「心を支えてくれた古人の言葉」 

1日 「生きてしやまん」

そうだなあ、と思う言葉を集めた。かみしめて、噛み締めて己れを顧みつつ生きて、生きてしやまん。一日を生きる事実、それは「一日、死に近づく真実」であることを身に沁みて感じる83才の昨今である。それは「一日の重さ、尊さ」を知ることにほかならない。
佐藤一斎先生の言志録を完全に自訳を決意し、毎日、ここ4年間のホームページアップロードを行い718日の完全なる完了は、この間、よく元気でいられたとの感慨無量なるものがある。これを終えて、新しいものにチャレンジを続行を決意した。それが本稿である。「かけがえの無い今日、この一日」、心、正しく、楽しく暮らせるように、「支えの箴言」を求めて今日も生きて行く。感謝のほかに何も無い。 
    平成26521日作    徳永岫雲斎

2日

1.  一個の正直な人間

「人間は偉くならなくとも、一個の正直な人間となって信用の出来るものとなれば、それでけっこうだ。真っ黒になって黙々として一日働き、時節がくれば「さようなら」で消えていく、このような人を、偉い人と自分は言いたい。すなわち平々凡々の一市民である。「このほか、何をか望まんや」ではないか。           鈴木大拙(仏教学者)
3日

2.  花は黙って咲き、黙って散って行く

「花は 黙って咲き 黙って散って行く」
柴山全慶・元京都南禅寺管長、禅の高僧、「花語らず」の冒頭の句。
ただ咲くだけの花、黙々として咲き、散るだけの花。
生命の長さでなく深さ、充実した人生を送れたら何も悔いることはないと花は語ってくれる。
人間もそれでいいのだね。
4日 3.  毎日が初心 「毎日が初心、一生が初心、一生懸命生きましょう」                    誰か知らない人の言葉。
5日 4.  心にこころ 
 こころ許すな
昔の人の教えに、「心こそ こころ迷わす心なれ 心にこころ こころ許すな」があった。日蓮上人の自戒の言葉に「六波羅蜜経」の語句がある、それは「心の師とはなるも、心を師とせざれ」である。
「自分の心を管理する師にはならなければならないが、決して気ままに動く自分の心の命令に従ってはならない」
漢字の心は、気ままに動いて自分を惑わす心である。平仮名のこころ(○○○)は、気ままに動く心を管理する人間の本心の仏心である。気ままに動く心を、本心の仏心がよく管理せよ」、真に然り。 
6日 5.  こころをよく転がそう 「人の心はつかめないが、心を汲むことはできる」と言います。「心()を汲む」とは、人の考えを親身になって察することで、思いやりに通じます。「こころ」とは、ころころと転がるから、こころと言うのだ、と昔ながらのジョークもそれなりに味わいがあります。
「花を美しいと思うとき、私は自分の心が花の上に重なっているのを感じますし、人を恋しく思うときも、自分の心が抜け出て、その人を探し歩いているように感じます。また人を呼ぶときも、自分の心が声になって、その人のところに届くと感じると言ってもいいでしょう」   高田敏子氏随筆
7日 6.
(しん)(でん)を耕す
釈尊が朝早くバラモン教徒の農村を托鉢(たくはつ)していると、ある農夫が釈尊をなじった。
「修行もさることながら、私達は種まきで忙しいのだ。あんたも自分で耕し、種を蒔いて収穫したらどうだ」。釈尊は静かに「はい、私も耕しています」と。農夫は釈尊のいでたちをまじまじと見て「(すき)(くわ)も持たずに何をどう耕すのだ?」と、せせら笑うのにも釈尊はお構いなく「私の心を」と自分の胸を指し、ついで農夫の胸をさして、「あなたの心の田を耕します。田や畑も耕さないと土が固くなって種を蒔いても育たないでしょう。人の心も柔軟にほごさないとやがて荒れはててしまう・・」と。             耕田経
8日 7.
(ぶん)(ふく)
(せき)(ふく)(しょく)(ふく)
(ほう)(えん)(よん)(かい)」の二にある、「福を独り占めにしてはならぬ。文字通り、「福分け」が必要だ、もし福を独占したら、幸せを運んでくれる「縁」が断絶するであろう」と。
縁の深さを忘れて、小さな自分の力によるものだと自惚れて、いい気になって恵まれた縁を自分だけで握り占めれば、その福を齎した無数の縁が切れてしまう。
幸田露伴は、福分けを「分福」と名づけた。彼は、福の縁を豊かにするには、そらに「惜福」、自分の得た福を弄費することなく、大切に福を使用する」と、「植福」--自分が福を得た恩返しに他の幸福を願う行いをすることだと提言している。
9日 8.
法演の四戒
中国の宋の名僧、五祖法演襌師の「四戒」の教え。
法演の多くの弟子の中、逸材の仏果が太平寺を預かることになり、法演禅師が仏果に与えたのが「四戒」の教えである。

1.勢い、使い尽くす可からず。勢い、もし使い尽
さば、禍必ず至る。
2.福、受け尽くす可からず。福、もし受け尽くさ
ば 、縁必ず孤なり。
3.規矩(きく)、行い尽くす可からず。もし  規矩、行い尽
くさば、人必ずこれを(はん)とす。
4.好語(こうご)、説き尽くす可からず。も  し好語、説き尽
くさば、人必ずこれを(やす)んず。
「法演の四戒」の厳しさを知ることは必要だが、その厳しさを超えた生きがい、喜び、温かさ、思いやりと云った戒め以上の生き方を見出したい。  
10日 9.
「勢い、使い尽くす可からず。勢い、もし使い尽くさば、禍必ず至る」
 
一所懸命やらなければならない、勢いも持たねばならない、やる気の無い所には何も育たない。ここでは、少し深い意味で法演が仏果に云った言葉である。
 自分だけ一所懸命やり、自分の才能で成功していると思っていたら誰も付いてこない。大切なことは、皆さんのお蔭、お客様のお蔭、天地のお蔭の心だ。
 勢いある時には謙虚でありなさいと法演が弟子仏果に与えた言葉である。
一人の母親としても、親としても、一人の上司としても、管理者としても、あるいは新人でも、「自分は至らない人間だ」と言う謙虚さを基盤にして勉強していく事が大切だということである。
11日 10.
「福、受け尽くす可からず。福、もし受け尽くさば、縁必ず孤なり」
「縁必ず孤なり」。「俺がやったんだ」「私の力だ」と云ってたら「独りぼっちになる」と云うこと。
 福と言う字の示すは(はかり)。右側は一と口と田であるから、一口食べる田のあることに感謝し満足をすることが福である。「十分でございます」と言う感謝の心が福。
12日 11.規矩(きく)、行い尽くす可からず。もし規矩、行い尽くさば、人必ずこれを(はん)とす」
人を信じないで、細かい事ばかり言っていると、
「人はうるさがって、あなたの云うことを聞かない」
「人はうるさがって本当のことはしません」と云うこと。
人を信じて、活かすである。
13日 12好語(こうご)、説き尽くす可からず。もし好語、説き尽くさば、人必ずこれを易んず」
 
「実行しない人が語ると、それを聞いた人が、また実行しないで語りたがる」。
「調子のいいことを実行しないで語っていたら、いくら言ったって、人はあなたを軽く見ますよ」と云うこと。大事なことは、自分で実践し、苦労をして、自分の至らなさも含めて、謙虚に話をしたら、一番大きな説得になる。
14日 13.有難う 一つは言葉には限界がある、大事なことは言葉では伝えられない、後姿で、又実行で教えなればならない。一番大事なことは「ありがとう」という言葉だ。
心から「ありがとうと」と云えたら、お互いに心が結ばれて、こちらの心を真っ直ぐに伝達することが出来る。 私たちは、どんなに行き詰っても、行き詰った中で生きられる術を考えなければならぬ。
15日 14.       
   
「あらたふと 青葉若葉の日の光」

元禄241日、松尾芭蕉が奥の細道の旅中、日光の東照宮に参詣した折りの句である。家康の徳を讃える敬虔の念と、初夏の景観に同化する芭蕉の心情とか溶け合う詩情豊かな句であると高く評価されている。現代人には新緑の候は五月病の精神病に取り付かれる危険な時期のようである。

愚生は、本日、平成26524日、今年に入り86日目の登山をして下山した所であるが、山野に入り、大自然の佇まい、成長と進化と滅びの様相を見ていつも無言な大自然の教えを汲み取る、人間もこの大自然の一つに過ぎないのだと。三月から五月の新緑に生命の再生・循環を毎年味わえる季節を嘉したい。来年再び可能であろうかといつも思う。

16日 15.           
「鏡に見てもらう」
「鏡は像に対して私無し」
従容録にある言葉を一言で言うならば、「鏡は、形あるものをそのまま公平に映す」である。「鏡を見る」と言うのは人間の思い上がりで「鏡に見てもらう」と言うべきだと言われたのは松原泰道老師である。その理由は、私たちは自分の顔を自分では見られないからだと。鏡は我々の、有りの侭に映してくれるから「鏡を見る」は「自分を知る」ことにほかならない。自分を修正し、自分を完成する営みが「鏡を見る」ことでしょうと。
すると、鏡を見ることは、鏡から「見られている」のに気がつきます。名詞の「鏡」を動詞にして、かがみる・かんがみると言う。(先例に照らして考えるの意味) 
17日

16 「刻苦光明」と「策進」

白隠禅師は「刻苦(こっく)光明(こうみょう)」を座右の銘にされた。私は、現在、医者の判定で「脳はピチピチしている」、「骨密度は三十代」と言われた。考えてみると、ここ20年は登山をし続けている。現在でも早朝から登山をしており本日現在、元旦以来延べ45日となっている。

日々のホームページ、毎月の鳥取木鶏会例会準備、日々の広範な家事、等々、私は進んで挑戦している。起床も決して逡巡しない、眼が覚めたらさっさと日常ルーティンワークに勤しんでいる。心の中は、寒風に向かって進む思いの時もある。怠惰は敵だと思っている。この刻苦光明、この精神が愚生の健康の本だと信じている。長く辛い登山、重い荷物、それをものともしない精神が重要だと思っている、この刻苦の精神を持ち続けたいものである。

18日

17. (さく)(しん) (いん)(すい)自刺(じし)

白隠禅師は、続けて言われた「(さく)(しん)」と、自分を励ますことである。正に然りと思う。

「命とは動くこと」と愚生は信じている。そして、頭も身体も、使わなければ退化すると信じている。

人間の心身は使わないと機能が次第に退化すると思っている。努力しなければならない、だからこの「策進」が肝要だ。今日も、策進だ!!

中国の明末の禅書「禅関策進」に掲載されている逸話がある。「滋明という若い修行者が、古人の語である「刻苦光明必盛大」==努力すれば必ず大光明を得る、とあるを信じて、「(いん)(すい)自刺(じし)」==錐で我が股を刺して怠惰と眠気とを戒む。

老齢化に必要なの事として、私は、几帳面な暮らしを求め、精神はこの気持ちで日々自戒して生きたい。

19日 18.            もったいない 自然や神仏の恵みをムダにするのを畏れ慎むことであろう。漢字では、もったいないは「勿体」と書く。物体のことである。勿体は「物のあるべき姿」で、それが無いのであるから、もったいないは、その物の値打ちや機能が生かされずに無くなるのを惜しむ」ということになる。
日本人は、自然や神仏の恵みをムダにするのを畏れつつしむ敬虔の念で宗教的感覚で「もったいない」と受け止めて外国人が感動するのであろう。
20日

19.            あるべきようわ

 人は「阿留(ある)()幾夜(きよ)宇和(うわ)」の七文字を保つべきなり。僧は僧のあるべき様は、俗は俗のあるべき様なり。乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり」とは明恵(みょうえ)上人(しょうにん)の遺訓。

鎌倉時代の華厳宗の高僧・明恵上人が遺した訓えである。万葉仮名で書かれたので「「阿留(ある)()幾夜(きよ)宇和(うわ)の七文字」と言われる。

「あるべきようわ」は「ふさわしい在り方」だが、「らしく」という常識ではなく、経典に決められ定められているように修行すること。

充実した生活をする為に、掃除の仕方、雑巾の始末まで、一つ一つの行動に「あるべきようわ」は決してかせてはいけないと自戒するばかりの昨今であります。

21日

20.    
独来(ひとりきたり)独去(ひとりさりて)
 無一随者(いつもしたがうものなし)

人生は「一」に始まり、「一」に終わる。生まれた時も一人、死んでゆく時も一人、病気になるときも一人、老いる時も一人、進学の受験も一人、親はついてゆかれぬ。

我々は「独来独去」の厳粛な真実を、忘れよう、誤魔化そうとするが不可能。不可能と真に解り初めて「人間はどうあるべきか」を学べるのかもしれぬ。 

22日 21.           
目に青葉、山ほととぎす初鰹
俳句は山口素堂の名句である。岫雲斎が学んだ般若心経の先生は高神覚昇先生の般若心経であった。
高神先生は、この俳句の「目に青葉」の目は、心経の説く六根(ろっこん)の一つの「(げん)(こん)」、青葉は心経のいう(ろく)(きょう)の一つの「(しき)(きょう)」で共に「(くう)」の存在である(くう)(かん)の示唆として引用された。

人間は、知っているようで実は何も知らないと言うこと。見ることも難しい、見たつもりでおりながら見ていないことの多さよ。

23日 22.
和敬(わけい)静寂(せいじゃく)
この言葉は茶道の心である。茶の湯の祖は村田珠光だが、初めは「(きん)(けい)(せい)(じゃく)」を主張していた。
後に千利休が「和敬(わけい)静寂(せいじゃく)」に改めたと言われる。

「和」と「敬」は茶道にあっては、「主」と「客」の相互の心得であり、「清」と「寂」は、茶庭・茶室・茶器に就いての「心得」とされている。

「和」は相互の持ち味を活かしつつ他の個性を(たす)け、新しい風格あるものを生むのが和の作用である。

個性を生かしながら和し、和してベタベタにならないように心がけるのが「敬」であろう。和して敬し、敬して和する、これにより人々の佇まいは自然と清々しく、しっとりと落ち着いた寂けさを常に保つことができるのであろう。

これにて一旦打ち切りとします。