ」のだ。自ら、賢明に日常生活の於いて、精進して生きる様を庶民に見せることで庶民の感銘を得るようにするのが本当であろう。

それを見て庶民が「いいな」と頭の下がる感情を抱かせてこそ、我々は寄進し喜捨をするのだ。 

釈迦仏教の本質「徳永流の見解」

一言で申せば、「法燈明」、「自燈明」であろう。徳永流の認識では、「法燈明」とは、大自然のあらゆるものは全て絶対的存在の「法」である。だから自然現象は「法そのもの」なのである。大自然を燈明、即ち「道しるべ」とすることが第一。その因果関係を学ぶことである。そして「自燈明」とは、その法燈明たる大自然の法の因果関係の中で生きる我々人間は、自分が強くしっかりして、他を頼ることなく強く、自分を頼りー燈明―として生き抜くことだと思っている。「拠り所は自分」ということである。己れが道を拓くしかないのだ。 

自燈明を示す釈迦の言葉がある。法句経の160番、「自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ」 

心を強く持ての言葉もある、法句経40番。「この身体を甕のように脆いものと知り、この「心」を都市のように「堅固なものとして」打ち立て、智慧という武器で悪魔と戦え。そして勝ち取ったものは、それに執着することなく護っていけ」  

人間の苦しみには全て原因がある
この世は「一切皆苦」、それには全て原因がある。

森羅万象は絶対法である、そしてその現象には全て原因がある。全ての現象には「因果の法則」がある。因果は「縁起」と「因縁」に分類する。あらゆる物事・現象は全て原因があるということ、原因があって結果がある。それらが繋がっている、因果応報の原理である。釈迦は科学者で、全てのものには原因があっての結果だと指摘された。この森羅万象を動かすものは「因果則」だと釈迦は言われた。科学的にも極めてまっとうな指摘であり、釈迦は現実的、近代的、科学的な思考の持ち主であった。

かかる見地での結論、あの世に就いても釈迦は言われなかった。死後の世界には指摘はなかった。自分しか頼るものはない、自分をしっかり強く生きなさいといわれた。これで釈迦の本質は言い表すことができるのではないか。 

前記に就いての釈迦の真理の言葉
一切は心に発する真理の言葉・ダンマパダ・法句経
1番 ―凡ては心から発した現象だ。「物事は心に導かれ、心に仕え、心によって造りだされる。もし人が汚れた心で話し、行動するなら、その人には苦しみが付き従う。あたかも車輪がそれを()く牛の足につき従うように」  

2番 ―釈迦の教えは厳しい、だから普通の人間には大乗仏教という新興仏教が現世に必要になるのであろう。「愛慕の情から憂いが生じ、愛慕の情から恐れが生ずるる。愛慕の情から離れた者には憂いがない。まして恐れなどどこにもない」 
---かくの如く、人間の苦しみには凡て原因がある。そしてそれは「心」にあると釈迦は指摘する。心の中の悪い要素、即ち煩悩である。愛慕、快楽、でそれが輪廻をもたらす。でもこれはキツイ、大衆には容易に受け容れがたい、常人には無理であろう。   完了します。

平成28年1月

元旦 絶対に到来する「宿命」 釈迦の言葉に「生・老・病・苦・死」がある。至言である。これが我々・生き物の逃れようのない宿命だ。生あるものは、必ず「老いれば、病が必ず生じ、苦しみ、そして必ず死ぬ」
これらの老いや病い、死の苦しみから、人間は「眼を背けることは出来ない」。これらは絶対的に到来する「宿命」である。
2日 命を実感

若い時、生命が溢れている時には「生きる」という実感がないに等しい。単なる生活との戦いである。体力が衰えるようになって初めて「命」なるものが実感として分かる。

3日 命との壮烈な戦い 死が迫るにつれて、「命」なるものとの壮烈な戦いが押し寄せて来る、だが決して勝利はしない、必ず負けて命を落としてゆくのだ。これが生あるものの宿命である。
4日 壮烈な戦い

きれいごとではない、私にもこれから命との壮烈な戦いが待ち受けている。

5日 因果則 生きねばならぬ人間、どうすればいいのか。仏教の開祖・釈迦は言われた、「この世は、原因と結果の因果則で動いている」と。
6日 なるようにしかならぬ

どうにもならぬのである。なるようにしかならない。
病いも、苦しみも、そして死も、受け入れるしかない。

7日

病いも、苦しみも、そして死も、受け入れるしかない。その中で、これらを正しく受容できるように「自分の心の在り様」を整えてゆくしかない。

8日

釈迦は、それが絶対的な人間の苦悩から解放される唯一の道だと説かれた。これが仏教の本質であろう。

9日

だから、本来、我々生き物はどうにもならぬ存在なのである。阿弥陀さんも観音さんも毘沙門さんも、否、神様とてどうにもならないのだ。

10日

お寺にお金を積んでも神様にお賽銭を入れても、どうにもならないのである。

11日

釈迦の仏教は、かくも厳しい現実に対し、己れの修行による解脱のみしかないのが本質である。

12日

それでは、現世は余りに悲しく、修行も辛く、多くの無知な大衆は救われぬから、せめて他力本願の、お題目――南無阿弥陀仏等を唱えたら来世は極楽浄土に行けるという新興の宗教により現世の悩みを和らげる為に編み出されたのではあるまいか。私にはそれが大乗仏教だ、本質的には釈迦の思想とは異なると観る。 

13日 私の高校時代

敗戦直後・高校時代、私は東京赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会の著名牧師・平山照治氏(東京山手教会創設者)により受洗し熱心に聖書を読み主の祈りを捧げ賛美歌を歌っていた。英語のバイブルも読んでいた青年時代であった。

14日

だか、右の頬を打たれば左の頬を、色情を抱くは姦淫の罪を犯すの教え、遂に私は20代後半に撤退した。教養としての聖書、敬虔なる祈りの本質は学んだ。

15日 壮年時代

壮年時代は観音信仰で推移、退職後の郷里では先祖代々の菩提寺檀徒総代を務め、浄土宗五重奏伝の(ぎょう)と秘儀、また逆修(ぎゃくしゅ)を受けた仏教徒氏神神社総代も勤め神道を深く崇めている。日本の神道こそ世界を救う神であるとさえ確信している。

16日 私の
生の哲学

かくの如く宗教に関与を深めて久しい。だが宗教は現世を生き抜く為の「生の哲学」であらねばとの宗教理を持つ。私はかかる宗教的遍歴を持つが宇宙神に就いて最晩年の思索を纏めている。

17日

神とは、

一分(いちぶ)の狂いも無く、法則に従い、大自然を動かしているもの。地球を創り、太陽を創り、月を創り、その上に人間を初めとした地上の総ての動植物を創ったもの、その偉大な力こそ神である」

18日 人間は不完全なもの この神の前には、いかなる人間も単なる被創造物、神たり得ない不完全なものと観る
19日 絶対的な大自然

大自然のあらゆるものは絶対的存在。その地球の存在物には、正、悪、善、邪は元々無い。それらは人間の相対的な価値観に過ぎない。

20日 一神教

宗教は多々あるが、一神教は一つの神的存在者のみを信仰する宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つである。

21日 姉妹宗教

ユダヤ教が最初にあり旧約聖書が作られた。その旧約を新しくして新約聖書としたのがキリスト教。さらに、ムハンマドがそこから作ったのがコーラン。この三つは姉妹宗教、「奉ずる神は同一」だと認識している。

22日 三宗教の聖地

この三宗教の聖地はすべてエルサレム。ユダヤ教は信仰を集めていたエルサレム神殿が聖地。キリスト教はキリストが教えを垂れ処刑され埋葬され復活したとされる場所。イスラム教はムハンマドが一夜のうちに昇天した場所と言う。

23日 実在感ある存在即ち人間

イスラム教は、メッカに生まれ厳格な一神教を唱え、唯一絶対神が預言者たる人間ムハンマドを通じた教えである。キリストも人間。ユダヤ教はエホバの神、全世界の創造神とされ「宇宙の最高原理」のようなものだが預言者以外には不明確な存在、宇宙空間全体の事象に帰納できるとされ、この点は日本の神に似ている。だが実在感ある存在即ち人間と捉えられる。

24日 不完全な人間を絶対化

一神教は不完全な存在である人間が絶対化されている。マルクスレーニンの共産主義、これも一種の一神教であろう。

25日

極めて荒っぽい言い方であるが上述の神々は人間が元祖、共産主義も人間が元祖。不完全な存在である人間を絶対視しており、イデオロギーと観てよいかと思われる。

26日

人間とは不完全な存在、間違いや思い込みをする存在である。ローマ法王が数年前に謝罪はしたが歴史的に一神教は異教徒を殺害しても良いとされていた。

27日 人間は間違うもの

人間は間違うものである。人間は不完全なもので、その人間の生み出したイデオロギーは時に失敗する、イデオロギーでは人間生きて行かれない。ソ連共産主義により人間性は荒廃し、その壮大なる70年に亘る人間実験が失敗し共産主義の虚構を暴いた。

28日 大自然は絶対

大自然は絶対である。その産物である人間は、大自然の原理に素直な生き方が最適で幸福な筈だ。

29日 大自然畏敬 日本民族の神はどうか。一言で申せば、「大自然崇拝」と見て間違いあるまい。大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた。
30日 天地自然の理に適う日本 これを別な表現で捉えれば、大自然、大宇宙、天地自然の法則、宇宙運行の原理を神として畏れ謹み崇めることであり、元々大自然の産物である人間がその生みの親の原理に従って生きるということと同義である。これは大自然の原理に従順に生きる姿勢であり洵に天地自然の理に適ったことである。
31日 日本の原理は自然と一体

大自然の根幹である太陽の化身とされる天照大神を崇める神道は地球の原理と同一でありそれへの信仰は絶対に間違いないこととなる。日本が連綿たる国であり続けるのはこの大自然の原理に適っているからであると改めて確信する。