ゼネラリスト一思考

私たちが社会人になった頃までは、社会人としてゼネラリストを志向していたように思われる。戦前から戦後の高度成長直前まではそのような思考が社会的に潜在意識としてあったのではなかろうか。

広く、大企業とかを俯瞰しても、トップは殆どが大学の法科とか経済卒で、技術系とかの専門専攻のトップは少なかったのではないか。

安岡正篤先生が、よく言われていた言葉に「専門バカになるな」があった。安岡正篤は、科学は「枝学問」だと言われた。易の哲学を見ても、本質から遠ざかるのが枝葉である。科学は本質から分化し、分化した枝葉と観察するのもあながち間違いとは言えない。

人間社会の統治は、ゼネラリストが適役だと思うのも自然であろう。

社会人として、或いは組織とか統治者としてゼネラリストが視野が広いのであろうかと思っていた。

高度成長と技術革新の時代が到来して既に半世紀、圧倒的に技術者の時代である。

専門家が人間集団のトップとなり統治者となってきたからと言えば語弊があるかもしれぬが、安岡正篤先生の専門バカの言葉のように、人間集団の統治にはゼネラリストが適格のように思うのも自然かもしれない。人間集団の統治にはも人文が必要なのである。

現在、このような事を指摘するとかの人間は居ないようであるが、まんざら間違っていないのではなかろうか。人間集団の統御には、人文の教養、経験が不可欠なからである。

    平成2915

   鳥取木鶏会 会長 徳永圀典