「大学」 その二 鳥取木鶏研究会例会 平成21年3月2日    徳永圀典記

  伝三章

人の(きみ)()っては仁に(とどま)る。人の臣と為っては敬に止まる。人の子と為っては孝に止る。人の父と為っては慈に止まる。国人(こくじん)と交っては信に(とど)まる

――上の者は「仁」、部下は「敬」を、子は親に「孝」、全ての人とつきあって行く場合には、「信義」を至上として守りぬかねばならぬ。

「・・()たる君子有り、(せつ)するがごとく、()するがごとく、(たく)するがごとく()するがごとし。(ひつ)たり|(かん)たり、(かく)たり(けん)たり。()たる君子有り、(つい)(わす)()からずと。切するがごとく()するがごとしとは、学を()うなり、(たく)するがごとく磨するがごとしとは自ら修むるなり。(ひつ)たり|(かん)たりとは恂慄(じゅんりつ)なり。(かく)たり(けん)たりとは威儀(いぎ)なり。()たる君子有り、(つい)(わす)()からずとは、盛徳(せいとく)(しい)(ぜん)(たみ)の忘るる(あた)はざるを()うなり

――要するに、玉石を仕上げる如く、学問を切磋琢磨して知を磨き徳を修めよということ。それには戦々恐々とした慎みが必要。さすれば終に盛徳を得て忘れ難い存在となるということか。

・・君子はその賢を賢としてその(しん)(しん)とし、小人(しょうじん)はその楽しみを楽しみてその利を利とす。ここをもって世を没して忘れざるなり

――後の人をして思慕させ忘れ難いものにさせるものは至善の存在であったからだ。 

伝四章

・・訴えを聴くは(われ)猶人(なおひと)のごときなり。必ずや訴えなからしめんかと。(まこと)なき者はその辞を尽くすこと得ず。大いに(みん)()を畏れしむ。これを(もと)を知ると()

――孔子の言葉である。立派な人の前では、心に実情のない者は、自然に嘘、偽りの言葉を言い尽くすことは出来ないものだ。訴訟を巧みに裁くということも必要だが、民を治める者は、むしろその訴訟ごとの起きない治世をすることに心を用うべきだ。 

伝五章

これを(もと)を知ると()う。これを知の至りと謂う。・・・・所謂、知を致すは物に(いた)るに在りとは、(われ)の知を致さんと欲せば、物に()いてその理を窮むるに在るを言うなり。(けだ)し、人心の霊、知あらざる()し。(しか)して天下の物、理あらざる()し。唯だ理において未だ窮めざるあり、故にその知尽くさざるあるなり。(ここ)をもって大学の()(きょう)は、必ず学者をして凡そ天下の物に()きて、その(すで)に知るの理によって益々これを窮め、もってその極に至らんことを求めざる()からしむ。力を用うるの久しきに至って、一旦豁然(かつぜん)として貫通(かんつう)すれば則ち衆物(しゅうぶつ)の表裏精粗(せいそ)到らざるなく、吾心(わがこころ)の全体大用明(たいようあき)らかならざるなし。これを(もの)(いた)ると謂う。これを知の至りと謂う

――この世の中の事物は全て「理」が貫通している。「理」とは、事物を事物として存在せしめている根本原理。理は人間の心にもあるし、外界の事物全ての中に存在している。心の中にある理を押し広めて、あらゆる事物の理を窮めつくす、これが朱子学でいう「格物致知」である。そのように努力して行けば、或とき豁然として心眼が開けて「理」の奥儀を窮めることができる。そうなれば、あらゆる事物の表も裏も、また精も粗も確りと掌握することが可能、また自分の心の英知も存分に発揮できるようになる。「豁然貫通」はいい言葉である、思いあぐねて四苦八苦、ある時ハッと「これだ」と思い当たるような語感がある。 

伝六章

所謂、その意を誠にすとは、自ら欺く()きなり。悪臭を(にく)むがごとく、好色を好むがごとし。これをこれ自ら(こころよ)くすと謂う。故に君子は必ずその独りを慎むなり

――君子とは能力と人格を備えた理想の社会人というべき。そういう人物は、人目のない処でも、必ず自分の心を正しくし、行いを慎むのだという。自分だけは、自分を熟知しているから、他人の目は騙せても自分は騙せない。人目のない所でこそ行いを慎む、ここに人間の真価が表れる、これが安岡正篤先生の良く言われた「慎独」である。自分の良心を誤魔化しては生涯の負い目となり自分を苦しめる。「独りを慎む」ことの肝要。 

小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善を()す。至らざる所なし。君子を見て(のち)(えん)(ぜん)として、その不善を?(おお)いてその善を(あらわ)す。人の(おのれ)()ること、その肺肝(はいかん)を見るがごとく然り。(すなわ)ち何の益かあらん。これを(うち)に誠あれば、(ほか)(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。」

――小人は君子の反対、つまらない人間。閑居は独りで暇を持て余す意味。かかる場合、小人は、つまらぬ妄想に取り付かれ良からぬことを企む。小人も人前では表面を取り繕う、だが主体性のない悲しさ、独りになると押さえが利かなくなる。行いは兎も角、心の中の思いとか考えは外から見え難い。然し、全く見えないかと言うと、そいうでもない。自ずから表情や態度に現れてくる、隠そうとしても隠し切れない、だから「君子は独りを慎む」のだという。 

・・十目(じゅうもく)の視る所、十手(じっしゅ)(ゆびさ)す所、それ厳なるか。富は(おく)(うるお)し、徳は身を潤す。心広く体胖(たいゆたか)かなりと。故に君子は必ずその意を誠にす

――十目とか十手は多くの人の意、我々はそういう衆人環視の中にいる。些細なことでも、すぐ人目にさらされる。だから自分の言動は普段から注意しておかねばならぬ。組織の中の人間は、そういう中で評価が決定されて行く。演技だけでは評価が永続しない、だから、「それ厳なるかな」である。

――お金があれば、快適な生活ができる。同様に徳を身につけると体じゅうを潤して心は広々と体ものびやかになる。「徳」とは「格物致知」と「誠心誠意」の努力によって自ら身についてくる。それを具体的に云えば「仁・義・礼・智・信」などの徳目を指すのである。その為には「必ずその独りを慎み」、「自ら欺くことなき」ように努力をしなくてはならぬという。 

伝七章

所謂、身を修むるはその心を正す在りとは、(こころ)忿?(ふんち)する所あれば、則ちその(せい)を得ず。恐懼(きょうく)する所あれば、則ちその正を得ず。好楽(こうぎょう)する所あれば、則ちその正を得ず。憂患(ゆうかん)する所あれば、則ちその正を得ず。心焉(こころここ)に在らざれば、視れども、見えず、聴けども、聞こえず、(くら)えどもその味わいを知らず。これを身に修むるは、その心を(ただ)すに在りと謂う

―身は心の誤りだと指摘している本もある。忿?(ふんち)、どちらも怒ること、恐懼(きょうく)は、恐れ畏まること、好楽も、憂患も同様にその正を得ない。上の空では、見ても見えず、聴いても聞こえず、食べても味がわからぬ。何事も、心が正しくなければ、正して判断も行動もできない。心をしっかりと確立しなくては身体の働きも正常に機能しない。常に心に正常な働きを保つために、大学は「正心」、つまり心を正す修養を説くのである。

伝八章

―「所謂、その家を(とと)うるは、その身を修むるに在りとは、人その親愛する所に()いて(へき)す。その賎悪(せんお)する所に()いて辟す。その畏敬する所に之いて辟す。その哀矜(あいぎょう)する所に之いて辟す。その敖惰(ごうだ)する所に之いて辟す。故に好みてその悪を知り、(にく)みてその美を知る者は天下に(すくな)し。故に(ことわざ)にこれ有り、曰く、人その子の悪を知るなく、その苗の(おお)いなるを知る()しと。これを身修まらざればもってその家を(とと)()からずと謂う

―多くの人は親ばかで、自分の子供の悪い所を覚らない。またどんな人でも、自分の作った苗が大きくなったとは考えない。「辟す」とは(かたよ)ること、バランスを欠いては公平な判断ができない。どうしても好きになれない人は「敬して遠ざかる」ことで殊更に嫌悪感を表す必要はない。短所も長所も誰でも保有している。一旦好きになると長所ばかり見える、逆に嫌いとなると短所ばかり見えてくる。これが人間の判断を誤る、だから普段から感情に左右されないように心の鍛錬をしておく必要がある。だが、ある意味で人間性の自然に反することで言うは易く行うは難しである。信頼される社会人たる為にはこういう努力もまた必要である。 

伝九章

所謂、国を治むるには必ず、先ずその家を(ととの)うとは、その家教うべからずして、()く人を教うる者はこれ無し。故に君子は家を()でずして、教えを国に()す。孝は君に(つか)うる所以なり。(てい)(ちょう)(つか)うる所以(ゆえん)なり。慈は衆を使う所以なり

――自分の家の教育すら出来ない者が、よく他人を教育することができようか。そんな者はあり得ない。君子は、自分の家庭から出なくとも国家を教え導くことができる。一家を斉えた人であれば、その教化は必ず一国に及ぶものだ。 

・・赤子(せきし)を保つがごとしと。心誠にこれを求むれば、(あた)らずと雖も遠からず。未だ子を養うことを学びて(しか)して(のち)()する者あらざるなり。一家仁なれば、一国仁に(おこ)り、一家(じょう)なれば、一国譲に興り、一人貪戻(いちにんたんれい)なれば一国乱を()す。その機かくのごとし。これを、一言(いちげん)(こと)?(やぶ)り、一人(いちにん)(くに)を定むと謂う

――真底から熱心に求めれば完全とまで行かぬとも少なくともそれに近い所までは達成できるものだ.。育児法を学んでから嫁に行く者はどこにもいない。育児に無知でも、真に親としての愛情を以て子に接すればさほどの失敗はしないものだ。

――人君が一家の中で仁の道を完全に行うならば、それが影響して人民もみな仁の道へと興起する。同様に一家が謙譲ならば、一国の民もまた謙譲となる。反対に、もし人君一人、理にもとり、私利私欲にふけるならば人民全部が乱を起こすことになる。

―たった一度の失言が事をぶち壊し、たった一人が身を正すことで国は安定するのだという。トップの心構えや姿勢について語った言葉。地位が上になる程発言の重みが違ってくる。組織の中で威令を貫徹する為には自分の身を先ず正し、律するのがトップの自戒である。また「一人貪戻(いちにんたんれい)」ならば一国乱を()すと警告している。 

尭舜(ぎょうしゅん)、天下を(ひき)いるに仁をもってして民これに従う。桀紂(けつちゅう)天下を(ひき)いるに暴をもつてして民これに従う。その令する所その好む所に反して民従わず。この故に君子(これ)を己に有して而して(のち)(これ)を人に求む。(これ)を己に無くして而して(のち)に諸を人に(そし)る。身に(ぞう)する所(じょ)ならずして能く諸を人に(さと)す者は、未だこれ有らざるなり。故に国を治むるはその家を(ととの)うるに在り

――孔子が子貢に聞かれて一言で生涯の信条とする言葉として「それ(じょ)か。己に欲せざる所は、人に施すことなかれ」と云った。恕とは、相手の気持ちや立場になって考えてやること、思いやりである。上の立つ者の必要な徳目。 

・・・詩に(いわ)く、(けい)に宜しく(てい)に宜しと。兄に宜しく弟に宜しくして、而して后にもって国人(こくじん)を教うべし。詩に云く、その?(のりたが)わず、この四(こく)を正すと。その父子兄弟(ふしけいてい)たる(のり)とるに足りて、而して后に民これに(のりう)とる。これを国を治むるはその家を(ととと)うるに在りと謂う

――家を斉えられる人物が国家を治められるとの解説。 

伝十章

所謂、天下を平らかにするはその国を治むるに在りとは、上老(かみろう)を老として(たみ)(こう)に興り、上長(かみちょう)を長として(たみ)(てい)に興り、上弧(かみこ)(あわれ)みて(たみ)(そむ)かず。ここをもって君子(けっく)の道あるなり 

(かみ)(にく)む所、以って(しも)を使うなかれ。下に悪む所、以って上に(つか)うるなかれ。前に悪む所、以って(うしろ)に先んずるなかれ。後に悪む所、以って前に従うなかれ。右に悪む所、以って左に交わるなかれ。左に悪む所、以って右に交わるなかれ。これわこれ(けっく)の道と謂う

――上司の態度に接して、いやだなと思ったら自分が部下を使う場合、同じ事をしてはならない。部下の態度に気に食わぬ点があれば、自分が上司に仕える場合同じような態度で仕えてはならない。先輩のやり方をみていやだなと思えば、後輩に同じやり方で臨んではならぬ。大学はこれを(けっく)の道と呼んでいる。(けっく)とは思いやり。自分の心を尺度としてその心を携えて人の心をはかって

行くこと。忠恕の道に通じる。 

詩に(いわ)く、楽しき君子は民の父母と。民の好む所はこれを好み、民の(にく)む所はこれを悪む。これをこれ民の父母と謂う。詩に云く、節たる()南山(なんざん)()石厳々(いしがんがん)たり。赫々(かくかく)たる師伊(しいん)民具(たみとも)(なんじ)()ると。国を(たも)つ者はもって慎まざる()からず。(へき)すれば則ち天下の?(りく)()る。詩に云く、殷の(いま)(もろもろ)(うしな)わざるとき、()上帝(じょうてい)に配す。(よろ)しく殷に(かんが)みるべし。(しゅん)(めい)(やす)からずと。衆を得れば則ち国を得、衆を失えば則ち国を失うを()

――人民の心を心とする思いやりを持つのが真の政治家である。多くの民心を得れば一国を得ることにつながり、反対に民心を失えば一国を失う。これは政治の要諦である。政治の根本は、為政者の徳次第か。 

この故に君子は先ず徳を慎む。徳あればこれ人あり。人あればこれ()あり。土あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は(もと)なり。財は末なり。(もと)(ほか)にし末を内にすれば、民を争わせ奪うを(ほどこ)す。この故に、財(あつま)れば則ち民散じ、財散ずれば則ち民(あつま)る。この故に(こと)(もと)って()づる者は、(また)悖っ(もとっ)て入る。()(もと)って入る者は、(また)(もと)って出づ」。

―道理に背いて手に入れた財物・財宝はまた道理に背いて出でゆくものだ。思いやりに欠けた発言をしていては下の者から同じような言葉が返ってくるだけだ。全ての人間関係に当てはまることだ。 

・・・()(めい)(つね)(おい)てせずと。善なれば則ち之を得、不善なれば則ちこれを失うを()う。楚書(そしょ)に曰く、楚国(そこく)はもって宝と為す無し、()だ善もって宝と為すと。舅犯(きゅうはん)曰く、亡人(ぼうじん)もって宝と為す無し。(しん)を仁するもって宝と為すと

――楚の国は宝とするものはとりわけになかった。もし有るとすれば、それはただ善人がいるというだけだ。 

・・・若し一个(いっか)の臣あり、断々(だんだん)兮として()()なく、その心休休焉(きゅうきゅうえん)として、それ容るるあるがごとし。人の()ある。己これあるがごとく、人の(げん)(せい)なる、その心これを()みす。(ただ)にその口より出づるがごとくなるのみならず、(まこと)に能くこれを容る。もって能く我が子孫(れい)(みん)を保つ。(こいねが)わくは(また)()あらん(かな)。人の技ある、?疾(ぼうしつ)してもってこれを悪み、人の彦聖なる、これに(たが)いて通ぜざら()む。(まこと)に容るる能わず。もって我が子孫黎民を保つ能わず。亦曰く、(あやう)(かな)。唯仁人(じんじん)これを放流し、(これ)()()?(しりぞ)け、(とも)に中国を同じくせず。これを唯仁人(じんじん)能く人を愛し能く人を悪むことを為すと謂う

――仁者は私心がないから愛すべき人を愛し、憎むべき人を憎む。ただ仁者だけがこの公平の判断をなすのである。

賢を見て挙ぐること能わず、挙げて先んずること能わざるは(おこた)るなり。不善を見て退(しりぞ)くること能わず、退げて遠ざくること能わざるは過ちなり。人の悪む所を好み人の好む所を悪む。これを人の性に(もと)ると謂う。?(わざわ)い必ず()の身に(およ)ぶ。この故に君子大道あり。必ず忠信もってこれを得、驕泰(きょうたい)もってこれを失う

――人材登用についての助言、「素晴らしい人材を発見しても登用することが出来ない。仮に登用しても重用することが出来ない。これは明白に怠慢である。逆に、好ましからぬ人間を発見しても辞めさせることができない。かりに辞めさせても関係を断つことが出来ない、これは重大な過失である。やるべき事は万難を排してやれということ。

―国民がして欲しくないと思っていることをしようとする。或は国民がして欲しいと願っていることをしようとしない。それは人間性の本性に反している。そんなことをしたのなら必ず災いが自分の身にふりかかってくる。

――忠信とは自分を偽らぬこと。嬌泰は驕り高ぶってデタラメすること。権力の座にある程、厳しく自分を律すべきであるとの戒め。 

財を生ずるに大道(たいどう)あり。これを生ずる者(おお)くして、これを(くら)う者(すく)なく、これを()す者()くして、これを用うる者(ゆる)やかなれば、則ち財(つね)に足る。仁者は財をもって身を発し、不仁者(ふじんしゃ)は身をもって財を発す。未だ(かみ)仁を好みて下義(しもぎ)を好まざる者あらざるなり。未だ義を好みてその事終らざる者あらざるなり。未だ府庫(ふこ)の財その財に非ざる者あらざるなり

――財産を生むには生むべき大筋の道がある。姑息な手段や、その場だけの術策などで巧くゆくものではない。

――仁者は財産があれば、それを世に施して民心を得、我が身を向上させる。不仁なる者は、人の道を無視し、我が身を亡ぼしても財産をつくろうとする。

・・・馬乗(ばじょう)()うものは?(けい)(とん)を察せず。伐氷(ばっぴょう)の家は(ぎゅう)(よう)を畜わず。百乗(ひゃくじょう)の家は聚斂(しゅうれん)の臣を畜わず。その聚斂の臣あらんよりは、寧ろ(とう)(しん)あれと。これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すと謂う。国家に(ちょう)として財用を務むる者は、必ず小人()りす。小人をして国家を(おさ)めしむれば、?(さい)(がい)並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなは。これを国、利を以て利と為さずして、義をもって利と為すと謂う」

――太夫の位となり、四頭の馬を持つ身分となつた人は、もはや下層の民と利を競い豚や鶏の数を調べるような細かいことをしてはならない。また郷太夫の身分の人は、十分な俸給を得ているのだから、牛や羊などを自ら飼って下層の民と利を争うようなことはしてはいけない。

伐氷(ばっぴょう)の家、冬季に蓄えておいた氷を夏の葬式や祭りに腐敗を防ぐために使うことを許されている郷太夫以上の身分。

百乗(ひゃくじょう)の家戦時に車百乗を動かした高い地位と財産のある人は、決して民から金を取り立てる家臣など使用しないものだ。

聚斂(しゅうれん)の臣、家の中に民から金を取り立てる家臣を持つよりは、泥棒を抱えておくほうがまだましだ。盗人を抱えておれば金品を失うかも知れぬが、金を取り立てる家臣がいると、民の心を失うことになる。これのほうがもっと恐ろしい。

                                      完