宗教と心 

いつの頃であったか、人間は心の持ち方次第だなと気づき「一切は心より発す」の自戒の言葉を創った。後に仏家にも「一切は心より転ず」とあるを知る。般若心経の核心、心無けい礙(しんむけいげ) 無けい礙(むけいげ)() 無有(むう)恐怖(くふ)遠離(おんり)一切(いっさい)」、心に(さわ)りが無ければ一切の恐怖から超越出来るとある。華厳宗の唯心偈(ゆいしんげ)にも「心如(こころは)(たくみなる)画師(えしのごとし)」がある。中・高校時代に傾注した聖書マタイ伝の山上の垂訓「心の清き者その人は神を見ん」を深く心に刻んだ、神を見んとは含蓄が深い。人間を救う宗教の本質は心にあると観る。そして心悩の核心は「執着」であると納得した。人間誰でも死ねば一切の執着から脱けられる、即ち覚れる者・覚者=仏となる。鎌倉時代、日本仏教の創生時、庶民は戦乱と飢餓で地獄の如き乱世の現世であった。せめてもの救いはあの世での極楽であったろう、だから南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けると説かれたのであろう。これは強烈な人間救済であった。当時の祖師は民と共に自ら苦しみ、街頭に裸足、草鞋で進出し庶民に仏教を説いた。死ねば誰でも覚者になる、執着から抜けられるのだから。21世紀の現代、知性の進化した現代、それだけでは庶民の心の救済にはなれまい。あの世での極楽でなく、この世こそ極楽浄土にしなくてはとの宗教理を私は持つ。宗教家よ、乱世、末世の現代こそ、庶民と同じ生活でなく、鎌倉仏教の祖師の如く、悩める大衆の救いのために、共に悩み、憂い、裸足で、草鞋で、体当たりで街頭に進出し、説法布教する時ではなかろうか。それこそ祖師の教え、人間救済、大衆の心の救済につながる!!

                          徳永圀典