安岡正篤先生「易の根本思想」

一年以上に亘る「易と人生哲学」は先月、無事に完結した。易は無限な展開を見せ、宇宙の原理、即ち「変化」と同根であると確信している。それ故に、窮まるところが無い、「窮すれば通ず」なのである。
これから、再び、更に高度なる「易学」を学ぶ。   
            平成20年3月1日   徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

 1日 古代人と天 太古の天地を(こう)(こう)というが、よくそのさまを表している。洪は大水であり、氾濫であり、圧倒的な大がかりである。荒は調和や秩序の出来ていない、荒々しく、凄まじいさまである。今に比べれば、天は限りなく高く地は限りなく広く、 日は更に大きく、星月の(きらめ)きは凄く、山々は厳しく、森林は暗く、雷電は激しく、風雨は強く、寒暑も烈しかったであろう。その中に在って、太古人は常に無限の驚き・恐れ・疑い・惑いを抱いて生きた。然し、それが人間文化の原動力となったのである。
 2日 驚きたい 僕は唯一つ不思議な願いを持っておる。それは恋愛でもない。大科学者・大哲学者・大芸術家・大宗教家になることでもない。 理想社会の実現でもない。実は「驚き」たいという願いだと、国木田独歩がその小説「牛肉と馬鈴薯」の主人公に叫ばせている。
 3日 憂うべき堕落 近代人は段々驚かなくなって現代に至った。それがいかに憂うべき堕落であるかということに気づいた学者達が今首垂れて考えこん

でいる。
独歩の、この小説の主人公が現代の最も思慮深い人々の姿である。
 

 4日 東洋文化の真髄 カントの墓標に刻まれた、Der bestirnte immel

Uber mirdas moralishe Gesetz in mir。「上なる星空、(あわれ)なる道法」は人間が永遠に失ってはならない妙心である。

この天籟(てんらい)the celestial passionともいうべきものが、東洋文化の真髄なのである。
 5日 Der bestirnte immel Uber mirdas moralishe Gesetz in mir 星夜の感とも訳されるR・ギルダーの詩題であるが、celestialは「天の」、「神聖な」意味の形容詞であると共に、名詞にしては天人heavenly being となり、

古い教養ある西洋人は諧謔(おどけ)に、中国人を指していう。Chinese を同じCの字にかけて、もじったのである。 

 6日 「天」 確かに当っている。中国人は(極東民族全てに通ずる)終始「天」から離れずにその生活と文化とを作り上げてきた。 何かにつけて「天」という言葉を使うものだからである。
 7日 天の無限なる偉大さ 古代人は先ず天の無限なる偉大さに感じた。やがて、その測ることも出来ない創造変化の作用を見た。そして段々その造化の中に複雑微妙な関係()があること

それは(たが)うことの出来ない厳しいもの(法則・命令)であり、これに(したが)い、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知った。 

 8日 万物の創造者 (いん)()の時代には、天は万物の創造者であり、支配者であり、生殺与奪の権を握る絶対の権威者(帝・上帝)と思う考の方が強かったようである。 然し、周代以降、人々はこの天を他民族のように余り人間化することをしなかった。このことは色々の意味で深く注意すべきことである。
 9日 天人(てんじん)合一(ごういつ)(かん)

偉大にして神秘な天地に対する驚異と、敬虔な感情、所謂the celestial passionから発達して、天地から離れ、天地に背いて、人間独自の世界を開く、従って人は自然を征服するのだというような矛盾闘争的な考え方ではなく、

どこまでも天地自然を諦観し、これに順応して、その中に厳正な法則を発見し、人間自身を反省して、人間社会の存在・法則を天地自然と一致させて、天人一体になって渾然と生きてゆこうというのが易の根本精神である。
10日 天行は健 「易は天地と準ずる。故に能く天地の道を弥綸(やりん)する」。「天地と相似たり。故に(たが)わず」。「天を楽しみ、(めい)を知る。故に憂へず」。(繋辞上(けいじじょう))などと言う観点が随所に説かれている。 天行は健―君子以て自彊して息まず(乾卦大象)である。

地勢は坤(坤は物の成育を表す)。

君子以て厚徳・物を載す(坤卦大象)である。
11日 大丈夫 海・(ひろ)くして魚の(おど)るに(まか)せ、 天・空しうして鳥の飛ぶに(まか)これ大丈夫の度量である。
12日 気節 衣を振う千仭(せんじん)の丘。足を(あら)う万里の流。 これ大丈夫の気節ではないか。
13日 (かく)れて自ら(うつく)しく

(たま)・澤に(かく)れて自ら(うつく)しく、(ぎょく)・山に(つつ)まれて輝を含むーこれ大丈夫の(うん)(しゃ)(含蓄)でなければならぬ。

月は到る梧桐(ごとう)の上。風は来る(よう)(りゅう)の邊―これ大丈夫の(きん)(かい)であろう。(林羅山の座右の銘)

 

14日 酒中十詠序 湖北の鹿()門山(もんざん)に隠れて自由生活を誇りにした唐の皮日休は傲語(ごうご)している。(たい)(ぜん)として思う無し。 天地の大順(だいじゅん)を以て堤封(ていほう)と為す。(ごう)(ぜん)として持せず。(こう)(こう)至化(しか)を以て(しゃく)(しょう)と為す(酒中十詠序)と。 
15日 悠々たる天地 浮世のくだらぬことなど皆なくなってしまって何思うこともない、俺の領有は悠々たる大順の天地だ。人間の地位や褒章が何だ、 そんなものは一切要らん。俺の爵賞は万物を生成してやまぬこの宇宙を与えられてをることだ。というのだが、東洋人たる吾人には何とも言えず愉快である。
16日

生きるならば

生きるならば、喬松の如く太陽に向って呼吸するのである。
(
漢・王褒・聖主得賢臣頌、煦嘘呼吸如喬松)

黄帝・天下を有し、号し自然と曰うは、獨宏大なる道徳なるなり(白虎通・號)。これらが易の道徳思想、東洋道徳観の本質である。区々たる人間的・社会的約束・規制を道徳と心得てどうのこうのと泣き言を言っているような後世の小人の愧死すべきものである。
17日 易は生の哲学 易は徹底した生の哲学である。もっと適切に生の化学(もちろん科学の生化学とは違った、独特の意味での)である。驚くべき「生動学」ともいうべきものである。 天地万物の「生」を尊重して、これを育成してゆくことが主旨である。天地の大徳を生と曰う(繋辞下)。生々之を易と謂う(繋辞上) 
18日 生は天地の大徳 仏領赤道アフリカのランバレネの上流80キロ、ロゴエ川の畔、イジェンジャ村の三つの島の前で、19159月のある日、私は豁然として、生を貴ぶということが善の根本であるという悟りを得たとーA・シュワイツァーは彼の自叙伝に書いている。 彼は今や世紀の偉人と敬慕されている哲人であるが、二千年の後も、二千年の前も、真理に変わりはない。いかに生くべきか。いかに生かすべきかーーこれが易である。生は天地の大徳なのである。
19日 生は不死 生は生であるから不死である。生理学・細胞学の研究によれば、細胞は本来不死であり、従って、単細胞生物は本来不死である。滴蟲類の一種ダイレプタスは幾ら細分しても、再生作用が行われ、その切放された微小部分が運動を始め、 やがて円形になり、特徴である鞭毛が現れ二時間もすれば又新たな一つのダイレプタスとなる。事実上はニ、三十分の一以下に切断されると死んでしまうが、それは切断の際の損傷の為であって、それがなければ無限の生命力・個体再生能力が蔵されている。
20日 生は不死 生は生であるから不死である。生理学・細胞学の研究によれば、細胞は本来不死であり、従って、単細胞生物は本来不死である。滴蟲類の一種ダイレプタスは幾ら細分しても、再生作用が行われ、その切放された微小部分が運動を始め、 やがて円形になり、特徴である鞭毛が現れ二時間もすれば、又新たな一つのダイレプタスとなる。事実上はニ、三十分の一以下に切断されると死んでしまうが、それは切断の際の損傷の為であって、それがなければ無限の生命力・個体再生能力が蔵されている。
21日 生は不死 又、欲望・煩悩が起こって、その為に老衰し死亡するのである。ロンドンのウェストミンスター寺院に葬られている有名なトーマス・パールはイングランドのシュロップシャーの百姓で百三十まで耕作した後ロンドンに出て百五十二歳九ヶ月で腸を病んで死んだ。 ノルウェーのドラーケンバーグは1772年、百四十六歳で亡くなったが、91歳までは海上生活をしてをった。1809年12月5日百廿歳で死んだドフネル博士は百二歳で再婚し三人の子を作った。不老不死も亦根拠の無いことではない。
22日 生動と幾 既に説いた通り、易は宇宙人生を渾然として全きもの、現代知識人の理解を容易にするため、西洋的思惟・表現を仮るならば、the complete whole として見る。
それは無内容なものではなく、
萬有(ばんゆう)遍満(へんまん) plenitudeであり、萬有は偉大な連鎖 The greate Chain of Being である。その著しい思想的特徴の第一は、単なる概念や論理の静態的staticな観察でなく、生々とした力を持つ動態的dynamickineticなものであること。 
23日 限りなき変化 第二は、
定型主義・画一主義uniformitrianism
ではなくて、限りなき変化、創造即変化を認めるdiversitarianismである。
第三は、
機械的定則mechanical reguralityではなく、有機的統一organic unityを旨とするorganicismのことである。
そこには深い形而上学的思想と同時に、偉大な芸術性romanticismがある。
24日 思想学問 思想学問というものは、とかく型に(はま)りがちである。無限の内容を含んで変化してやまぬ実在に対して、頭脳のはたらき(悟性)によってある立場から物の一面を観察し、抽象して得た概念によって操作してゆく思考は、容易に実在を遊離して、機械的な、独りよがりのことになってしまう。知的生活の魅力はその安易性であることを私は認める。それは現実の複雑性に代えるに、 単純な知的図解を以てすることである。生の処しがたい動きに代えるに死の静止的形式を以てすることである。色々な具体的事実を呑み込んで、友人や妻や子供と満足に関係を保つことよりも、美学とか、形而上学とか、社会学とかについて大した思想を持つことの方が、比較にならぬほど容易なことであるとオルダス・ハツクスリーもその随筆に告白してをったが、これは古今に変わらぬことである。
25日 平板で単調な生活 人間の生活も案外速く純真な生動性や多面性・変化性を失って平板で単調なものになり易い。ダーウィンの自伝に自分は三十歳頃までは詩や史劇を喜んで読みも画も好き、音楽も夢中になって聞いたが、その後一行の詩さへ、じっと読めなくなりシェークスピアなども、到底堪えられぬほど退屈で胸が悪くなり、画や音楽に対する趣味も、もはや殆どなくなっている。美しい景色を解する心は今でも幾らかあるが、以前ほどの 強い悦びはもう感じない。私の心は山ほど多くの事実から一般法則を引き出す一種の機械となってしまつたらしい。同じ脳髄の一部でも、比較的高級な趣味を育てる彼の部分だけを何故私の心が萎縮させてしまったのか私には分からない。こうした趣味を失うことは要するに幸福を失うことであり、人間性の情緒的な部分を弱めることによって、恐らく頭の働きにも有害となり、道徳的品性には恐らく一層の障害となるかもしれないーと嘆いている。
26日 機により死活する 単調になり、型に嵌った機械的活動の繰返しになることは生の衰退で、やがて停止する。生を一つの線とすれば、それは無数の点から成っている。その点は決して大きさの無い、内容の無い点ではなくて内に無限の内容・組織を持っている。 原子の中でも素粒子が盛んに活動しているように、その点は、他に対し、全線に対して、活発に反応している。他に対し、全体に対して、大きく響く点を「機」と云って、易は特にこれを重視するものである。個人の生活も、商売も、政治も、すべて、みな機によって死活し、盛衰するということができる。
27日

機は動の()

「機は動の()、吉の先ず(あらは)るる者」(繋辞下)である。機を知って、能くこれを活用すれば、大いなる創造変化を成し遂げることが出来る。原爆製造のようなことは暫く置いて、庭前の草木を考えよう。 植物の種の発芽する頃は栽培家にとって一つの好機である。その頃、植物は異常に機動性が高まっており、最も環境の条件に感じ易い。この機を外さず手を加えれば発育上にも性質にも大きな変化をもたらすであろう。
28日 死機と活機 病にも死機と活機とがある。日本漢方の画期的大家である吉益東洞がまだ無名の頃、偶然ある商家の病人を診察し主治医の薬を見て、これで結構、不日治るであろうが、今日からこの中の石膏を一味だけ抜いて用いるがよいと云って去った。

その後に来診した主治医は高名な山脇東洋であったが、診察を終わって何か(しき)りに考えこんでいる。家人が恐る恐る先刻の東洞の話をしたところ膝を打って東洋は、自分は今その石膏をどうしようかと考えていたのだ。それは凡ならぬ人物だと感心して帰途直に駕をを枉げて東洞の貧居を訪問した。 

29日 機略(きりゃく)機鋒(きほう) この機を捕えて活眼を開かせる手段を機略(きりゃく)と言い、その鋭さを機鋒(きほう)という。禅家が得意とする所である。「禅僧の法門は、教家(きょうか)の如く習ひ伝えたる法門を胸の中に蓄え、紙の上に書き付けて、展転(てんてん)して人に授け与うることなし。 ただ機に対する時、直下(ちょっか)に指示するのみなり。これを覿面(てきめん)提示(ていじ)と名づく。(げき)石火(せつか)(せん)電光(でんこう)にたとえたり。その(あと)を求むべからず」とはよく言い表している。禅の祖師達は大抵易を学ばぬはない。
30日 正機(せいき) 商に商機あり、政に正機あり、商機を知らず、

正機を知らずして、商売や政治に成功することはでない。 

31日 (れい)(かつ)な行動 易は最も機を重んじ、機を知り,機を捕えて、変化の妙用(みょうよう)に参じ、(れい)(かつ)な行動をとろうとする者である。君子は()を見て()す。日を()うるを()たず(繋辞下)。夫れ易は聖人の深を極めて()研ぐ(とぐ)所以(ゆえん)なり。
(ただ)(しん)なり。
故に能く天下の志を通ず。唯幾(ゆいき)なり、故に能く天下の務を成す。唯神なり。故に(はや)からずしてしかも速やかに、行かずしてしかも至る(繋辞上)といい、機を知る夫れ神か。君子・上交(じょうこう)?(おもね)らず。下交して?(けが)れず。其れ機を知るか(繋辞下)と論じている。六十四卦・三百八十四爻悉く研幾(けんき)を旨とするものである。