金融機関と言う言葉
バブル以前からであるが、いつ頃であったか、多分、これからの時代は証券の時代だと言われだした時期であるから昭和50−60年代であろう。
それまでは、銀行と証券というものは異なるイメージがあり、勿論、本質的にも異なるから、銀行と証券とは明快に分けて受け止めていた。
それまでは、証券というよりは「株屋」であった。オーソドックスな貯蓄を集めて融資し企業を育てる銀行と、単に、買っては、売って、利鞘稼ぎで成り立つ証券業とはきちんと認識としても、分類していたのである。
近年では、銀行も証券も信用金庫も信用組合も、農林中金も、みな金融機関と一律に包含して馬鹿なメデイアが流すから、証券業もお堅いイメージが出来ているが、本質的には銀行とは断然異なるのである。
証券業は資本主義には必要不可欠な存在である。
だが、証券の売買を見ていると、不可思議なものがある。
一日の、朝と午後で、目まぐるしく、株式を売買する判断基準の情報が変化することである。
これは、人により判断基準の違うのは理解するが、一つの企業に関して言えば、目まぐるしく変わるような事は実は、有り得ない、ここがオカシイのである。
それは、企業の真実に関して、売買者と株式媒体者の間に、情報操作をする連中が大きく介在していることの証左であろう。
これは、情報を操作する存在が歴然とあることに外ならない。
バブル時代から私がインチキだと指摘していたアメリカの「格付会社」とか、表面は、投資会社の面を見せながら、裏面で私的利益追求にアクドイことをしていた、アメリカの投資会社―ゴールドマンサックスとか、メリルリンチとか、スイスのUBS―とかが筆頭に上げられる。
彼らは、投資会社でなく、「投機」会社なのである。
自己の利益のためなら、風評を巧妙にばら撒いて生き馬の眼を剥くウオール街であった。
どの証券会社でも、世界的に大なり小なりであろう。
今回のアメリカのこれらの投資会社は「天罰」、即ち因果の法則に則って崩壊した。当然であろう。
アメリカの市場経済なるものは、経世済民の思想は全くない。
そのシステムが究極的に崩壊したのは人間にとりハッピーである。
これで、金融機関という言葉の「まやかし」が自明となるのだ。
銀行という信用第一で成り立つ機関と、証券という自己利益主体のものとは峻別して認識しなくてはならぬ。第一、全面的には否定しないが、サブローンなどりような邪悪な証券など最低だ。
日本の銀行などは、農耕民族的で、イジラシイ程に遵法的である。
あの、世界一のシィティバンクやアメリカ銀行の株価が一ドル近くとなって国有化寸前であり感慨無量である。
日本は間違っていない。
折りしも、アカデミー賞に二つの日本人作品が入賞した。
中国など、六百年前の墓でも暴いて、死者を侮辱する文化がある。
今回の「送り人」の本質は、日本人のやさしさ、であるが、
私は思う、
「人の死は、いかなる人でも厳粛だという日本人の文化に根ざしている。
長い間、ご苦労さまでしたね、と心から遺体を大切にして葬る日本文化に人間として、誇りを持っていいと思う」
元に戻る、欧米の銀行は国有化されて政府資本が導入されて自己資本が極めて高くなっている。
そこで、二枚舌の白人は、新しいBIS基準として自己資本・現行8パーセントを、20パーセントにしようという動きが起きている。
日本のメガバンクは経営的には世界第一に安泰であるが、自己資本は現行10−12パーセントでは欧米対比薄資である。そこに彼らは突け込んできたのだ。
日本の一人勝ちを排除しようという常套的手段が躍り出ている。
白人とは油断も隙もない人種である。
平成21年3月1日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典