岫雲塾 新年にあたり
徳永岫雲斎「畢生の安岡教学大特集」
新年である。令和3年、2021年、岫雲斎、数え年91歳、四月には満90歳となる。
堂々たる年齢である。肉体は年々老化しつつあるが、昨年は登山を140日実行した。精神も意気軒昂たるものあり、まだまだ枯れてはおらぬ。今年も日本国の正常な形の真の復活を目指して大いに発言する。
戦後の人間劣化を痛感するのは岫雲斎のみに非ず。そこで今春は、人物鍛錬育成を願い、安岡正篤教学に絞って岫雲斎の「指導者育成講義」を開講する。
本講と共に、毎日、本ホームページにて別途、安岡先生の「箴話・一日一話」もご披露する。
両者とも、岫雲斎83歳による、安岡教学の「総集編」であり岫雲斎渾身の力作である。
安岡先生は、
新しい年の初めには、まず「自分を意気軒昂にして飛躍せよ」とよく言われた。この気持ちの大切さを初頭にあたり特筆大書したい。
諸君、先ず、新年にあたり
「意気を新たにしょうではないか」。
「意気を新たにする」と言うことは、それまでの古い怠惰な意気を一掃して「よし、やるぞ」という気概である。つまり、新たな意気により自分を奮い立たせることだ。ともすれば、バラバラになりがちな心身を統一することである。意思や思考、感情を調和させ統一することであると安岡先生は説かれた。
令和3年元旦 徳永岫雲斎圀典
悔恨に囚われるな、それを捨てよ。
人間は誰でも後悔と言うものがある。ああすれば良かった、あの時、あの一言を言うべきでなかったと。悔いると言うことは実に苦しい。悶々としても覆水は盆に帰らず、第一意気阻喪しては元も子もない。
悔いる事で、反省点を確認したら、心機一転すべきである。前向きに気持ちを引き締めることで前進する。
ここで、気持ちの弱い人とか、利己的な人間は悔いに耐え切れず他に転嫁してしまう、これは弱い人間のする事だと自覚しておかねばならぬ。これは身の破滅に直結してしまうだろう。
心の停滞を一掃せよ
まだ時間があると先送りする性情が人間にはあるものだ。その間に次々と問題が発生し停滞させるのが常である。安岡先生は、この滞りの根本は、自分の心のこだわりであり、「心の滞りは生存の一切を腐敗させる」とまで言われた。
中々、簡単なようで難しい滞り、上善は水の如く、水がサラリと流れるように、心の問題、つかえを一掃して新たな心境に立つことが極めて肝要である。
一善事を実行すると誓え
先ず、自分自身にとって、具体的に何か一つ善いことを実行してみることだ。ここを突破するとすらすらと物事の善循環が始まる。
ここを突き抜けて、三つの佳いものにチャレンジせよと安岡先生は言われる。
佳いものに挑戦
佳いとは優れて良いという意味。佳い人、佳い自然、佳い書物である。佳い人には案外と出会えぬものだ。風光明媚な景色にも中々出会えぬ。ただ佳い本だけは手に取ることが出来る。
佳い書物は、心身が清くなる、精神が向上する、心を神仏に近づける。だから年頭にあたって是非とも佳い書物を心がけることが重要であろう。
そこで上述を総覧し五つの誓いを推奨する。
年頭五つの誓い
1.自分に活を入れる よし、やるぞ 意識
2.悔いは爽やかに捨てる 心機一転 過去
3.もやもや一掃 上善如水 こだわり
4.一善事の誓い 一念発起 悪習
5.出会いに挑戦 座右の書 人・書
岫雲斎偶感
人間、卒寿ともなりますと、後悔も多く、ああすれば良かったとか、恥ずかしいことばかり思い出し内心忸怩たるものばかりであります。失敗多き人生だったなと思う・・・。
人間は言葉次第
本当に、人間は、言葉次第だなと思う面もありますし、言葉だけではないものもある。言葉とは実に不完全なもので、同じ思いでも、自分の言葉と相手の言葉に違いもある。言葉は自分の感性により築きあけた面もある。言葉は自己文化の面もある。人間、大いなる誤解の中で人間は生きているような面もある。
応対辞令
人間は万事、応対辞令次第だなと思う。要するに、慎み、即ち「敬」である。相手への敬は、自己への敬と思うべきなのだ。それが中々簡単のようで至難でもある。
敬の方法
敬の方法、表現は、
第一に「お辞儀の時の頭の下げ方」であろう。いつでも一定の深い角度で、丁寧になすべきであろう。慇懃な丁寧さが持続的に行われて相手に伝わらなくてはならぬ。その効用は必ず現れてくる。
言葉
それと「言葉」である。自分の流儀で、相手への敬意を含んだ言葉を選ばなくてはならぬ。現実世界では、これがまた中々易いようで至難である。だから読書で現実を逃避している、逃避の世界で人間観察をすると救われる。安岡先生の講義とか読書により、人間世界をそれなりの眼で観察してきた。大いに鍛えられ研鑽し得た思いがある。
安岡先生の人間観察
中でも、先生の人間観察は洞察的で、とりわけ、
「呻吟語を読む」の人間観察が面白い。これにより心身と人格の鍛錬が可能だし、人生に於ける日々の心がけになり得るであろう。
安岡先生は呂新吾の呻吟語をテキストにして、人間として持つべき人格に関してその形成確立方法を示された。順不同で思いつくままに述べたい。
「奮始怠終は修業の賊なり」
自分の心に甘えるなと言うことである。呂新吾はこれを賊としているのだ。仕事でも、事の成否はこの心賊にある。
躁心浮気は蓄徳の賊なり」
浮ついた心、ガサガサした心では徳を蓄積する上では賊となる。徳とは「善行、善道、正義、道義」等々における立派な行いであり、その根底には揺るがない「人を敬し愛する心」が流れておらねば本物ではない。
「疾言厲色は処衆の賊なり」
憎む心とかがあり声を荒げたり、顔色を険しくするのは人々との対応上の賊だという。これらの「賊」を自分の心から追放することで、心身を爽快にしなさいというのである。これも中々言うは易く至難である。
人間観察に呂新吾は言う、
「大事・難事には担当を看る」と。
管理する立場におると、大き問題、難題発生時の処理で、それを担当する人物とか力量がよく判る。難事の場合、処理を部下に任せないで自ら当たることが肝要である。逃げてはならぬのだ。
「逆境・順境には襟度を看る」もある。
いい言葉だ。ここで人間の真価がはっきりと出る。逆境になると直ぐへこたれるのは本物ではない。度量の有無が現れる、これが襟度である。
臨喜・臨怒には涵養を看る」
人間、喜怒哀楽に臨めば、感情が左右するので人格が出来ているかどうかが判定できる機なのである。
喜怒には淡々とするという心構えを平時に涵養しておかなくては指導者にと言えぬ。
「群行・群止には識見を看る」
大勢の人間との交流する時、或いはそれらかに離れた時、その人物の判断力の正しさが見て取れる。
「精神爽奮すれば、則ち百廃倶に興る。肢体怠弛すれば、則ち百興倶に廃る」
真言である。精神爽快にして奮い立てば、多くのものが一斉に健全さを回復する。そして心身ともに活性化するのは事実である。身体が弛緩すれば、全てが弛緩して、一斉に全体が劣化を始め精神に悪影響を齎すのは常である。
人生の心得八か条
そこで、以上を総攬し、「人生の心得八か条」が成立する。
1.初心を最後まで貫徹する。
「奮始怠終は修業の賊なり」
2.やる時は集中する。
「躁心浮気は蓄徳の賊なり」
3.憎みと怒りを捨てる。
「疾言厲色は処衆の賊なり」
4.難題の時こそ真の能力が現れる。
「大事・難事には担当を看る」
5.不遇の時こそ自己の全人格が表れる。
「逆境・順境には襟度を看る」
6.喜怒の感情を思うままに現しても、本当の心の奥は冷静である。
「臨喜・臨怒には涵養を看る」
7.組織や個人の行動に判断力が現れている。
「群行・群止には識見を看る」
8.やるぞの気持ちを起す。
「精神爽奮すれば、則ち百廃倶に興る。肢体怠弛すれば、則ち百興倶に廃る」
ここで呂新吾の略歴を紹介する。
シナは明末の人、1536-1618、進士の試験に合格し
上級官僚となり出世したが、それを妬む役人の讒言や
中傷に会い、あっさりと地位を捨てて田舎に帰る。専
ら子弟の教育に専念した。呂新吾の学問の基本は、徹底して自己であった。自己を究め、律することで社会に生かすと言う陽明学の思想に立脚している。
新吾の名を「心吾」としたのも己れの心を凝視して立
つという姿勢の表れである。独りを愛し「抱独居士」と号した。書斎に対し偽善を去るという「去偽斉」と自ら呼んだのは新吾の姿勢の表現である。
安岡先生は、呂新吾の著書「呻吟語」を講義され「呻
吟語を読む」にまとめられている。本稿はそれを基礎にし岫雲斎流にしている。
「自警七戒」
安岡先生は江戸時代後期の学者・古賀穀堂を人格者として挙げておられる。穀堂は佐賀藩の儒者で、名君藩先ず、主・鍋島閑叟を育てた、1778-1836.の古賀穀堂の「自警七戒」を岫雲斎流に解説引用する。
自警
①嫌な人間との対応
相手の態度が不愉快、腹の立つことあっても、決して言い争ったり、侮ったり、罵ったりしないことだ。不平の心情を持たぬこと、笑って受け流しが最良である。
②人生を難しく捉えない
人生を生きる上で、我々には多くの侮辱、陥穽、数奇な運命など、際限なく襲ってくる。それはみな天運に任すしかない。難しく考えないのがいい。
③人を羨まず、嫌わず
他人の生活が豊かだからと言って、羨ましく思わない。人が出世したからと言って権力者に媚びない。人が落ちぶれて不遇になったからと言って軽蔑したり避けたりしない。
④言葉に呉々も注意を
他人は、何を考えているか分からない。人の短所、欠点をあげつらったり、過去の人でも謗ったり侮ったり嘲笑してはいけない。ただ、自分の言行を慎み修養することだ。
⑤読書の心得
本に書かれて自分が関心のあるものから問題を解きほぐす事が読書のポイントである。だが、濫読はいけない、おざなり読みもいけない、漠然と読まない、速読はするな、貪り読みはやめよ、言葉をよく吟味しながら筋道立てて読むことが肝要である。
⑥生活のリズム
夜が明けたら遅滞無く起床、夜は11時頃迄には就寝の生活を繰り返すこと。疲れた、酔った、満腹だとかでこのリズムを壊さないこと肝要なり。時に正座して思考を深めることが必要。精力を一気に使い切らないこと肝腎、ゆったりした気分を維持すること必須なり。
⑦我一人の気概を
以上、この六か条ほど厳しく且つ切実な自戒はないが、古賀穀堂は、色々な学者や流派はあるものだ、だが、それらに徒に組せずに「ただ一人、自分がこの世にあること大切なのだ」と言う誇りを持てという。
「六中観」心の鍛錬法
次に安岡正篤先生の説く「心の鍛錬法」を岫雲斎流に解説する。それは「六中観」を腹に据えることである。書物も人物も腹に据えておく、六中観で自己の生活を反省するのだ。これは、相対立するものを超越する「心の持ち方の技法」であらう。
安岡先生は、腹の中に確りと据え、心を鍛える六つの「中観」があると指摘された。それは、我々が相対立すると考えているもの、その対立の中にこそ心を鍛えて前向きに生きる要素があると云われた。
① 忙中有閑--忙中に閑あり
ただの閑は退屈、本当の閑は多忙の中にこそある。忙しさだけでは心を亡うだけだ、忙中に閑あってこそ、閑を見つけてこそ、初めて生きると先生は述べておられる。仕事の多忙時は充実感がある、どんな忙しい時でも僅かな閑はあるのだ。
その時、忙しさと閑とをどう自己リズム化するかがポイントである。それにより意識を転換すれば見失っていたものが見えてくる。多忙時は心身が充実しておる時、精神が高揚しておるから見えてくるものがあるのであろう、新しい発想もエネルギーも湧いてくるように思う。
② 苦中楽あり。苦しみの中に楽もある
苦しいと思っていても、そこに何らかの一時的な楽もあるものだ。「貧楽」と称し、貧しいと言っても苦しいことばかりではないのが人生である。
貧には貧なりの楽しみもある。第一、苦があるからこそ楽を感じられる。苦楽同体の言葉もあるのだ。一枚の木の葉の表裏の関係と同様だ。対立する関係として捉えない心がけを持とう。
③ 死中有活--死中に活あり
ピンチこそチャンスと捉える心構えである。
人間、絶体絶命の死地にあって、思わぬ力を発揮する現実を歴史に見る通りだ。窮地に立ち、腹を据え、開き直り、難問解決することが多々ある。
ここで逃げたら第一巻の終わり。敢然として壁に挑む気概、気迫が窮地を抜け出し成功へと誘導する、これが人生でもある。
④ 壺中有天--壺の中に天あり
狭苦しい壺の中、そこは意外ときらびやかな宮殿、仙人の住む仙境かもしれない。どんなに狭く、煩わしい環境であっても、悟りの心で臨んでみると、
煩わされない悠々たる仙境が開けてくる耐忍の教えであろう。心がけ次第ということか。
⑤ 意中有人-意中の人あり
心の中に、常に信頼する人、或いは相談出来る人、指導を受けられる人を常に心づもりしておけと言うことであろう。人間、最後は、信頼と人物次第である。
⑥ 腹中書有-腹中に書あり
自分のものとした書物があるということである。血肉化した書、自己を練磨し、人格を作り上げた書、生きる指針となった書物を持てということである。
完
新年にあたり 徳永岫雲斎圀典 敬白
「荀に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」
殷の湯王の盤銘
人間たるもの、この言葉に尽きます。
宇宙の本質は絶えざる創造、変化、活動であり進行であります。
それは万物の運行の基本原理であり、人間を律する大原則であります。
従って上記の言葉は大宇宙の一生命である人間をも支配する大原則となります。
常に自己革新し、変化し進歩するのが活学なのであります。
本年も大いに学ぼうではありませんか。
素養
平素の修養により身につけた「たしなみ」である。
これは上に立たんとする人間には必須綱目であります。
経書
素養を身につける為には経書を読まなければなりません。経書とは老若男女を問わずあらゆる人々に普遍的に、富む人もそうでない人も、順境にあろうと逆境にあろうと、如何なる場合にも離れることが出来ない、人生に最も原理的な指導力のある書のことであります。
「大学」も「小学」も経書、大学は人を治める学、政治哲学を説く。小学は日常実践の学問、如何に自己を修めるかという道徳の学問。