第31講 騎馬民族征服王朝説とは何か

平成27年3月

1日 第四世紀の騎馬民族日本征服説
古墳時代は誰がリードしたか
本章は前講までに、古墳の初期から末期まで、つまり第三世紀から第七世紀のころまでの古墳の特徴を材料にして、順次各期の社会情勢について話を進めてきました。それと第三章でみた同時代の大和朝廷の王朝史というべきものを合わせ考えれば、概ね古墳時代の概要を把握できるのではないかと思います。
2日 朝の由来、民側的な起源は 然し、古墳時代を理解するには、いま一つの視点からも眺めておくことも必要です。それは、簡単に言えば古墳時代をリードしたのは誰かということです。もとより、私はそれは崇神王朝や仁徳王朝、継体王朝という大和国家であると考えるわけですが、ではそれらの王朝の由来、民側的な起源はどこにあるのかということです。
3日 崇神王朝は原大和国家 私自身は、崇神王朝は原大和国家であり、原日本人による大和平定によって発展してきた国家であるし、仁徳王朝は九州()()(こく)から畿内に移動して大和朝廷を継いだ国家と考え、継体王朝は仁徳王朝の血統が途絶えた結果、有力豪族の大伴氏によって越前から迎えられた継体天皇を始祖とする王朝であると考えるわけです。
4日 民族的な次元における変革 そして、そうした三王朝交替説を中心として、前講までに述べてきちように、古墳の形態における各期の変遷というのも殆ど説明できると考えるのです。然し、例えば、古墳が第三世紀末から第四世紀初頭に突如として発生したと考え、或は前期と中期古墳文化のつながりを殆ど否定するような考え方をとれば、それを民族的な次元における変革と捉え、そこから古墳時代を考える試みが出てきて不思議ではないかもしれません。
5日 原日本人と大陸系民族との結合 実際、私自身も仁徳王朝の前身である九州の狗奴国について、原日本人と大陸系民族との結合を考えているのであり、民族という視点から古墳を捉えることも必要な作業だと思います。
6日 騎馬民族征服王朝説の登場 古墳時代における民族レベルの問題とは、端的には日本はその時期に他民族の侵入を受けたのか、という問題に終結すると思います。
7日 民族の侵入は考えられないい 結論から先に言えば、その点に関しての私の答えはノーです。九州の狗奴国と仁徳王朝については説明の要がありますが、基本は三王朝交替説であり、その間に民族の侵入というようなことは考えられません。
8日 然し、外来民族との関係で古墳時代を把握しようとする試みに対し、それへの正当な批判を加えることつ必要なことと思います。なぜなら、そうした批判によって古墳時代に対する認識が深まることは間違いないからです。
9日 大きな波紋 それでは、外来民族との関係で古墳時代を把握する場合、具体的にどのような考え方があるのでしょうか。日本民族は、騎馬民族によって征服され、その征服によって日本の国家が成立した?江上波夫教授以下数人の学者が、そのように衝撃的な学説(私は江上教授の学説を「騎馬民族征服王朝説」と呼びます)を唱えて戦後の古代史学界に大きな波紋を投げかけています。ここで暫く、その学説がどのような経緯で生まれ、どのように古墳時代をとらえているのか見ていきましょう。
10日 日本先住民族と外来の天皇族

岡正雄教授の説
「騎馬民族征服王朝説」が公表された発端は、昭和23年、江上波夫・岡正雄・八幡一郎・石田英一郎ら四氏によるシンポジュームでした。
そのシンポジュー
ムに於いて、岡正雄教授がドイツで発表されていた「古日本の文化層」という論文が初めて日本で公表されたのです。その要旨は次ぎのようなものです。
11日 天皇族 南満州の東辺に牧民的・農民的な混合文化を持っていた民族が古くから先住していた。その民族が西暦紀元後、恐らく第二、三世紀頃までに南満州の東辺から移動して朝鮮を比較的短時日で南下、日本列島に渡ってきた。それがいわゆる天皇族である。
12日 既に
母権的村落社会
当時、日本列島には先住民族が各地に居住していたが、それらの先住民は既に米作農民文化を展開させていた。従って、その社会は母権的村落社会であった。また海岸河谷地帯には漁民的・農民的・年齢階級的な社会を営んだ種族も別にいた。
13日 天皇族は、元来種族的外婚制をとる種族であったので、日本列島への侵入に際しては婦女子を伴ってい来なかった。いきおい先住民族の婦女子を娶らなければならなかった。
14日 古日本文化の根幹 然し、先住民族の婚姻制度が母系的、母処婚的な制度があったので、天皇族もその原住民の社会制度の影響を受けて、王朝制が完成する時期に至るまでのかなり永い間、母処婚的訪婚形式をとらざるを得なかった。こうして天皇族の王侯的な文化と土着民の米作農民的な文化とか混淆して、いわゆる古日本の文化の根幹ができあがった。
15日 古日本の文化層 天皇族の氏族文化は、南満州の古代国家の扶余や高句麗の種族の文化に近いもので、即ち南ツングース族系の文化であった。この種族は一種の牧民的イデオロギーを持っている反面、狩猟的・農民的な面も多分に持っていた。
以上が「古日本の文化層」における岡教授の基本的な概念で、先住民と天皇族との二者の対比において日本民族の生成をとらえようとされた学説です。
16日 註  扶余 南扶余とも、南朝鮮の忠清南道にあった百済の旧都。聖明王の538年から660年の滅亡まで王都として仏教文化が栄えた。百済の都城半月城があった。
縄文・弥生・古墳時代の異人種混入
17日 八幡一郎教授の説 岡教授の論文を受けて、まず考古学者の八幡教授が、縄文文化と弥生文化との対比で先住民と天皇族の対比を述べられました。その論旨は次ぎのようなものです。
18日 縄文文化は中石器文化に似た様相を示す文化に始まり、それが縄文前期を通じて発展した。中期に入ると前期文化の発展した要素を継承したものもあるが、その上に西日本から伝わってきた異質の文化の影響も著しくなり、後期になると更にその中期文化の伝統と西方からの弥生文化の伝播による新しい文化の影響とが混淆してきた。
19日 弥生文化は東南アジア的な農耕文化であり、縄文文化は担い手とは全く異なった別系統の文化をもつ人々であり、古墳文化には漢・韓、即ち中国・朝鮮の帰化人による大量の異質血液の移入があり、それは奈良時代までそうした状況が続いた。それが大陸文化の伝播の経路である。
20日 こうした文化の流れは、頭型に現れる人種的混入によって裏付けられる。即ち、縄文文化の前期はヨーロッパの中石器文化に系統を引く北アジア的な漁撈文化という性格を示すもので、その文化の担い手は短頭型の人種である。縄文文化の中期は前期文化の伝統の上に西日本文化の要素が混入する。その時期の人間は短頭型の人種ではなくて長頭型になる。前・中期文化の伝統と西方からの弥生文化の混交によって形成され、その文化の担い手はやはり長頭型の人種であった。
21日 次ぎの弥生式文化となると、前漢末に日本と南朝鮮と分布した東南アジア的農耕文化がもたらされる。その文化の担い手は、前の時代の人種と異なった、中頭型あるいは短頭型の人種とみることができる。弥生文化を継ぐ古墳文化の時代となると、奈良時代にいたるまで大陸文化の伝播が強力であり、その時期には中国・朝鮮からの帰化人による異質人種の血液の大量混入があった。この時期において日本人は短頭型の人種になってくる。
22日 以上が八幡教授の論旨 このように文化の系統を明瞭にし、その線上に沿った人種系統の問題まで明らかにするのが古代史を知る正しい方法である。
以上が、八幡教授の論旨ですが、要するに日本民族は混血人種であり、日本の文化は混交文化であると考古学の立場から述べられたのです。それは、言うまでもなく同教授の説かれる天皇族外来の可能性を考古学の立場から補強したものと言えます。
騎馬民族征服王朝説の骨子
23日 江上波夫教授の説 岡教授や八幡教授の外来民族の侵入・混入を説く見解に対し、さらに江上教授は東洋史全般との関係から「天皇族は列島への新たな侵入者」とする見解を具体的且つ強力に唱えたのでした。その論旨は以下の通りです。
24日 江上波夫教授の説 天皇氏を中心とした大陸北方系騎馬民族の部族連合体が日本に侵入し、大和に征服王朝を樹立したが、大和朝廷が南鮮を制圧していた時代までは大陸的・征服王朝的性格が強く、また部族連合的・軍事的本質を有していた。然し、南朝鮮の支配が不可能になった時以来、大和朝廷は東国的・日本的な性格と変貌した。
25日 江上波夫教授の説 そして天皇氏の絶対君主制的・民治的傾向が次第に形成され、大化の改新によりその変化の政治的・社会的な一大顕現をうかがうことができるようになる。さらに、奈良朝まではまだ相当に大陸的な様相が各方面に現れていたが、平安朝になるとその傾向が消え、殆ど島国的風土的なものになってしまった。日本を占領したこの大陸北方系の騎馬民族なるものが具体的にいかなる民族であったかということについては確答は困難である。
26日 江上波夫教授の説 然し、朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が高句麗にしても扶余にしても、伽羅にしてももいずれもみな、満州に原住したツングース系統と考えられている。そこで、朝鮮半島を南下してさらに日本にまで渡来した大陸北方系騎馬民族もやはりそれらと同様のツングース系統の民族とみて大過はないと思う。ことに大和朝廷と百済の王族との親縁な関係をみれば、天皇氏その他も扶余系の種族であったと思われる。
27日 江上教授はこのように騎馬民族を軸に古代史を構成され、さらに騎馬民族による日本列島の征服の事情を次ぎのように説かれたのです。
それは、西暦第四世紀前半の頃のことであり、南鮮の倭人の植民地を飛び石として日本島に渡来したのである。然し、北九州及び出雲の弥生文化期以来の伝統的な大勢力の存在した地域へ敵前上陸することは甚だ困難であった。そこで北九州を東に廻り、海峡を通過して豊後水道に入り、日向に上陸し、倭の一派である出雲族と妥協した。その上で瀬戸内を経て倭の一大中心地大和を征服したのである。
28日 騎馬民族による日本征服の時期 以上が江上教授による騎馬民族征服王朝説の概要です。他の二氏の見解とは細部において相違がありますが、日本民族を混血民族とみられる点、また日本民族の基本をなす人種が大陸北方系の民族であるとする点老いては、岡・八幡両氏の見解とほぼ一致しているようです。
29日 然し最も問題とされた点は、騎馬民族が列島を征服した時期を西暦第四世紀の前半期という、極めて新しい時代に起こったことだと解釈されたことです。
30日 日本民族の基幹をなした民族がツングース族であるという説に関しては、既に都鳥居博士の「固有日本人説」や西村真次博士の「原日本人説」の中に、明瞭に基本人種については南ツングース族の影響が強いということが説かれていました。
31日 また日本列島の征服者が北方系騎馬民族であったという説も、早くは早稲田大学の佐野学教授が説かれていたところでした。然し、それらの説はいずれも移動・征服の時期を西暦第四世紀というような新しい時期のこととせず、より古い時代に起こったこととされていたのです。