忠臣蔵、討ち入り検証

家康転封  

1.  当時の江戸城の状況

 大手門あたりは沼地  日比谷の海。  

 岬であった。現在の大手門は、当時は正門ではない。

京都からの道、甲州街道は高台の尾根道なのですね。

現在の新宿通りです。

そして、半蔵門から入るわけです。

服部半蔵を恩人としたのでしょうね。

どんな人か記憶がありますか。

勿論、家康江戸入りの武将の一人。

家康の恩人なのですよ。

本能寺の変の時、家康は堺市におりました。明智光秀の追手から命懸けで、伊賀越えで家康を逃がしたのが服部半蔵でした。この近く麹町界隈の譜代屋敷に半蔵の家があった。

 

東海道、中山道、奥州道、日光街道の四街道は

江戸城に直結していないのですね。

半蔵門は、家康緊急脱出時の非常門なのです。

敵の攻撃を防ぐのは堀なのですね、

全て橋です。緊急時には橋を落とせばよい。

だから土手にしない。

ただ一つ、半蔵門だけは土手であった。

現在天皇も車で通られる

2.半蔵門の外は麹町、江戸時代から警備の中心点、現在は名だたる麹町警察署、

江戸時代、この一帯は譜代大名の屋敷ばかりで固めて

いた。

だから橋にしないで安心して土手にしていた。

 

3 大阪城

難攻不落と言われるのは「上町台地」にあるから、

西は難波から船場、北浜の浜とか低地、船着き場。

南は河内の沼地、

南の天王寺、平野口しかない、

ここに真田幸村が砦を作り大活躍しましたね。

江戸城もそれなのです。

 

4.赤穂浪士の討ち入り

半蔵門近くには譜代大名の屋敷ばかりと申しました。

 

実は、赤穂浪士の中でもナンバー2にあたる吉田忠

左衛門と武闘派の急先鋒である原惣衛門ほか総計16

人が潜伏していたのです。

匿われていたというべきですね。

 

5、吉良上野介

実は、吉良は、刃傷事件発生時には、

住まいは八重洲口の呉服橋門にありました。

堀の近くでした。

だが、移転することとなった。

隅田川の向こうの本所です。途方もないことです。

吉良家は格式高い高家です。

 

6、高家の吉良家とは

源氏の名門です。

武家諸法度の典礼、故事、武家礼法を司る幕臣第一級

人物である。

足利家の血を引く名門、田舎侍には、朝廷と幕府を取り持つ存在。田舎侍徳川家から見れば目障りな存在であったろう。

徳川家が三河の田舎侍の頃、隣の吉良家は豊かであっ

た。吉良の領土には矢作川があり、その洲は年々し肥

沃な塩田や農地を形成し300年に亘り拡大していた。

だが、関ヶ原の戦いの後、徳川は矢作川の上流を切り

開き新矢作川を造成した。

目障りな吉良家であったであろう。

7.泉岳寺

高輪の泉岳寺は47士を埋葬してある。広大な墓地を

使っている。

7.泉岳寺は誰が作ったのか。

泉岳寺は高輪ですね、

泉岳寺の立札がある。

   当山は慶長17年 徳川家康公の創立

   天井の龍は関義則作

   禅曹洞宗 泉岳寺

家康なのです。大犯罪人47士がこの寺に祀ってある

のですよね。

摩訶不思議ですが、徳川の策謀を感じますね。

 

47士の討ち入りは、天下の7平穏を乱した、取り調

べを受けて

「全員切腹を命じられた」重大犯罪人です。異様なことですね。

大犯罪人達が家康創建の寺に埋葬されて残っている。

 

8.討ち入り成功は幕府の支援

以上、

縷々説明したが、幕府のバックがあって成功したとし

か考えられない。

 

9半蔵門の土手

政治家がよく行くホテルが永田町にある。キャビトル

ホテル、近くに日枝神社がある。

江戸時代は半蔵門にあった。明暦の大火で消失し、

永田町に移転した。

江戸城の守護神です。

この祭りは「山王祭り」は江戸二大祭りの一つです。

       徳永日本学研究所 代表 徳永圀典