安岡正篤先生「易の根本思想」13
平成21年3月度

 1日

二十五
大畜(たいちく)

1.山上(さんじょう)天下(てんか) (さん)天大畜(てんたいちく)

大事と実力の蓄積」。風天小畜(ふうてんしょうちく)と対比される卦である。小畜は四爻の一陰が五陽に介在し、畜養する力の弱い象である。

大畜は、大()が、君子が、大人が、いかに畜養(ちくよう)するかの積極的な卦である。山が造化を含む象であり、大人君子が大徳・大才を養うて動ぜぬ象であり、偉大な王者が勝れた人材を包容して安定しておる象である。

 2日 (せん)(よう)

九二
(かん)()の初九と同じく、(せん)(よう)が大切である。(はげし)いことがある。
血気に逸ってはならない。

九二

元来有為有能である乾の中に位するのであるから、しばらく車体の「とこしばり」をはづしておいてもよい。それほど静かに徳を養へば咎はない。 

 3日 (おお)に吉 九三

良馬を駆るような境地であるが、変わることなく苦心努力するがよろし。

六四

初九をどう蓄養するかである。それは童牛(わらべうし)を養って馴らすようにすれば(おお)いに吉。おのづから喜がある。

 4日 道大いに行われる 六五
九二に対する畜養である。()ね廻る(いのこ)の子を適当に繋いでおくことである。その成果は前爻(ぜんこう)にひとしい。 

上九

こういうように徹頭徹尾よく修養すれば、その結果は自由自在に活動できて、道大いに行われるであろう。

 5日

二十六
()

山上(さんじょう)雷下(らいか) (さん)(らい)() 

欲望の問題」。畜養の具体的問題として、まづ最も切実なものは、言語飲食を慎むことである。

そのように何を養うかの時宜を得た実質的解決のいかに大切であるかを教えるものが、この(おとがい)・やしなひの卦であり、()(あご)を表すことも噬?(ぜいこう)の卦で説いておいた。何を養うにも、変ることなく正を養うことが吉である。 
 6日 素心の友

初九
我にある至尊(しそん)のものに気がつかず、徒に他人の持ちものに()を垂れ、(よだれ)をたらすのは論ずるに足らぬ。凶」。

六二

高望みは凶。初九に従って、素心の友と平常心を養うようでなければならぬ。 

 7日 泰然として動ぜず 六三

大いに野心・野望の起こる時である。この爻、変じて山火賁(さんかひ)となる。「かざろう」として、却って「やぶれる」。常に失わぬとしても凶である。十年の修行が大切である。でないと、決してうまくゆかない。

六四

この爻、艮山(ごんざん)の卦であり、泰然として動ぜず、己を(むな)しうして初九の賢人を待ち、志業(しぎょう)を遂げるようにすれば咎はない。

 8日 事を起こさぬがよろし

六五
主席たる者は、群下(ぐんか)を従へて、威令(いれい)()くのが(つね)であるが、この場合はこれに反してあくまでも己を虚しうし、上九の(けん)(のう)に待って、事を起こさぬがよろし。

上九

下が皆由の処とするのであるから、(はげし)いが、吉。大いなる(よろこび)がある。

 9日

二十七 
大過(たいか)

澤上(たくじょう)風下(ふうか) 澤風(たくふう)大過(たいか)

大事と忍耐」。大過は(さん)(らい)()の裏返し(錯卦)で、()変ずると大過となる。大過は大()が過ぎるのである。

()(しょう)を見ても、初と上との両端が弱く、中の四爻(よんこう)が総て陽九で、卦辞(けじ)に「(むね)(たわ)む」とある所以である。
10日

澄然(ちょうぜん)として(もだ)えない

この卦はまた(かん)(すい)()(しょう)、即ち水の洪流(こうりゅう)と見られる。氾濫(はんらん)の憂を示すものである。また水中に(ふう)(ぼく)の象であるから、洪水や船・木・柱等の沈没を表す。

時代の激流滔々(とうとう)として衆人を危からしめる時、毅然として正義を執り、独立して(おそ)れず、或はまた世俗を(のが)れて澄然(ちょうぜん)として(もだ)えない道徳をも教えるものである。
11日 恭敬(きょうけい)慎重

初六

清浄潔白な柔らかい(ちがや)()いて祭器を置くように、厳粛に、然し恭敬(きょうけい)慎重にすれば(とが)はない。

九二

初六と正比すること、()(よう)?(ひこばえ)を生ずる如く、老夫(ろうふ)が若妻を(めと)って助け合うようにすればよろし。

12日 どっしり構えて

九三
大過の九三である。方に(むね)(たわ)む。凶である。(すけ)けもない。細心な警戒を払って困難を(しの)がねばならない。この爻変ずるも、沢水困(たくすいこん)である。

九四
大過に応ずる大切な位に在り。初六と正応し、どっしり構えて、下の勢に撓むことがなければ、衆望を引くこととなって吉。他意があるとうまくゆかない。

13日 善処を要す 九五

()(よう)に狂い咲きが出たり、老いた女が結婚しても長く続かぬようなもので、世俗の富貴功名は何にもならぬ、捕はれずに善処せねばならぬ。

上六
滔々(とうとう)たる濁流を泳ぎ渡るようなもので、凶であるが、何としても突破しなければならぬことであるから、遂行するに咎はない。上爻変じて?(こう)となり、新局面に遭うが、去って(とん)となり、世を(のが)れて悶えないことである。 

14日

二十八 
(かん)

(かん)()(すい)習坎(しゅうかん)

意思の原則」。しきりに至る象、険難(けんなん)重なる象、重なるを習という。(かん)(かさ)なる故、一に習坎(しゅうかん)というのである。苦労人は人を深くし、新たな勇気や力を生ぜしめる。信を失わず、努力してゆけば、他より敬重せられる。

二と五と中爻共に九であることを玩味せねばならぬ。険はまた国を守る手段ともなり、その時義は微妙である。
要するに、「艱難(かんなん)・汝を玉にする。()きことのなおこの上につもれかし限りあ身の力ためさむ」の概を要する。

15日 己を深めて待機を 初六
艱難に陥って、どうしてよいか、分からぬ処である。
凶で、この爻変ずれば水澤節である。拘泥せずに信念を享さねばならぬ。

九二
艱難はまだ容易に脱けられないが、誠はおのづから周囲を動かして少しは得る所がある段階である。 

16日 質素簡約 六三
前を見ても、後を見ても険難である。「険にして且つ深()い」境地である。もがいても何にもならない。己を深めて待機する外はない。六三変ずれば水風井である。妙理尽きぬものがある。

六四
陰の(せい)()に在り。主たる九五と正比している。九五と相待って、険難の解決を図らねばならぬ。質素簡約な礼式で君臣相謀れば咎はない。

17日 (しん)(せん)剛毅(ごうき)

九五
険難ここに至って全く平坦に帰する。然し、要するに(かん)の中である。(しん)(せん)剛毅(ごうき)を要する。

上六
険難の極は捕縄で縛られ、牢獄に投ぜられ、三年どうにも救われないと同じく、凶。九五の献身的努力と相待って、上爻変の風水渙となり解消することができる。

18日

二十九 
()

火上(かじょう)火下(かか) ()()()重明(じゅうめい)

理性の原則」。(かん)裏返した()卦である。火は日であり、明であり、理性・教養・文明・文化を表す。

動詞にすれば、「(はな)る」であるが、離るは「()()く」からそうあり得るので、同時に「()う」、「かかる」である。卦より見ると、中爻いづれも陰であることを特徴とする。即ち中陰、内慮(ないりょ)にして始めて()(めい)であることを表すものである。

19日 従順の徳 卦辞(けじ)に「(てい)(よろ)し。(とお)る」は疑うこともないが、「()(うし)(たくわ)う。吉」とある。古代農耕社会を偲ばせる辞例である。離は理性的・文化活動を説くのであるから、どうしても軽佻(けいちょう)になり易い。 牝牛のように従順の徳を養うのが吉である。理性はあくまでも正に就くものであり、正しいほど知は明らかであり、天下を化成して、四方を照らすことができる。
20日 慎重なれば咎はない。

初九

朝の未明である。足元が危ない。

慎重なれば咎はない。
 

六二
黄離(おうり)元吉(げんきち)。黄は中色で、最も物の育成に力がある。黄色の明るく輝くさまで、(おお)いに吉である。人間の知性・文化はあくまでも偏向してはならない。公正な進歩向上であるほど目出度い。

21日 日が(かたむ) 九三
日が(かたむ)く、即ち暮光(ぼこう)である。やがて暮れる。爻辞(こうじ)に頗る詩的な言葉がはいっている。不皷缶而歌則大耋之嗟凶(ほとぎをこしてうたわず、すなわちだいてつをこれなげく、きょう)(ほとぎ)()して歌はず、則ち大耋(だいてつ)をこれ(なげ)く。凶。
この解読は、通説とやや違うが、私はこの解を好む。缶は瓦製の素朴な酒器で、素人歌う時好んでこれを()って拍子をとったというものである。青春多感な時は、よく缶を鼓して歌ったが、もうその若さもないという長老の嗟歎(さたん)である。文化は衰え易い。
22日 己を虚しく

九四
初九に応ぜず。初九の慎重を欠き、知に任せて、力を過信し、軽率なことをしで゜かして大いなる破滅を招くところである。

六五

能く己を虚しくして明智を磨き、知に驕り、文に亡ぶものを、歎き憂うる道心があれば、吉である。

23日 寛大に化す 上九
離の極は理性の敵、文明を亡ぼす敵を征して、邦を正すことである。
つまらぬ醜類(しゅうるい)は問題とするに足らぬ。寛大に化してゆけば咎はない。
自今、暫くお休みとします。