宮脇淳子氏の名著「悲しい歴史の国の韓国人」より その二

平成27年3月  実に的確に真実を指摘されておるので一部引用する。

1日 朝鮮名のままでも何ら差別されなかった 「創始改名」に就いては、もう一つ理由があります。日本の戸籍制度をそのまま朝鮮に適用することが出来なかったのです。朝鮮には村の名前や一族の姓はあっても家族の姓がありませんでした。両班階級にしか姓が無かったからです。そこで、日本が戸籍を整備する時に、とても面倒なことになりました。と言うのも、朝鮮には姓そのものの数が少なかったからです。金や李、朴など大きな一族の姓は十程度しかなかったのです。そこで、一族の姓は戸籍簿に残したまま氏を創設してもいいとしたのが「創始改名」だったのです。
2日 姓名を奪ったと言いますが、そのほうが得だから朝鮮人が選んだ

1940年になって日本のように家族ごとに氏を作ってもいいという法律を作りました。そうなると元々姓が少ないのですから日本人の名前を選ぶことになります。結果的に80%の朝鮮人が日本名の氏を選択した。姓名を奪ったと言いますが、そのほうが得だから自分たちが選んだのです。

3日 日本内地に住んでいる朝鮮人は85%の人たちは朝鮮式の姓をそのまま使用

一方、日本内地に住んでいる朝鮮人は85%の人たちが、朝鮮式の姓をそのまま氏として設定しました。朝鮮名を選んだからといって差別されたわけではありません。日韓が併合されて朝鮮から日本に留学生が大勢きています。その人たちは朝鮮名のまま日本の学校に入学しても、日本人とちゃんと友達付き合いをしています。東大にも入学していると、裁判官にもなっています。

4日 金メダルの孫選手

日本の男子マラソン選手として1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した孫基諦、戦後戦犯として裁かれて絞首刑になった洪思翊中将なども、朝鮮名のままでオリンピック選手や日本軍の高官になっています。朝鮮名だからいじめたなどと言う日本人は戦前、特に内地では実はいなかったのです。

5日

七奪 その六「土地を奪った」のウソ

朝鮮半島で日本人が所有していた土地は僅か6

「土地を奪った」も大間違い。
李氏朝鮮時代は所有権の概念があいまいだったので、朝鮮総督府は併合して直ぐに近代的測量技術を使って土地調査を実施しています。8年かけて綿密に土地調査を行った結果、270万町歩と言われた耕地が実際には487万町歩あることが明らかになったのです。なぜこれほどの差が出できたのかと言えば、両班が土地を隠していたからです。土地の面積を過小に評価して税金の支払いを逃れるためです。
6日 朝鮮総督府が非常に平等なことは韓国人も認めた

だから、日本の統治下で隠していた土地が表に出されてしまった両班は土地を奪われたと恨んでいるのです。それが真相です。
1922年、朝鮮半島における国有地及び日本の法人・個人が保有していた土地は、全耕地面積のたった6%しかありませんでした。この数字を見れば奪ったというのがウソだと直ぐ分かります。
朝鮮総督府が非常に平等だったのは、所有権の曖昧な土地がたくさん見つかったけれども、それを殆ど朝鮮人に売っていることです。それは勇敢な韓国人学者である李栄薫さんの著書「大韓民国の物語」の中に書かれています。

その七「資源を奪った」のウソ
7日 朝鮮半島のインフラ整備に巨額の資金を投入した日本 「七奪」のウソの最後は「資源を奪った」です。

収奪どころか日本は税金をつき込んで産業を育成しました。併合後、毎年、2000万円前後の資金を持ち出し1939年になっても日本からの補充金が全予算額の25%を占めていました。

8日 朝鮮の近代化を進めた日本 
朝鮮人を幸せにした日本

19世紀末から20世紀頭にかけて、イザべラ・バードなど多くの欧米人が韓国を訪れて旅行記を書いていますが、それを読めば、朝鮮半島がいから貧しかったかがよくわかります。日本も日清戦争、日露戦争を戦って国家財政は火の車だったはずです。それでも日本は資金をつくって朝鮮の近代化を進めたのです。その努力はほとんど涙ぐましいと言ってもいいものです。
1910年、朝鮮全土で1000万石だった米の生産高は、1930年代に2000万石を超え、1933年から38年にかけて農家収入は二倍になり、朝鮮人の平均寿命は1910年に25才だったのが38年には45才になっています。

9日 今のお金に換算すれば63兆円を朝鮮半島に出した日本

35年に及ぶ日本統治期間を通じて日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計207892万円です。今のお金に換算すれば63兆円にもなる巨額の資金です。内訳で言えば、鉄道建設の諸経費換算で10兆円以上、民間資金も水豊ダムだけで3兆円以上になります。日本はよくこれだけの資金を出したものだと感動してしまうほどです。

10日 戦後もまた韓国に資金援助

「漢江の奇跡」も日本の援助

「漢江の奇跡」も日本の援助があって実現した

しかも日本は戦後もまた韓国に資金援助しているのです。今の朴大統領の父親・朴正熙大頭領の時代に日韓基本条約を締結して日本は無償3億ドル、有償2億ドル、併せて5億ドルを提供しています。これは当時の日本の国内総生産の25%にねなる金額です。
この日本の資金を使って韓国は「漢江の奇跡」を実現して経済発展を軌道に乗せたのです。

11日 中国や韓国とは
大違いのモンゴル国

日本は今でも世界中の国々にODAで支援しています。例えばモンゴルです。ソ連邦が崩壊してモンゴルが民主化したあと、モンゴルの国家予算の半分が日本の援助だった年もありました。モンゴル支援国会議を日本で開催して日本が援助を取りまとめたのです。そのあと四分の一程度になったようですが、10年間は日本がモンゴルの最大の援助国でした。この日本のODA支援をモンゴルは感謝してくれています。中国や韓国とは大違いです。しかもモンゴルは国連の非常任理事国を日本に譲ってくれるなど、きちんと恩を返しています。こういう国なら日本も支援しがいがあるというものです。

12日 悪口を言われる筋合いは一つもない

だから、感謝されこそすれ悪口を言われる筋合いは一つもないのです。処が、証拠も無いのに、韓国人は一方的に被害を受けたといい続ける。ウソでも何でも余りにも強く主張するので何か根拠があるのだろうと日本人が思わされてしまうほどです。だから、日本人は史料にあたって正確に事実を認識したておくべきです。近現代の歴史については日本人は真面目に几帳面に記録して史料として残してあるのですから。

13日 大韓民国の物語

韓国人・李栄薫の「大韓民国の物語」にある話を少し紹介しましょう。
日韓併合で多くの日本人が朝鮮半島に渡ります。一番多い時は75万人、人口の2.7%程度です。
中略――日本の支援は朝鮮半島を近代化し、同時に日本の近代化にもつながったのです。

14日 植民地に公共投資などした国は日本だけ

西欧列強の中で植民地に公共投資などした国はありません。西欧の植民地では基本的に宗主国の人間が居住するのは町や港、鉄道沿線に限ります。処が日本の日韓併合では、農村部にも日本人が入って、駐在所の巡査と小学校の校長や教頭、水利組合、金融組合といった地方組織にも日本人が赴任しているのです。資金援助だけでなく僻地の村にも日本人が入って国作りに参加したのです。本当に一握りの56人の日本人が各村に入って、殺されもしなかったと言うのは、いかに日本の統治が平和的で現地でも受け入れられていたかと言うことの何よりの証拠です。

15日 中人階級の人

1925年当時、郡主を務める朝鮮人が250人いました。郡主と言うのは県知事より下の市長あるいは村長ぐいにあたる役職です。つまり、日本から給料を貰って村長などの役職についていたのです。この人たちは全員が韓国人両班の下層階級である中人(ちゅうじん)出身だったそうです。この中人階級の人たちが教育を受けて日本語が話せるようになって日本の統治下で役人になつていったのです。

16日 中国人

中国人はもともと民族としての意識が希薄なのです。今では、中国5000年の歴史などと言って漢民族の歴史が続いてきたように言っていますが、それは中国共産党が作ったナショナリズムに基づくフィクションに過ぎません。日本のように連続した歴史を大切にする文化は持っていないのです。

17日 台湾人

台湾人も文化的な葛藤は少ない人たちです。特に客家や福建の人たちは、生活できなくなれば移住することが当たり前の人たちだから現実的なのです。だから、ら日本の統治のほうがうまくいくならそれを歓迎するというところがあります。朝鮮統治に比べて日本の台湾統治がうまくいったのもその背景には彼らのそうした資質があるのです。

18日

日韓併合で朝鮮から日本へ留学ブーム

1930年代には日本の教育が浸透して公立学校が増えていきます。併合当時は小学生は2万人程度でしたが、1937年には90万人となり45倍に増えています。
1939年には単科大学、師範学校に行っている朝鮮人が6000人を越して京城帝大にも206人が入学しています。京城帝国大学が設立されたのは1924年のことで、日本で六番目の帝国大学です。大阪帝大や名古屋帝大よりも早かったのです。1930年代末には子供の就学率が男の子は60%を超えています。
19日

1937年ころから、朝鮮人が日本に留学してくるようになりました。1942年には29千人が日本の学校に入学しています。その75%が中学生でした。中学生から日本に留学してきたわけです。この子たちは高校から大学へ進学します。日本の大学を出れば出世できるからです。

20日

これは今の韓国のアメリカ留学ブームとそっくりです。韓国では、小学生からアメリカ留学させるのが流行しています。まだ子供が小さいので母親が一緒についていく。お母さんは英語教室で勉強して子供はアメリカで英才教育を受けるのです。父親は給料を運びに往復するだけなので「雁」と言われています。私がインディアナ大学の英語の短期コースを受けに留学したとき、韓国人が沢山留学してい子供が音楽教育のために留学していたお母さんが私と同じ英語の集中コースにいました。

21日

日韓併合の時代は日本留学がブームだったのです。教師になったのは日本人だけでは勿論ありません。総督府の下級官庁と学校に官吏や教師として就職した朝鮮人は1940年には17万人いて日本人よりも多かったのです。

22日 日本の政策

1940年と言うと日韓併合から30年たっていますから朝鮮人を教育して中級官吏は置き換えていこうというのが日本の政策だったのです。小学校でも朝鮮人の先生が増えていきましたがね校長と教頭は日本人でした。それが日本の敗戦まで続いたので日本人の先生だという朝鮮人は非常に多かったのです。

23日 日本統治はコミュニズムの浸透を防いだ 1931年の満州事変から大東亜戦争終結の1945年までの14年間は朝鮮半島では全く反乱はありません。日本人が現地の朝鮮人のために満州事変まで戦ってくれたのですから日本人でいることは嬉しいことになったのです。満州にいた朝鮮人小作人は完全な親日へと変わります。特に1937年にシナ事変が始まると朝鮮人は熱狂的に日本を支援するようになりました。
24日 朝鮮人の
求めに応じたのが
創始改名

1932年に満州国が建国されると、日本の安全保障や軍備の重点が満州に移ってしまい朝鮮は緩衝地帯として内地と同じ扱いになります。「創始改名」も前に述べたように満州の朝鮮人の求めに応じて法改正をしたにすぎません。大東亜戦争に協力はさせられたかもしれませんが、朝鮮人の徴兵は最後の段階で行われたにすぎません。極めて統治はうまくいっていて、暴動など一切無かったのです。

25日 朝鮮人から志願兵の申し入れ

シナ事変が勃発すると朝鮮人から志願兵の申し入れが行われるようになり、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出されました。けれども、朝鮮人に徴兵制が施行されたのは19444月からで国民徴用令が実施されたのも19449月からでした。

26日 ウソは慰安婦だけではありません

だから、日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は19543月、下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7ヶ月間で、内地に徴用された朝鮮人労務者はごく少数だったのです。戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人だったことが1959年の外務省の調べで分かっています。それなのに、韓国は、凡そ12万人の朝鮮人が徴用された、と言い、それを強制動員の被害者と言うのです。ウソは慰安婦だけではありません。

27日 共産主義の浸透を完全に阻止した

話を戻します。日本の朝鮮半島統治でもう一つ重要なのは、あとでも金日成に関連して述べますが、朝鮮への共産主義の浸透を完全に阻止したことです。

28日 つまり、日本の統治下で日本へも浸透しなかったのと同様に朝鮮半島でも共産主義の浸透を許さなかったのです。
29日

それで、モスクワのコミンテルンは今、延辺朝鮮族自治州のある間島省に朝鮮人の共産党の中心を置いて、中国支部の下に入れます。モスクワから見たら朝鮮人はあくまでも中国人の下の扱いだったからです。 

30日

日本統治下の朝鮮では、共産主義活動は一切成功しなかった。だから日本の敗戦時に朝鮮半島には共産主義勢力もいいなければ、反日勢力も一人もいなかったのです。

31日 戦後の朝鮮半島の歴史始まる そこで、ソ連は金日成を後押しし、アメリカは李承晩を連れてくるのです。そこから戦後の朝鮮半島の歴史が始まるのです。