安岡正篤の言葉  平成291月例会 徳永選 

全人格的な学問

 士大夫(したゆう)三日書を読まざれば即ち()()胸中(きょうちゅう)に交わらず。便(すなわ)ち覚ゆ、面目(めんもく)・憎むべく()(げん)・味なきを。

                 宋 黄山谷(こうさんこく)

 書は聖賢の書、理義は義理も同じで、理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則であります。大丈夫たるものは三日聖賢の書を読まないと、本当の人間学的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって、循環しないから、面相が下品になって嫌になる、物を言っても言語が卑しくなったような気がする---というのであります。

 本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。従ってそれを怠れば自ら面相・言語も卑しくなってくる。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味も亦そういうところにあるわけであります。          東洋思想十講

 

学びの大切さ

 此れ之を学に得しなり。凡そ学は必ず(ぎょう)を進むるを務む。心則ち(まど)うこと無し。()()春秋(しゅんじゅう)

 

 学問というものは、自分が天から、親から、自然に与えられておるものを発揮することである。だから、どうしても、実際生活にこれを実践すべく努力するわけで、そうなると自ら「一誠万事」、「一心万変に応ず」で、だんだん惑いがにくなる。

 キリスト教界でも特異な存在として知らぬ者のないジプシー・スミスという大説教家があります。この人はもともと乞食少年であったが、13歳の時に「聖書」を読み発憤してああいう偉大な説教者になった。

 人の力・人格り力・学の力というものはそれくらい大きいのであります。           天地にかなう人間の生き方