継体王朝の悲願

壬申の乱において勝利した天武天皇は、日本の天皇として、“自ら”相手を武力で倒して政権を奪取した唯一の天皇です。私はこの事実の中に、壬申の乱の意義が表出していると思います。

すなわち、天武天皇の政権は、自らの力によって樹立したものであり、その政権の運営も自らが執政されたのです。ここに天皇権は完全な形で確立したのであり、逆に言えば壬申の乱は天皇権の確立のための戦いであったというのがその中心的な意義であると見るべきなのです。

思うに、この天武天皇が継承されている継体王朝は、その成立からしてあまりに薄弱な天皇権の王朝でした。継体王朝は、前仁徳王朝が政権内部の豪族同士の権力闘争の最中、皇位継承者を失って崩壊したとき、有力豪族の大友金村が越前から連れてきた継体天皇によって始まったのでした。有力豪族によって擁立された天皇になった継体天皇、この天皇は自らの力で王朝を築いたわけではないのです。その本質は有力豪族たちを束ねるために据えられた天皇です。飾り物的天皇、傀儡天皇という性格を与えられて継体王朝は始まったのです。

従って、継体天皇後も、歴代の天皇は大伴氏から物部氏、蘇我氏と代わる豪族政権の中で、かろうじてその地位を保っていました。しかし、崇神天皇の暗殺

を経て推古天皇の下で聖徳太子が天皇氏的自覚を強めるに及び太子の治世下で天皇権確立への方向づけがなされたのです。

太子は、豪族による天皇の傀儡化を避けるシステムとして中央集権的律令国家を目指されました。言い換えれば太子の時代に、天皇主権下における中央集権的律令国家への種蒔きが行われたのです。それはまた、継体王朝のいわば悲願ともいうべき天皇権確立を、中央集権的律令国家体制によって実現しようという運動の始まりでもあったといえます。

 

天皇権確立の運動

聖徳太子の蒔いた種は成長して大化の改新となり、中央集権的律令国家体制がその確立への歩みを進めました。しかし、その段階においては、かっての豪族層に代わって、新体制の推進力となった鎌足らの官僚貴族が実権を握ることとなり、天皇権確立はまだ実現しませんでした。

しかし、中央集権的律令国家体制の一応の体裁が整ってくると、遂に最終段階である、天皇主権下・古代天皇制下における中央集権的律令国家の完成が壬申の乱によって達せられることになったのです。

もとより、歴史のこうした動きは天皇一人の意志によってつくられるものではなく、人民、各支配層、天皇の動きの総体が、各層の力関係の調整機構としてそうした古代天皇制下における中央集権的律令国家という形態を選択していったのです。聖徳太子は、その選択するべきイメージを形にして表現したというだけにすぎないと考えなければなりません。

このように、歴史の流れの中で壬申の乱をとらえるとき、それは古代天皇制下における中央集権的律令国家の確立の課程において必然的に起こった運動の一つであるということができます。

そして壬申の乱の本質は何かと言えば、それによって旧豪族に代わって天皇を傀儡化しようとする官僚貴族を打破し、古代天皇制下における中央集権的律令国家を完成させる運動であったということになるのです。

 

高進政治と古代国家の成立

親政の性格

壬申の乱で自らの実力をもって官僚貴族の支配する大津政権を打倒した大海人皇子は、翌年673年二月二十七日、飛鳥浄御原宮で即位されました。ここに天皇は名実ともに日本の主権者として立たれたのです。

天武天皇は、必然的にまず壬申の乱に功績のあった改新政府である大津政権への反抗的勢力を登用しなければなりませんでした。その意味では反動性を帯びていましたが、改革政治は一面、以前より徹底したかたちで推進されたのです。全体的に見れば、官僚機構による中央集権的律令国家の体制の中に古い氏姓制社会の体制も生かすような折衷的方向をとられたといえます。

そうして天武天皇は、中央集権的律令国家の基本路線は崩さず皇親政治によって国家体制を整えていったのです。即ち、天皇はその在位十四年間、一人の大臣もおかず、鸕野讃(ろののさら)()皇女と高市皇子などの少数の皇族だけを側近とするだけでした。官僚といえども直接国家の枢機には参画させないという、極めて強力な親政体制をとられたのです。これが皇親政治

といわれる独裁親政です。

 

巧妙な皇親政治

皇親政治において、天武天皇は具体的にどのような政治を行われたのか。

まず皇族・豪族ともに、その部曲(かきべ)の廃止、私有地の独占禁止、食封(じきふ)の停止を命じました。これらの施策は改新政治の際、公地公民制を実施するために旧豪族を懐柔するためにとられた妥協策ですが、それを廃して公地公民制を徹底させたのです。

それが律令制官僚統一国家への積極作であるとすれば、天皇権確立のための施策として拝礼の法を制定して宮廷儀式を統一しています。こうした施策によって、天皇と豪族の格式の差を明確にし、天皇の尊厳を高めることで天皇権の絶対化、神聖化をはかったのです。

ほかにも、皇后との間に生まれた草壁皇子を皇太子として明確に定め、皇位継承争いが起こらないようにしたり、律令の制定や方式の改定を命じるなど、天皇制下における律令国家を着々と現実化していきました。

また、保守的な要素を進歩的な体制に取り入れていくという天皇の折衷策は、例えば「八色(やくさ)(かばね)」などに典型的に示されていいます。

真人(まひと)()(そん)(いみ)()宿(すく)()道師(みちのし)(おみ)(むらじ)稲置(いなぎ)の姓を定めて氏族にあらためて賜ったのですが、これは一見すると世襲制を廃して人材登用による官僚制を目指す改革政治に反するようにみえます。しかし、改革の精神からすれば従来の姓は廃止するべきだとしても、賜姓において氏姓制度の場合と違うのです。氏姓制度では、賜姓は氏の出自、氏の勢力、土地・人民の多寡によって行われ、姓によって身分の尊卑を世襲化していました。それに対し、八色の姓は朝廷に対する功績を基にして天皇の判断で行うというものだったのです。

 

註 部曲(かきべ)

  部民を指す。大化の改新以前、諸豪族の私有地で、主家に隷属しているもの。それぞれの豪族の名をとり、大伴部・物部・蘇我部・中臣部などという。大化の改新で廃止され公民となった。

 

  八色(やくさ)(かばね)

  古代の姓の制度。684年天武十三年に従来の臣・連・村主などの姓を改めて新たに制定した姓八級からなっている。伝統的姓制度を再整備し、皇親を最高とする身分制度の樹立を目指したものである。

 

この八色の姓は実質的に冠位の別称に過ぎず、冠位を授かればそれに対応する姓を賜るという性質のものでした。ただ、姓を尊ぶ風潮があったので、新しい姓によって古い姓を一掃すると同時に冠位の定着をはかろうという実に巧妙な折衷策だったのです。また、これと連動して諸氏族に氏上を定めて上告させることで氏の整理統合をはかったのでした。

律令制の仕組み

中央官庁

  神祇(じんぎ)官   太政官

  太政(たいしょう)官  左大臣

        太政大臣-大納言 左弁官

        右大臣      少納言

                右弁官

      左弁官  中務(なかつかさ)省 詔書の作成等

           式部省 文官の人事等

           治部(じぶ)省 姓氏・仏事・外交

           民部省 戸籍の作成、税務等

      右弁官  兵部(ひょうぶ)省 軍事、武官の人事等

           刑部(ぎょうぶ)省 裁判、刑罰等

           大蔵省 財政、貨幣等

           宮内省 宮中の事務等

  弾正台 風俗の取締り、官吏の監察。

  五衛府 衛門府     宮城の警備

      左・右・衛士府

      左・右・兵衛府

 

地方官制

諸国 五畿七道 国(国司) 郡(郡司)-(里長)--

要地 京 左・右・京職 坊と東西市司(いちのつかさ)

   津(難波)-摂津職

   筑紫-大宰府西海道諸国と防人司

 

完成した古代国家

律令制は大化の改新以来その制度が着々と完備されてきましたが、天武天皇はそれはそのまま用い、進化させました。しかしもそれを運営するのに、中臣鎌足のような官僚が中心となるのでなく、天皇が皇親とともに運営していくかたちをとりました。即ち、官僚主導の律令国家ではなく、天皇が要となって律令制を自らの手で運営していく国家が出現したわけです。

この最も強力な皇親政治下ま律令体制は天武天皇から持統・文武天皇の三代にわたって継続しました。

そして、文武天皇の大宝元年701年、大宝律令の完成とともに聖徳太子が理想とされた古代的天皇制下ま中央集権的律令制国家は、完全なかたちとなって完成したのです。ここに聖徳太子に始まる古代国家完成への歩みが大化の改新と壬申の乱という大変革を経てほぼ一世紀を費やして漸く完成をみたのです。

 

国家形成史の終わり

日本にクニが発生したのは恐らく紀元前二世紀のころ、それから統一運動に伴う戦乱の時代が続き、その中から大和朝廷が勝ち残りました。

一応の統一国家をなした大和朝廷は、はじめは諸氏族の棟梁としての天皇氏が統率する氏族連合政権というにすぎませんでした。連合が蜜になるほど政権内において諸氏族が実権を握るようになり、いつしか天皇は傀儡化の対象となり、遂には有力氏族に擁立

された継体王朝が出現したのです。

しかし、国家としてより安定していくには、強力な安定政権が求められます。諸外国の影響を受けながら、日本がその安定政権の形態として選んだのが古代天皇制下における中央集権的律令国家だったといえます。

本講座は、そうした日本古代の国家形成史というものを、文献を主たる手がかりとして構築してきたわけです。従って、古代国家の完成期までたどりついた時、本講座を締めくくりたいと思います。 完