徳永圀典の「日本歴史」その25

平成20年3月

 1日 ブロック経済の波及 イギリスやフランスは、恐慌後は、本国と植民地間の関税を下げて物資の流通を促進させる一方、他国の商品には高い関税をかけてこれを排除するブロック経済を採用した。 この為、日本の安価な工業製品は世界各地で締め出されて行くこととなった。ここから日本でも満州や中国の一部を対象にブロック経済圏の建設の考えが強くなったのである。
 2日

二・二六事件

その後、政治に介入する軍部の動きは益々激しくなった。昭和11年、1936年、226日朝、陸軍青年将校一派が1400人の兵士を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃した。彼らは大臣を殺害し、政治の中心地、永田町周辺を占拠した。二・二六事件である。 事件の首謀者等は、天皇の下、軍部中心の政府を組織し、政党・財閥・重臣を打倒して昭和維新を断行することを要求した。然し、天皇は「朕、自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」と断固たる決意を表明され反乱は3日間で鎮圧された。
 3日 陸軍増長の端緒 二・二六事件は、西郷隆盛の西南戦争以後の最大の軍事反乱事件であった。この後、政治家は絶えずテロ による生命の危険にさらされることになり、陸軍が支持しない内閣の成立は困難となった。言論の自由も次第に狭められて行くのである。
 4日 盧溝橋の衝突 関東軍など現地の日本軍は、満州国を維持しブロック経済圏の建設のために、隣接する中国・華北地域に、蒋介石政権の支配の及ばない親日政権を作るなどして中国側との緊張が高まっていた。 

また、日本は、北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。
これは義和団事件の後、他の列強国と同様な中国と結んだ条約によるものであった。

 5日 日中衝突 昭和12年、1937年、77日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件が起こった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態となった、これが盧溝橋事件であるが、成行きとしては当然であろう。 現地解決が図られたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党軍も直ちに動員令を発した。以後八年間にわたる日中戦争へと推移するのだ。だが、近年の暴露によると、これは日中衝突を図るソ連の謀略だったとされている。
 6日 全面戦争への契機は中国に在る 上海には外国権益が集中するが、昭和128月、二人の日本人将兵が射殺される事件が発生した。これが契機となり、日中全面戦争となったのである。日本軍は、国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考えていた。然し、背後には米・英・オランダの有形無形の反日への支援があった。 同年12月、遂に南京を占領した。
蒋介石は重慶に首都を移した。この時、武器を保有した中国の便衣隊などが民間人に化け多数混在していた。相互に多数の死者が出たが、南京市の人口等から勘案し、大量虐殺など毛頭有り得ない。
 7日 泥沼戦争へ移行 ずるずると、目的不明の泥沼戦争へと移行したことは不幸であった。戦争が長引くと、国を挙げて遂行する体制を作るためとして、昭和15年、国家総動員法が成立した。 政府は、これにより議会の同意なしに物資、労働力等を動員できる権限を持った。生活必需品や物価統制が行われた。また言論へ検閲も強化された。
 8日 見失った戦争目的 中国大陸での戦争は泥沼化した。いつ終わるのか知れなかった。国民党はそれまで中国共産党と反目していたが、ここに至り手を結んだ。中国共産党は、政権奪取戦略として日本との戦争の長期化を望んでいた。 日本自身も、戦争の目的を見失っていた。和平を模索するよりも、戦争継続方針が優位を占め際限ない戦いを繰り広げていたのである。昭和15年、民政党の斉藤隆夫代議士が帝国議会で「この戦争の目的は何か」と質問したが、政府は十分応えられなかった。惜しいことであった。
 9日 大政翼賛会 世界恐慌後、日本国内でも、ドイツやソ連のように国家体制の下で統制経済を理想とする風潮が広まった。 昭和15年10月には、政党が解散し、大政翼賛会に纏まった。これはドイツやソ連の一国一等制度を真似たものであった。
10日 日米関係の悪化

昭和13年、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を表明し、日本・満州・中国を統合した経済圏を作ることを示唆した。これは後に東南アジアを含めた大東亜共栄圏構想スローガンに発展した。アメリカは門戸開放、機会均等を唱えて、日本が独自経済圏を作ることを認めなかった。

日中戦争で一応、表面上は中立を守っていたアメリカは、近衛声明に強く反発し、中国の蒋介石を公然と支援するようになった、これは、機会を伺っていたアメリカの政策であり、日米戦争へ誘導する布石であった。日米戦争に至る直接対決はここからスタートした。
11日 アメリカの日本圧迫政策 昭和14年、アメリカは更に日米通商航海条約を延長しないと通告してきた。多くの物資をアメリカとの貿易に依存している日本は次第に経済が困窮してきた。 日本陸軍は、北方のロシアの脅威に対処する北進論が伝統的に強かったが、この頃から東南アジアに進出し資源獲得をする南進論が強まった。然し、そこはイギリス、アメリカ、オランダ、フランスの植民地であり衝突は必至であった。
12日 ナチスとドイツ ヨーロッパでは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツが、ベルサイユ条約で領土を削減され、過酷な賠償により苦しんでいた。 また世界恐慌の余波でアメリカ資本がドイツから引き上げられたので経済が破綻し、1933年、昭和8年にナチス党のヒットラーが政権の座に就はユダヤ人を迫害、武力による領土回復を進めていた。
13日 第二次世界大戦始まる

ドイツはソ連との秘密協約を結び、19399月、ポーランドに電撃的に侵攻し全土をソ連と分割統治した。

これに対し、ポーランドの同盟国イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。第二次世界大戦の始まりである。1940年、ドイツ軍は電撃作戦で西ヨーロッパを攻略、パリに入城しフランスを全面降伏させた。
14日 日独伊三国同盟 日本はヨーロッパに於けるドイツの勝利に目を奪われてしまった。ドイツがイギリスにも勝つと期待し1940年、イタリアを加えた日独伊三国同盟を締結した。 これらにより日本は孤立感を和らげることを得たが、遠いヨーロッパの二カ国との軍事同盟は実質的に効用は無かった。これはイギリスの兄弟国・アメリカとの決定的対立を深めることとなった。
15日 悪の日ソ中立条約 昭和16年、1941年、4月、日本はソ連との間に日ソ中立条約を締結した。二つの条約を結んだ松岡洋右外務大臣はこれら四か国条約に発展させ、その圧力でアメリカとの交渉を有利に進めようと考えていた。 1941年6月、ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まり松岡構想は破綻した。僅か2ヶ月でありその貧困な情報に日本は進路を間違えた。事態を予想していなかった日本は、北進してソ連を撃ちドイツを助けるか、それともソ連と戦わず南進するかに選択を迫られた。7月の御前会議は南進を決定した。
16日 経済封鎖

日本は石油を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、アメリカ(merica)、イギリス(ritin)、中国(hina)、オランダ(utch)の諸国が共同して日本を経済的に封鎖し息の根を止めようとした。(ABCD包囲網)

1941年春、悪化した日米関係を打開する為、日米交渉がワシントンで開始された。日本はアメリカとの戦争を避ける為、この交渉に大きな期待を寄せていたが、アメリカは日本の秘密電報を傍受・解読し、日本の手の内を把握した上、日本との交渉をルーズベルトの策戦通り日米戦争へと誘導したのである。
17日 愈々対決の一歩 1941年7月、陸海軍は南部仏印、ベトナム進駐を断行しサイゴンに入城した。サイゴンはアメリカ領のフィリピン、英領シンガポール、蘭領インドネシアの全てを攻撃できる軍事上の重要地点であった。 アメリカは危機感を募らせ、7月、在米日本資産を凍結し、また対日石油全面禁止で対抗した。米英両国は大西洋上で会談し、両国の戦争目的を謳い上げた大西洋憲章を発表し結束を固め、対日戦を2、3ヶ月引き延ばすことを決めた。
18日 ハル・ノート 日本も対米戦を念頭にしてアメリカとの外交交渉を続けたが、11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートと呼ばれる実に強硬な提案を突きつけた。 ハル・ノートは、日本が無条件で中国から即時撤退することを要求したものであり到底交渉ではなかった。これに応じる事は、対米屈服であり日本政府は最終的に日米開戦を決意した。
19日 大東亜戦争の勃発

昭和16年12月8日、1941年である、この日午前7時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。日本の機動部隊がハワイ真珠湾に停泊する米国太平洋艦隊を空襲した。

これが報道されると日本国民の気分は一気に高まり長い泥沼の日中戦争の陰鬱な気分が一変したのである。第一次世界大戦以後、力をつけてきた日本とアメリカが遂に対決することとなったのである。
20日 欧米人植民地解放

同日、日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸、イギリス軍との戦いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に日本軍はジャングルとゴム林の間を縫ってイギリス軍を撃退ししながらシンガポールへ快進撃をした当時の生々しい感激を私は記憶している。

55間でマレーシア半島、約1000キロを縦断、翌年2月には僅か70日間で要塞シンガポールを陥落させた。これはイギリスの東南アジア支配を崩したことの象徴であった。フィリピン、ジャワなどでも日本軍は米、蘭、英軍を撃破結局百日程度で大勝利の緒戦を制したのである。
21日 独立への夢と希望を賦与 日本軍が東南アジアを制覇したことは、数百年に亘る欧米人の植民地支配に喘いでいた現地の人々の協力があってこその勝利であったのだ。 この日本軍の緒戦勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に自国独立への希望と夢と勇気を育んだのである。
22日 大東亜戦争 政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した。
日本の戦争目的は「自存自衛」とアジアを欧米の支配から解放して「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。
日本に続き、ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告した。こうして、日・独・伊に対抗して米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う第二次世界大戦が本格化したのである。
23日 連戦連勝 日本は緒戦で連戦連勝し、国民は酔いしいれた。だが、ここから先を、どうするか、日本軍も政府も明白な見通しも持っていなかった。 修羅場を知らぬ机上論ばかりの官僚は戦争の意味を理解していなかった。
明治の元勲であれば勝利の時こそ和平へ外交の舵取りを変えたであろう。
24日

戦局暗転

昭和176月、ミッドウェー海戦で日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗北した。ここから米軍の反攻が開始された。8月、ガダルカナル(ソロモン諸島)に米軍上陸、死闘の末、翌年2月、日本軍撤退。アリューシャン列島のアッツでは僅か 2000名の日本軍守備隊が2万人の米軍を相手に一歩も引かず弾丸や米の補給が途絶えても対抗を続け玉砕していった。こうして南太平洋からニューギニアを経て中部太平洋のマリアナ諸島の島々で日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していった。参謀本部の無能を詰りたい。
25日 自暴自棄の参謀本部 昭和19年秋には、米軍がフィリピンに進攻した。マリアナ諸島のサイパン島から爆撃機B29が遂に日本本土へ空襲を開始した。同年10月には、遂に日本軍は世界を驚愕させる作戦を実行した。 レイテ沖海戦で、「神風特別攻撃隊」、特功がアメリカ海軍艦船に体当たり攻撃を行ったのである。追い詰められた日本軍は、飛行機や潜航艇で敵艦を、死を覚悟した特功を繰り返した。飛行機だけでも、その数2500機を越える無謀である。作戦の自暴自棄に等しく敗戦は必至であった。
26日 特攻隊員の遺書 故郷で生まれた自分の妹に残した手紙、沖縄で戦死した19才、宮崎勝氏である。
無謀な参謀本部が憎い。
「ヤスコチャン、トッコウタイノニイサンハ、シラナイダロウ。ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。マイニチ クウシュウデコワイダロウ。ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ ニイサンヲ ヨロコバセテヨ」
27日 遺詠(いえい) 23才、沖縄で戦死した緒方穣氏の出撃に際して。

懐しの町 懐しの人 今吾れすべてを捨てて 国家の安危(あんき)(おもむ)かんとす 悠久の大義に生きんとし 

今吾ここに突撃を開始す 魂魄(こんぱく)国に帰り 身は桜花(おうか)のごとく散らんも 悠久に護国(ごこく)の鬼と()さん いざさらば われは()えある山桜 母の()もとに帰り咲かなむ 

28日 戦艦大和撃沈さる 昭和204月には、沖縄本島でアメリカ軍との激しい戦闘が始まる。日本は最後で世界一の戦艦大和を繰り出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された。

沖縄では、鉄血勤皇隊の少年や、ひめゆり部隊の少女たちまで勇敢に戦い、一般住民約94000人が生命を失い10万人近い兵士が戦死した、
ああ。
 

29日 不語(かたらざれば)似無憂(うれいなきににたり) 
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神坂次郎著「特攻隊員たちへの鎮魂歌」の序文を引用して「現代日本人」の覚醒をと叫ぶ。「飽食の時代と言われ、生きるという緊張感の希薄な現代では、心意気などという言葉は死語に近い。生とは何か、死とは何かと言う激しい闘いの中で生きまたはを迎えた人々の表情には慥かに心意気があった。 そんな若者たちの見事な人生を現実のものとして私も、太平洋戦争の渦中で幾度か目撃している。飛行兵としての私が太平洋戦争に触れたのは足かけ三年、然しその僅か三年の歳月は、敗戦後の六十年の歳月よりもなお、私の心の(うち)に深く重く刻みこまれている。」
30日 不語(かたらざれば)似無憂(うれいなきににたり) 2 歴史の中の時間というのは、必ずしも同じ長さで私たちの前に現れるとは限らない。元禄泰平の大河の流れのように駘蕩(たいとう)たる十五年と、状況が煮詰まり沸騰し、奔流となって流れ落ちた幕末や太平洋戦争の十五年では、歳月の量は同じでも、質的には極端な差がある。 時間が白熱化しているのだ。我が命を完全燃焼させ一閃(いっせん)光芒(こうぼう)を放って沖縄島に飛んでいった特攻の若者たちは、生きていた歳月は僅かであっても、その人生には、平成の世の生ぬるい価値観を拒絶した厳しさがある。
31日 特別攻撃隊 その凛呼(りんこ)とした厳しさのなかで、若者たちし自分の人生をわが手で、いのちの尊厳を見事に結晶させている。特別攻撃隊―。
この特別というのは、スペシャルといった意味ではない。
隊長の権限はその隊を統率いるだけで、一般の隊のように隊員への人事考課や賞罰に関する統率権はない。一つの隊は同じ殉死(じゅんし)(おも)いで結ばれ、階級の差を越えた血盟の同志で、隊長は隊員たちを率いて戦い、一緒に死のうという役割だけである。それゆえの例外特別なのだ。
(来月へ続く)