物部氏の滅亡
平成28年1月度
1日 |
用明紀二年四月条 物部氏の滅亡 |
「用明天皇紀」によれば、即位二年目の四月二日、病気に伏せた用明天皇は、群臣を集めて「朕は仏教に帰依しようと思う。この件でみな話し合え」と詔しました。これに対はし、守屋と中臣勝海は「どうして国神に背いてまで他国の神(仏)を崇拝するのか」と反発しますか、天皇自らが崇仏を唱える以上、仏教受容は動かしがたく、さらに馬子がとどめをさすように直ちに内裏に僧侶を招き入れたので大勢は崇仏に決したのです。 |
2日 | 排仏派・反蘇我勢力を糾合 | 守屋はこれに大いに憤慨しますが、朝廷内では身辺が危ないという通報を得て、河内の別荘まで退き、そこで排仏派・反蘇我勢力を糾合して挽回を図ります。 |
3日 | 中臣と守屋連携 |
中臣勝海も同様に人を集めて守屋と連携し、崇仏派の有力皇位継承者候補の押坂彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛で殺そうとしました。処が、勝海は排仏派の劣勢を知ると、寝返って彦人皇子のところへ参じたのです。勝海はしかし、顔人皇子の所を退こうとしたとき、皇子の舎人に刺し殺されたのでした。 |
4日 |
蘇我軍と物部氏の戦い |
こうして、事態は刻一刻と緊迫の度を深め、蘇我・物部両氏ともに味方を募り、早晩武力衝突が避けられない状況へと進展していきました。折しも、そうした風雲急を告げる最中、用明天皇が崩御なされ、両派の争いに皇位継承問題も絡んできたのです。 |
5日 | 守屋は論争に敗北し、有力な味方の中臣氏も失いましたが、五月、かろうじて穴穂部皇子を自派の天皇として擁立し、穴穂部皇子と仲のよかった宅部皇子も味方にして形勢挽回に奔走しました。 | |
6日 | 馬子、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺 |
然し、六月七日、馬子は額田部皇女から、「穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」との詔をとりつけ(皇位継承に困難な事情があるとき先帝の皇后が政治にあずかることがあった)、翌日までに両皇子を殺害したのです。 |
7日 | 守屋の別荘へ |
翌七月、物部氏の劣勢が決定的なのを確信した馬子は、諸皇子・群臣に守屋討伐の決行を告げました。これに泊瀬部皇子(母親は蘇我稲目の女・小姉君、父は欽明天皇。後の崇峻天皇)や竹田皇子(母は額田部皇女、父は敏達天皇)、厩戸皇子(聖徳太子)などの諸皇子、さらに紀・巨瀬・膳・葛城らの豪族が兵を率いて馬子の下に集まり、またその軍に大伴・阿部・平群・坂本・春日の兵も合流し、諸皇子・諸豪族の大軍で河内の守屋の別荘へ押し寄せていったのです。 |
8日 | 排仏派物部氏は滅亡 |
孤立無援の守屋は、味方する豪族もなく、子弟や奴婢を兵とするのみでしたが、さすがに武門の豪族らしく奮戦しました。しかし、多勢に無勢、遂には勇猛な守屋も矢に射抜かれ、その子もろとも殺害されたのです。こうして、蘇我氏と権勢を争ってきた物部氏は滅亡し、排仏派はその棟梁を殺されて息の根をとめられたのです。 |
第36講 蘇我氏の誤算と崇峻天皇の暗殺 |
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9日 |
蘇我独裁体制の確立 |
物部守屋を敗死させた蘇我馬子は、物部氏所有の田荘や奴婢を全て没収し、それを荒陵寺(後の四天王寺)に寄進するとともに、そのうちの田一万頃(頃は中国の地積の単位で百畝の面積に相当)を迹見首に与えています。馬子は皮肉にも、排仏派の棟梁・物部氏の財産を崇仏のために役立て、守屋を射殺した人物である迹見首に報奨として分け与えたわけです。 |
10日 | 天皇外戚家蘇我氏 |
馬子がこうした戦後処理によって物部氏を完膚無きまでに葬り去ると、もはや対抗できる豪族はいなくなりました。あえて、対抗し得る勢力を探すならば、それは天皇家ということになります。しかし、当時の天皇家は既に蘇我氏の血が色濃く混ざっており、外戚家である蘇我氏を抑えることは天皇と雖も困難な状況になっていたのです。 |
11日 | 蘇我独裁体制 |
こうした政治状況の中で、蘇我氏は大臣として執政権を独占するとともに、外戚家としての権威で天皇が執政に関与することさえ排除していき、独裁体制をゆるぎないものとしたのでした。 |
12日 | 註 四天王寺 | 荒陵寺・天王寺とも言う大阪市天王寺区元町にある天台宗の寺。山号荒陵山。587年聖徳太子が攝津玉造の岸に創建したのに端を発し593年(推古一)南の荒陵に建立。836年(承和三)落雷による火災後、幾度も焼失したが後復旧。 |
13日 |
天皇家と蘇我氏の対立構造 |
蘇我氏の独裁体制にとってのアキレス腱とも言うべき存在は天皇です。外戚家として天皇家に深くかかわり、皇位継承者さえも思い通りに出来る蘇我氏ですが、それでも天皇という侵すべからざる神聖な地位そのものを自分のものにするまでには至らないのです。 |
14日 | 天皇のロボット化 |
そして、いかに蘇我氏の血の濃い天皇を即位させ,蘇我氏の女を皇后に立てようが天皇となった人物がその権威をもって対立してきた場合、蘇我氏と雖も苦境に立たされることになるのです。それ故、蘇我氏はその独裁体制を安泰にするため、執拗に天皇のロボット化の画策を図ったのでした。 |
15日 | 蘇我氏と天皇家の対立 |
天皇のロボット化、これが物部氏を倒した後の蘇我氏の政治課題となったのです。従って物部氏滅亡後の中央政界における政争は蘇我氏と天皇家の対立を軸として展開していったのです。 |
16日 |
蘇我氏と天皇家の関係図 |
法提郎媛(馬子の娘) 古人大兄皇子 押坂彦人大兄皇子 舒明 皇極(斉明) 継体 敏達 ――-----推古(炊屋姫) 蘇我稲目 堅塩姫 用明(大兄皇子) 穴穂部皇子 崇峻(泊瀬部皇女 山背大兄王 馬子---------河上姫 |
17日 |
馬子が即位させた崇峻天皇 |
用明天皇が崩御された後、崇峻天皇が位につかれましたが、その即位には蘇我馬子が大きく関与しています。馬子は蘇我氏の血を引く皇子、欽明天皇と小姉君(稲目の女・馬子の姉妹)との間に生まれた泊瀬部皇子の擁立を目論み、その通りに実現させたのです。この泊瀬部皇子こそ崇峻天皇にわかなりません。 |
18日 | 事前に排除された皇子 |
馬子は、蘇我氏と血のつながりのない皇子たちは言うまでもなく、反抗する皇子は例え血のつつながりがあっても天皇に擁立しないし、また擁立されそうな気配があると事前に排除しました。 |
19日 |
崇峻天皇の即位の直前、馬子は物部守屋に擁立された穴穂部皇子を殺害していますが、穴穂部皇子は泊瀬部皇子と同母兄、つまり蘇我氏の血を引く皇子です。 |
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20日 | 馬子の断固たる姿勢 | このように反抗する皇子は血縁と雖も容赦なく葬り去るという馬子の断固たる姿勢は、諸皇子や天皇擁立を考える豪族たちを畏怖せしめたことでしょう。 |
21日 |
皇子たちは馬子の顔色を窺がうだけで皇位継承者として名をあげようともしなかったでしょうし、馬子以外の豪族は誰も自ら天皇を擁立しようとしなかったと思われます。 |
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22日 | 崇峻天皇の誕生は馬子による |
泊瀬部皇子の即位、即ち崇峻天皇の誕生は馬子にとって実現されたものにほかならないのです。 |
23日 |
ロボット天皇の誕生 |
崇峻天皇の擁立には、敏達天皇の皇后であり、欽明天皇と堅塩媛(稲目の女)との間に生まれた額田部皇女(後の推古天皇)と、群臣の推挙があったと言われています。即ち、崇峻天皇自身が蘇我氏の血を引くばかりか、その支持基盤の一切が蘇我一族とその勢力で固められた、蘇我的天皇が誕生したのです。 |
24日 | 外戚の実力大臣 |
馬子は天皇をロボット化し、自らは外戚の大臣として自由に執政の権を行使しようと考えたいたとみられますが、その思惑は崇峻天皇によって実現できると確信していたに違いありません。 |
25日 |
想像をたくましくするならば、馬子が穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子を天皇に選んだのは、泊瀬部皇子には「馬子の言う通りに動かなければ兄の穴穂部皇子のように抹殺される」という心理的圧迫があるはずで、馬子としては繰りやすい天皇になると読んだのかもしれません。いずれにせよ、崇峻天皇が馬子の傀儡になる条件はこれ以上にないというほど完璧に揃えられていたのでした。 |
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26日 | 蘇我氏と崇峻天皇の戦い |
ロボット化に反抗した崇峻天皇 |
27日 | 天皇殺害を謀った馬子 |
「崇峻天皇紀」五年(592年)十月の条に、次のような記述があります。 「四日、猪が献上されたときのこと。天皇はその猪を指して言われた。「この猪の頭を斬り落とすように、いつか私が嫌う者を斬ってやろう」と。そして兵を多くして、いつになく身辺の警護を厳重にされた。十日、蘇我馬子は天皇の言を聞き知り、天皇が自分を嫌い憎んでいることをさとり、一族の者たちを招集して天皇の殺害を謀った」 |
28日 | 崇峻天皇の憎しみ |
即ち、即位から五年もたつころには、崇峻天皇は馬子を斬り殺したいと思うほど憎み、馬子にみ憎まれる心当りがあったのか、天皇が憎んでいる相手が自分であることを知っている状況が現出していたのです。 |
29日 | 老獪な馬子 |
そして両者のこの対立関係か既にのっぴきならない段階に達しており、両者ともに殺害される危険を現実のものとして感じるほどに険悪な関係になっていたわけです。そのため、老獪な馬子は崇峻天皇に見切りをつけ、先手をうって天皇暗殺を画策しはじめたというのです。 |
30日 | 新皇擁立を謀る馬子 |
馬子が天皇殺害を決意したということは、このころ崇峻天皇は既に蘇我氏の傀儡から脱しており、むしろ蘇我氏にとて脅威的存在になっていたことを意味していいます。それ故、馬子は崇峻天皇を排除してロボット化しやすい新しい天皇を擁立しようと決意したのです。 |
31日 |
これほどに天皇と馬子の間に深い溝ができたたのは、崇峻天皇が蘇我氏一辺倒の思考をせず、馬子が期待したように反骨精神のない天皇でもなかったということです。 |