第六講 神功皇后伝説の謎解き その十           

日本国家成立の推定

平成24年3月度                                                    

 1日

卑弥呼と
神功皇后

日本の文献には出てこないのですが、中国の「魏志倭人伝」の中には卑弥呼という女王のことが出てきます。女王・卑弥呼は立派な帝王として書かれているのですけれども、日本の伝承の中には卑弥呼などという女性は一つも記されていないのです。

「魏志倭人伝」は中国の三国時代(220-280)の歴史書の一部で、第三世紀後半に著されています。ですから、第八世紀前半の「日本書紀」編集の頃は、既に遣唐使の時代で、編纂者たちは当然、卑弥呼のことは知っているわけです。

 2日

そうすると、「日本書紀」が正当な中国の正史に対比できるような立派な書物なのだということを誇張したい編纂者とすれば、日本の歴代の天皇の中には卑弥呼に当たる人がいなければ困るわけです。そこで、編纂者はどうしたのか。古い時代の日本側の伝承や、古記の中には、卑弥呼に的確に

該当する人物が見出せない。
然し、伝承をずっと見ていくと、神功皇后という立派な皇后がおられる(神功皇后は「古事記」崩年注記のない皇后。私は天武朝の頃に作られた架空の皇后であり編纂の頃には既にある程度の伝承が作られていたと見る)

 3日

この神功皇后の伝承が卑弥呼の事蹟に似通っている処もある。これが、どうも中国でいう卑弥呼ではないか。ほかに該当者が見当たらないのだから、神功皇后も卑弥呼に該当させよう「日本書紀」の編纂者は、きっとそう考えたのです。処がそうする為には神功皇后の年代を「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼の実

年代に合わせなければなりません。つまり、卑弥呼が活躍した西暦第三世紀の初めから半ば頃までの間に神功皇后がおられてと言う事にしなければいけなくなったわけです。神功皇后は、応神天皇の母とされる人ですが、その時代を卑弥呼の時代に一致させなければなりません。

 4日

然し、日本でも応神天皇を父とする仁徳天皇のあたりから推古天皇までの間の年代に就いて見ますと、仁徳天皇を父とかる履中天皇以後は日本でもおぼろげ乍ら若干の記録

が作られていた時代です。そういう古い記録が残っていたとすると、仁徳天皇以後の時代のことになると、やたら勝手に年代を変えるわけにはいかないはずです。
 5日

ちなみに仁徳天皇の時代は第五世紀前半、そうすると、その父の応神天皇がだいたい第四世紀後半、その母・神功皇后の時代はおおよそ第四世紀中頃といえます。卑弥呼の時代は第三世紀前半。

こうした無理があるのですが、結局、「日本書紀」の編纂者は、やはり神功皇后を卑弥呼に比定しようとその摂政期間を201年から269年までとしたのです。
 6日 中国の史書からの引用

神功皇后=卑弥呼に幸いした「百済記」
神功皇后を卑弥呼に比定しようとする「日本書紀」の編者にもとても都合のよい材料を提供してくれた古い史料がありました。「日本書紀」の編者が思惑通りに、恰も神功皇后が卑弥呼であると 人々に信じ込ませるのに幸いしたのは、「百済記」という、百済に関する古史料を材料にして書いたと思われる、かって日本に存在していた史書の文章のおかげです。
 7日

この「百済記」の第四世紀中葉の日本と朝鮮との渉外関係史料を幾つか引用し、神功皇后の新羅交渉の架空の物語に結びつけ、史実らしく思わせたのです。
つまり、百済の建国の年代や、

「日本が荒田(あらた)(わけ)鹿()我別(がわけ)を将軍とし、百済のていとともに369年、新羅を討った」というような絶対年代を示す四条の記事を、神功皇后の新羅交渉の物語に混入させることで、それらしい伝承を作ることができたのです。

 8日 編者が故意に年代を延長

ただし、そのままですと、卑弥呼の生存時代と合致しないので、卑弥呼の生存していた年代の同じ干支の年にこれらの記事は挿入されています。ちょうど干支二運120年を繰り上げますと、第三世紀中葉に同じ干支の年がありますので、その年

のことに決めて成文したと考えられます。その年代的操作の事情を修正して見ると、次の表となります。この表を基にして考えれば、神功皇后のところで、「日本書紀」の編者が故意に年代を延長させた理由がはっきりとします。
 9日

「神功記」の干支二運繰上げ年次表

百済記

渉外事項

同左干支

書紀紀年

同左西暦

干支二運

繰上西暦

書紀紀年

百済使節が卓淳国に来て日本との通交の仲介を要請して帰国した。

甲子年

仁徳52

364

244

神功皇后

摂政44

卓淳国を訪れた日本使節が同国官人の案内で百済国に赴いた。

丙寅年

仁徳54

366

246

神功皇后

摂政46

百済記

渉外事項

同左干支

書紀紀年

同左西暦

干支二運

繰上西暦

書紀紀年


日本を訪れた百済の使節が天皇に新羅国の不実を奏上した。

丁卯年

仁徳55

367

247

神功皇后

摂政47

日本はその言を信じ新羅に出兵し弁韓七国を平定した。

己巳年

仁徳57

369

249

神功皇后

摂政49

10日

神功皇后と卑弥呼を合わせようとした露骨な企み 

その上、日本書紀の編者は、このからくりを一層納得させようとし、わざわざ「日本書紀の本文の中に、特別に引用する関係記事もないのに、ただ「日本書紀」の紀年が「魏志倭人伝」の年立と合致していることを思わせるだけの為に、所々に「魏志倭人伝」の本文の二行の割注をもって挿入しているのです。

卅九年。(この)(どし)太歳(たいさい)己未。魏志に云わく。明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難(たいふな)()()等を遣わして、郡に詣天子に(いた)りてことを求めて朝献(ちょうけん)す。太守(りゅう)()()を遣わして将に送りて、京都(けいと)に詣らしむ。

11日

とありますが、これは明らかに神功摂政39年が、魏の景初3年に当り、まさに卑弥呼が女王として在位中であることを明示する割注です。そして以下同様の割注が二箇所あります。  

神功40年。正始元年。庚申。西暦240年。

神功43年。正始4年。癸亥。 西暦243年。

12日 まとめ

これらはみな、「日本書紀」の本文とは何の関係もなく、ただその年が魏の何年に相当する年であるかを示し、それによって神功皇后が正に卑弥呼であることを暗示しようとしたものにほかならないのです。まとめますと、「百済記」には正当な絶対年代を示した百済と

日本との渉外関係史の史実を伝える記事があったのですが、「日本書紀」が神功皇后の物語を作り出した時に、物語を事実らしくする為に、その記事を使用し、然も神功皇后が「魏志倭人伝」中の女王卑弥呼であると見せる為に、記事の年代を干支二運102年も繰り上げたのです。

13日 魏志倭人伝
中国の魏の史書「魏志」の「東夷」の条に収められている日本古代史に関する最古の史料。 
摂政 
君主に代わって政務を行うこと。
14日 百済
古代の朝鮮半島南部の国。四世紀中頃、馬韓諸国を統一し王国を建設。
新羅
古代朝鮮の国名。四世紀辰韓を統一して新羅と号し、六世紀以降、任那を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を平定、668年朝鮮全土を統一した。
晋書
24史の一。唐の太宗が、房玄齢・李延寿らに命じて撰ばせた晋代の正史。
15日 神功皇后の架空性の検証

「神功紀」が後から「日本書紀」の編者によって作られたものであることはその構成からも明らかに察することができます。神功皇后の摂政期間は69年もの長きに亘っていますが神功皇后の一代紀のうち

古い帝紀の類によって成文しているのは僅か3年分だけでありそれに旧辞物語や叙事詩文芸を材料としたものが2年分に過ぎず帝紀及び旧辞によるものは元年紀・二年紀・三年紀。十三年紀だけです。
16日

それに対し日本側の伝承とは全く関係なく年次の確認のために「魏志倭人伝」から引用した割注だけで、1年紀を構成しているのが、39年記・40年紀・43年紀の3条で、「百済記」によることの明瞭なものが47年紀と

62年紀の2条それに明記してはありませんが、関連記事のみで成立している46年紀・49年紀・50年紀・51年紀・52年紀・55年紀・56年紀・64年紀の8条があり、また「晋書」によるものが66年紀の1条あるのです。
17日 渉外関係の逸文

そこで不確実ながらも、日本側の史料を批判的に処理することによって、多少とも役立つように検討を重ね、その中から史実の発見に努めることが唯一の文献的手段とな

るのですが、その観点から重要になってくるのが、「日本書紀」の「神功紀」所引の「百済記」などの渉外関係の逸文になるのです。
18日 

そして、年間を通して一言も記載を見ないのが46年分にもわたっています。

そうすると、「神功紀」は「百済記」より借用した記事が最も多く、主要な部分は殆どこの記述に終始していると言って過言ではないのです。
19日 神功皇后は創出?

それは帝紀や旧辞などの日本側の古い史料が殆ど無いのと対照的ですが、一層注目しなければならないのは、69年の在位中の約7割近くを占める46年間に何の記載もないと云うことで、この一事を以てしても「神功紀」

が後の時代に作られたものであり、且つその事は、神功皇后自体が古い伝承の中に生まれた人物ではなく、後の時代に必要があって作り出された人物であることを立証していると見てよいでしょう。
20日

逸文中、卓淳国というのは、今日の大邱」付近に存在した国と比定されていますが弁韓12国の中の一つでした。百済が卓淳国に使者を派遣して日本国との通交の仲介を要請したのです。それが364年のことだとすると、346年に建国した百済にとっては建国後僅かに

18年後のことになり、事実に合います。そして、卓淳国は、この百済の要求に従って、日本の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と日本との正式交渉の端緒を作ったらしいのです。

21日

そうであれば戦前の古代史で喧伝されていた、神功皇后の三韓交渉ない

し新羅交渉と言われるものが全く史実ではなかったことは明らかです。
神功皇后創作の波紋
22日 百歳天皇 第三世紀の初め頃に出ていた卑弥呼に本来、第四世紀中頃にいるべきはずの神功皇后を当てはめるには、どうみても120 年程の年数が不足します。そこで、「日本書紀」は神功皇后のところで干支二運120年を遡らせました。
23日

そうすると今度は初代神武天皇の即位年・紀元前660年から第三世紀初頭の第15代神功皇后まで

の約860.年間に、14人の天皇を当てはめなければならなくなります。
24日

その結果、100歳以上の天皇で出てくるとか或は在位が100年以上の天皇が続いて出てきます。然し、そういう矛盾を敢

えておかしてまでも、神功皇后を第三世紀前半の人とすることを決定したのです。
25日 逆算して
神武天皇即位年を決定

つまり「日本書紀」の編纂者たちは、まず推古天皇の9年を基点として、それから逆算して神武天皇即位年を決定しまし

たから(第三講)、後で誰が何とかしてその辻褄を合わせなければならないわけです。
26日

そこで干支一運60年を基数として増減しそれでも不足すると更に干支二運120年延長することもありました。ですから、天皇の寿命や在位年数が

非常に長くなってしまうわけなのです。人間らしくない長い寿命の天皇が出てくるし、在位年数も非常に長くなるという結果を生じたのです。
27日

例えば「日本書紀」では、()(じん)天皇の宝算、即ち天皇の寿命を干支二運の120歳としており

ます。「日本書紀」はそのように決めたのですが、「古事記」の方は同じ崇神天皇の年齢を168歳としております。
28日 なぜでしょうか。

これは決してデタラメに決めたのではありません。この168歳というのは、百歳という最大数を表す日本の古い聖数としての百を取り干支一運の60年を足し、それに八

を加えました。この八という数字も最大の数を表す場合に、例えば、()(またの)大蛇(おろち)のように尊んでいたわけです。
29日

また「日本書紀」の崇神天皇の在位数が68年という数値になっているのも、「古事記」の宝算、168歳と関連して生じたものだろうと思われます。「日本書紀」では、歴代の天皇の宝算や在位年数が不明な場合、

だいたい干支一運60年を基にして種々あんばいするというのが常套手段であったと見られます。このようなことも、そうした宝算の天皇が後から加えられた天皇ではないかということの理由になるのです。

神功皇后が教えてくれる東アジア情勢

30日 「百済記」は最も古い時代を扱った史書

「日本書紀」に引用されている「百済記」という史書は現存しませんが、「日本書紀」の中には神功皇后のほか応神紀八年・応神紀二十五年・雄略紀二十年の条に引用された文を見ることができます。

百済国に於いて、史書が編纂されたということは、百済開国以来記録がありませんでしたが、「三国史記」の巻24、近肖古王の時に、博士高興が初めて史書を述作したとあるだけで詳しいことはわかりません。
31日 それで「日本書紀」に収められている逸文から判断しますと、「百済記」は韓国の史書と言われる「百済新撰」「百済本記」などに比して最も古い時代を扱った史書であると推定されます。「百済記」は近肖古王から蓋鹵王まで九代にわたる間(346-475)の史書であったかと思われます。  私はこれらの百済関係の史書は朝鮮になく、日本で「日本書紀」にしばしば引用されていることから推すと、百済から日本へ移住して帰化した百済人が、日本で故国を偲んで記した史書ではなかったかと考えます。(恐らくその成立は百済滅亡の後の編纂)