日本古代史 「神聖皇統の構築」 

平成26年3月

1日 神聖皇統の構築

このように互いに血縁関係のない三つつの王朝が交替して、日本の古代国家が完成したとみるのが私の三王朝交替説の骨子です。

2日 万世一系の神聖皇統」
観念

然し、古代日本人の過去因を重んじ、由来を尊重する精神の作用は、三王朝を過去因として一つにまとめ、遠い過去からの王朝の同族的形成を信じることで、自分たちの時代の天皇の支配者としての権威を合理的に説明し、納得しようという気持ちを醸成したに違いありません。そうした気持ちが、古代国家の確立期に最高潮に達し、遂に「万世一系の神聖皇統」という観念を確立させたと考えられます。

3日

そして「万世一系の神聖皇統」の観念は、天皇家の系譜を「記紀」にみられるような形に作り上げ、三王朝を初代の神武天皇より、婚姻関係によって同一血統の皇統として説くようになったのです。

第四章巨大古墳の出現と騎馬民族征服の謎

第25講 古墳とは何か
4日

古墳文化の起源と分類

古墳文化の起源

古墳と言えば、即座に膨大な盛り土が連想されます。現代の機械力を駆使する土木技術にしても、大変な作業になるだろうと思われる。あの盛り土を考古学では「封土」と言います。

5日

古代の人々は、封土を造り、封土に棺や玄室をおさめ、その中に死者を葬るとともに副葬品を配置しました。この棺や玄室などの構築物を「内部主体」といい、「内部主体」を持つ封土を「古墳」或は「高塚」といいます。

6日 古墳の起源の遡及

西暦第三世紀の後半期から第四世紀の初頭にかけて古墳が出現するというのが従来の定説でしたが、最近の発掘調査により古墳の起源は段々と古く遡り、第三世紀の半ば頃より。ささらには第三世紀の初めまで古墳の起源をさかのぼらせる説が出でくるようになりました。

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また、弥生時代の墳墓と、古墳時代と言われる第三世紀後半からの墳墓の様式は異なっているというのが従来の説だったのですが、弥生時代の墓の調査が進むにつれ、「弥生時代の古墳」と言われるような古墳時代の墓と構造をもつものが発見されるようになりました。

8日 墳丘墓

それらは、「台状墓」とか「墳丘墓」という名前で呼ばれていますが、我々から見ると、これも封土を持ち、封土の中に内部主体を構築していますので、古墳とどこが違うのだろう、規模の大きさや形状はともかく、基本的には同じではないかというような疑問ももたれる状況になってきています。

9日 古墳文化の分類 従来の定説は、古墳は第三世紀の後半あるいは第四世紀の初頭から現れ始め、第五世紀、第六世紀という時期に普及して全国的な分布をみる、そして第七世紀になると古墳の終末期になる、と考えました。
10日

こうした見方の上に、古墳をその形態などによって前期、中期、後期の型に分類し、概ね前期は第四世紀の古墳、中期は第五世紀の古墳、後期は第六世紀の古墳に該当させていました。

11日 五つの時期に分けて

これに対し、私は早くから、初期の古墳を想定し、これを第三世紀に当て、前期を第四世紀、中期を第五世紀、後期を第六世紀とし、さらにその末期の古墳も考えてそれを第七世紀の古墳として設定してきました。このように、私は古墳文化を五つの時期に分けて考えていたのです。

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昨今ではそれを裏付けるように、第三世紀の前半の頃、既に古墳が存在していたのではないかという見方も出てきたわけです。また、最近になって第七世紀の古墳が中央においても地方においても発見され、特に地方においては第八世紀まで末期古墳が発見されるという状況になってきているのです。こう見れば、分類の仕方としては五期に分けた方が分かりやすいと云えます。

13日


遺体をおさめて埋葬する施設。木棺、石棺は弥
生時代にあり、古墳時代になると原則としては棺で覆われた石室に安置される。 

玄室
後期古墳にみられる内部施設である横穴式石
室の奥室で、遺骸や副葬品をおさめる部屋。 

副葬品
死者に添えて埋納する器物の総称。

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古墳の形態と特徴

初期古墳から前期古墳へ

私が唱える初期古墳、即ち第三世紀の古墳ですが、これは極めて数は少ないのですが、段々と各地方で発見されています。先述した通り、これには所謂「弥生時代」の台状墓とか墳丘墓と言われる古墳をその中に含みます。
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そして第四世紀の前期の古墳時代になると、そうした古墳の数がだんだん増えてくるわけです。第三世紀の後半期になって大和地方に突如として巨大な姿を発見した古墳は、どのようにして、また何故そこで発祥したのか、その理由についてはまだ的確な説明がなされていません。

16日

然し、現代においては、そうした近畿大和中心の単一起源論よりも、むしろ各地域に同じような時期の古墳が発見されるようになってきて、古墳の概念自体が変化してきている状況にあることを知っておく必要があるでしょう。

17日 前期古墳の特徴

前期の古墳の特徴としては、先ず円墳とか、方墳とか、前方後円墳と言われるような墳形が非常に多いことです。そして比較的大きな規模のものが見られるようになり、また墳丘の上に石を葺いて土が流れるのを止める、いわゆる葺石が認められる古墳も発見されています。

18日 粘土棺 封土の中の内部主体は棺で、棺は木棺、あるいは粘土棺と言われるものです。ちなみに、粘土棺とは木棺を粘土で覆い固めたものです。それを今日発掘すると、まず粘土が筒型に出てきます。それを割って中を見ますと、本来は中に木棺が入れられていたわけですが、腐食して木棺の部分は見ることができません。
19日

この時期の古墳には、内部主体をなす棺などは墳丘の封土の表面近くに安置されていて、その周囲を粘土や(れき)(小石)など地固めをしたものがみられるのも特徴です。

20日 副葬品

遺されている副葬品としては、伝世鏡と言われるような鏡、あるいは筒型の銅器、玉の類などが発見されます。つまり、宝器的な品物が副葬されているのが特徴です。

21日 円筒埴輪・形象埴輪 第五世紀の中期古墳になると、前期の古墳が小高い丘陵状の自然地形を利用した墳丘であるのに対して、台地状、あるいは平野の真ん中に立地する巨大な墳丘へと変化し、しかもその墳丘の周囲に大きな堀=周湟(しゅうおう)を巡らせた古墳がみられるようになります。また、土留めのために円筒埴輪がおかれ、或は墳頂にお祭りのために並べられたのかと思われるような形象埴輪、即ち人物の形、鳥獣の形をしたような形象埴輪が並べられ、前期古墳と比べると著しい変化が認められます。
22日

葺石
古墳の外装。墳丘の土砂の流失を防ぐため封土表
面を礫で覆ったもの。その礫を指す場合もある。斜面や基部のみに巡らすものと、全面を覆うものとがある。

23日

円筒埴輪
埴輪の一。土着状の埴輪で、周囲に数条の凹帯が巡らしてある。古墳の墳丘を取り巻く円筒列として用いた。

24日 形象埴輪
埴輪の一。単純な円筒型の円筒埴輪に対し、種々な人工物や自然物をかたどった埴輪の総称。
人物埴輪、動物埴輪、家形埴輪、器財埴輪に区別される。
25日--26日 古墳の黄金時代 この中期、第五世紀の日本の古墳は、古墳の黄金時代を覗わせるもので、その封土は前期と同じような墳形のものも見られますが、さらに帆立貝式の古墳が現れるとか、或はそり墳丘が一層巨大化しています。
そして何よりも、一重あるいは二重の周湟(しゅうこう)が見られるというのが封土の外観上の特徴であり、内部主体も前期のものと比較してより深い所に造られて、竪穴式の石室、あるいはその石室の中に木棺ではなくて石棺が用いられ、長持形の石棺とか舟形の石棺、あるいは竹を割ったような割竹形の石棺などが、主として埋葬の用具として用いられています。
27日 副葬品の特徴

副葬品としては、多くの武器類、鎧、冑など実用の品物が副葬されることが特徴になっています。また、それとともに、大量の石製模造品が副葬されることも特徴として考えてよいようです。従って中期となると、前期のように宝器類を副葬するという様式が消滅し、実用器具を副葬するのが一般化してくる、というように中期古墳の副葬様式の特徴を捉えることができます。

28日 六世紀の群集墳と円墳 次の第六世紀の後期古墳は、中期に比較して墳丘の形・規模がずっと小さくなりますが、墳丘の小さな規模に比して内部主体である石室などが不相応に大きく造られているのが特徴です。
29日 群集墳

また、それまでにも集中して古墳が造られ、古墳群とでも言うべきものを形成している場合がありますが、第六世紀の頃にはそれが徹底し、古墳群よりさらに大規模な、数百あるいは千に近い数の小さな墳丘が一ヶ所に造られて群集している状態になります。これは「群集墳」と名付けられています。 

30日 後期古墳 中期までの古墳が豪族などを葬るために造られたと見られるのに対し、群集墳が現れる後期の古墳は家族墓ないと同族墓として、各家族同族が一戸一戸ごとに墓を造ったというような埋葬習慣を示しているとみられ、それが後期古墳の一つの特徴だと云われています。
31日 円墳 封土の外観という点では、上円下方墳というような特殊な墳形が現れ、円墳が支配的な形態となり数多くの円墳が造られています。