女王国・狗奴国・大和・吉備・出雲の五国分立時代
平成25年3月

1日 倭人の国 「魏志倭人伝」が記す女王国、或は狗奴国という倭人の国が九州にあり、同じ時代に大和地方には九州の国々とは異なった国が存在していたと見ることは何の問題もありません。陳寿もちゃんと「東海を渡ること千余里にして、また倭人の国がある」と書いています。
2日 つまり、女王国や狗奴国以外にも同じ人種の国があることを認めているわけですから、それが即ち、日本の文献にいう大和の国家、大和朝廷の国ではないのかと考えてよいわけです。
3日 九州の倭人の国のこと 要するに「魏志倭人伝」は、全日本のことではなく、“九州の倭人の国”のことを書いているだけなのです。それらの国がちょうど朝貢した国々であったから、魏の歴史書の中に書かれているわけです。然し、またせその頃、大和の国、即ち本州島の「東海を渡ること千余里にして倭人の別の国がある」という別の国については、国が存在することは分かってはいたけれども、それらの国が魏に朝貢していないから、魏の歴史の中にはそのことが書かれていない、私はそうのように解釈します。
4日 並立した存在 つまり、同じ時期に、ちょうど同じ弥生文化の中に、銅剣・銅鐸の文化圏と、銅鐸ま文化圏の対立が考えられているように、同じく政治の上からみても、九州地方の国家と同じような国家体制を取ったものが大和を中心とした本州島にも存在していたというふうに、並立した存在を認めるのです。
5日 そして、九州と言っても北九州に女王国があり、南九州に狗奴国という国があるように、本州島に於いても、吉備の国家があり、或は出雲の国家があり、或は大和の国家があった。即ち大和にも女王国や狗奴国のような地域ブロック的な小国家があり、大和だけではなくて、吉備にもそうした地域ブロック的小国家のような存在があり、北の出雲にもそれがあった。と考えて何の差支えもない筈です。
6日 実際、私は、ほぼ確実に、本州島の西半分には出雲、吉備、大和というような、三つの首長国連合のようなものが別箇に存在し、九州と同じように互いにしのぎを削っていた。と考えています。そして、それからの首長国連合の間で更に大きな統一への戦闘が行われるような動きが、九州でも、大和でもあろうということを前提に、弥生遺跡の研究もなされて行くべきだろうと考えるのです。

第三章     原大和国家と三王朝交替の謎
16講 大和国家確立以前の本州西部

7日 倭の国家群 
大和国家の黎明期

弥生時代の後期、第三世紀頃の日本にはどのような勢力があったのか。前回の講義(第二章の第1415)で述べましたように、この疑問に対する答えの“一つ2は、卑弥呼の統合する九州の首長連合国家(邪馬台国を含む)です。つまり、卑弥呼の女王国は大和にあって日本の大半を統合していた国ではない、()()(こく)とともに九州を分割していた国に過ぎないのです。

8日 原大和国家もその中の一つ

そうであれば、当然、同じ頃の九州以外の地域にはどのような勢力があったのか。という問題が浮上してきます。前回の講義では、その点に関しても簡単に触れました。即ち、私は女王国と同様の地域ブロック的国家が本州島にもあったとみます。そして、原大和国家もその中の一つであったと考えます。原大和国家、即ち日本統一を果たした大和朝廷・大和国家の前身とみるべき国家です。

9日 原大和国家は

そうしますと、この原大和国家や本州島の他の地域ブロック的国家の実際はどのうよなものだったのか。また、それらの国家間の関係は・・、或は九州の国家との関係はどうなっていたのか。さらに、そうした国家群の中から、原大和国家はどのようにして統一を進めていったのか。

10日 今度は、こうした本州島の国家の実実像、国家間の勢力関係さらには統一の過程が大きな謎としてクローズアップされるわけです。本章に於いては、原大和国家を中心に、弥生時代後期の日本の勢力図を眺めさらにそこからどのようにして大和国家が生まてきたのかを見ていくことにします。
11日

本州・四国にも倭人の国があった

「三国志」の記述から
先ず、九州にあった邪馬台国から“東”の方を眺めてみましょう。第三世紀の中国人・陳寿が著した「三国志」(ここで引用するのは「三国志」の一部である「魏志倭人天皇伝。)は、帯方郡郡治所より倭人の国に至る道程を、南に向かって韓国?狗邪韓国?対馬国?一支国?末盧国?伊都国--奴国?不弥国?投馬国?邪馬台()--狗奴国の順に説明した後、そこまでに述べた倭k国についての総論を述べています。

12日 「南」はすべて「東」の誤記

そして、次に筆をあらため、その他の“東方”の倭人国、魏とはまだ通商関係を結んでいない諸国についても述べているのです。前講でも述べましたが、この「東」という文字について、いわゆる邪馬台国論争で大和説を唱える学者たちはひとしく記述に従えば邪馬台国の位置は九州を縦貫してさらに九州島の南方まで行ってしまうことになる、それはおかしいから、陳寿は「南」と「東」とを間違えたのだ、だから奴国以後の文中の「南」はすべて「東」の誤記である、と解釈し、強引に文字を改訂して読もうとします。然し、それは自説に都合のいいように、つまり奴国から「東」へ向かって大和に到達するようにという考えからの間違った解釈と言わざるを得ません。

13日 皆倭種ナリ

陳寿は、決して「南」と「東」を誤って書いたわけではありません。「南」と「東」という“方角”は正しく認識した上で、明瞭に区別して記しているのです。そもそも、帯方郡からずっと船に乗って航海するのです。航海するのに「南」と「東」を間違えて、どうして船を目的地に安着させることができるでしょう。陳寿は、九州島に存在した女王国とその南の狗奴国以外にも倭人の国が存在したことをはっきり知っています。それは次ぎの記述で明らかです。
女王ノ東。渡レルコト千余里。(また)有レリ国。皆倭種ナリ。

14日 原日本人の国

これは、女王国の国境から東の方へまた海を渡ること千余里(凡そ400キロ)の所に、九州の女王国連合の国々や南九州の狗奴国とは別な国があるが、その国は女王国や狗奴国と同じ人種、即ち原日本人の建てている国であると述べています。

15日 本州島も九州にも

この「海」が、関門海峡か豊後水道かは明らかではありません。従って、その国の所在地が本州島を指すのかは明らかではありませんが、とにかく瀬戸内沿岸の島地のことを指していることは確かです。そうしますと、九州に女王国連合や狗奴国が存在していた時代に、同様の国が本州もしくは四国にも存在していたことが明記されているわけです。

16日

実際、当時の本州西半部や四国地方に、九州と同様な“倭人”の国々、つまり首長国や首長国連合が地域ブロックごとに分立していた状況は、それらの地域と九州の文化が一つの“弥生文化”を共有していることからも推定できます。

17日 同じような政治的・社会的情勢

古くから言われている弥生時代の二つの文化圏の対立、即ち銅剣・銅鉾文化圏と銅鐸文化圏との対立は、弥生文化の中の地域差として認めるべきもので、当時の日本の文化・社会は相対的には一つの文化・社会と見て間違いありません。そうであれば、九州と大和の両地域に、ほぼ同じような政治的・社会的情勢が展開していたと見てよいわけです。
注 関門海峡
下関市北九州市門司区との海峡。
豊後水道
愛媛県西岸と大分県南東部海岸との間の海域。

18日 本州島西部に繰り広げられた統一の戦い 現在、近畿大和を中心とした地域、瀬戸内沿岸の吉備や安芸と呼ばれた地域、大和と吉備の中間に挟まれた播磨の地域などは、大きな弥生集落址や、弥生時代の墳墓や水田址などが発掘調査され、夫々の地域に首長国群が存在していたらしいことが考古学的に裏づけられつつあります。
19日 出雲国

また、その後背地である日本海沿岸地域、即ち石見・出雲などの山陰地方から、但馬・丹波を経て若狭・越前・能登に至る地域にも、考古学調査により、若干の地域ブロック的首長国が分立していた状況が明らかになってきました。それらの地域の中で最も大きな力を持ったのは“出雲国”であったと思われます。

20日 吉備、播磨、出雲

これら吉備、播磨、出雲などに存在したであろう首長国は、日本の古典(記紀など)の中でも古くから存在していた国として神話や伝説にしばしば登場します。ということは、原大和国家(大和地方を統一した首長国)ず次第にその周辺地域の首長国群を統合し、九州の女王国連合や狗奴国のような国家を形成していっただろうと言うことは文献の上からそう言えるというだけでなく、考古学上の事実からも肯定できるということです。

21日 原大和国家

即ち、後の大和国家(日本の大半を統一した国家)に成長する原大和国家は、先ず大和地方を統一した後、本州島の西部に向かって更なる統一へと歩を進め、やがて播磨や吉備を統合し、その余力をもって後背の出雲国をも統合していった?そのような原大和国家の勢力拡大の動向が、文献と共に考古学上の事実からも窺われるのです。恐らく、九州てで第二世紀中半に大乱が起こったと同様、本州島に於いても弥生時代中期から後期にかけて、統一の為の激しい戦乱が起こっていたと思われます。

吉備国から見えてくる新しい古代史像
22日 文化伝播の吉備国 戦前の日本の考古学では、吉備国(今の岡山県)という地域をそれ程重視していませんでした。弥生文化が起った九州と、日本の唯一の国家の起源地であると目されていた大和のみが着目され、北九州の遠賀川系統の最古の弥生土器が大和に波及した、という単純な考え方がなされていたのです。
23日

つまり、弥生文化がまず北九州に起こると、それが東方へ瀬戸内海を通って伝播し、大和地方へ入っていった---そうした文化伝播のルートは想定されていましたが、北九州と大和に弥生文化の“中心地帯”を設定し、瀬戸内海を通過して伝播していく文化は、吉備国は素通りして直接、大和へ入ったと考えられ、吉備国はいはば文化の“通過地帯”であるという認識が一般的だったのです。

24日 古代は海上の航路

古代における文化の伝播とは、例えそれが海上の航路を通っての伝播であったとしても、決して一気に流れ伝わるものではないのです。一つの地域から“隣”の地域へと伝播し、そこで拡散しつつ、さらに隣りの地域へというように、新しい文化要素は各地に根づきながら徐々に伝播していったはずです。
25日 海上伝播

例えば、海上伝播という場合、船舶によって文化が運ばれるわけですが、船舶はところどころ寄港しながら、進むわけです。その寄港地に新しい文化が伝わる可能性は十分にあるわけで、ただ文化が通過しただけの地域とみなすことは出来ないのです。

26日 文化の一中心地吉備国

とりわけ吉備国は、古代の瀬戸内航路上、必ず寄港しなければならない地域であったとみられ、そこに弥生文化ず古い時代に伝播し、定着し、文化の一中心地が出来ていたとしても一向におかしくありません。

27日 吉備文化

現在では、既にそうした視点から出発した吉備国の文化の再検討いつどのようにして吉備に一つの地域的な文化の中枢が形成されたのか、つまり“吉備文化”とみなされる一つの文化複合体が形成されたのかということが、考古学上の重要な課題となり、また古代史の上でも重要な課題となっているのです。

28日 鉄文化の中心地 日本の古代史を考える上で、私は吉備という地域を特に重要視します。というのは、私は、西日本における鉄の文化の中心地が古代吉備国の領域内にあったと考えるからです。
29日

鉄の文化と言いますと、これまでは出雲国が日本の製鉄文化の起源地であり、そこが鉄文化の中心地であると考えられてきました。そして、その考えに立脚し、古代上の出雲部族の勢力の基盤は鉄の文化にある、というようなことが一般的に言われてきたのです。

30日 出雲の「鉄の文化」に疑問

然し、私は長い間、古代上の出雲国について研究し、その結果、最近では出雲の「鉄の文化」に対して疑問を持っています。

31日

中国山脈の山系に属する地域での砂鉄・精錬の文化的中心は、むしろ山陰側、日本海斜面の側(出雲方面)よりも、中国山脈を越えて、山陽側、瀬戸内海斜面の側(吉備方面)にあったと見るべきです。