日本の歌

自分の事を話題にするのも甚だ恐縮だし話題にするのも辛いのですが・・・。

自分は、ここ30年間、実に良くものを書いた。そして地元新聞に寄稿し続けて30年近い。

本も20冊出版するなど「物書き」になっている。

講演も数十回はやったかもしれない。

講演料最高は30万円、全国神社庁の青年神職400人の皆生研修会の講師もした。

神主さん相手が多く、鳥取県神社庁では県内には二時間話せるのは徳永さんしかいないとなっているようです。

 

二年前は、中国地方の中堅神主さんばかりの研修で、赤間神宮とか島根の揖屋神社とかの権禰宜研修は三時間でした。

 

今まで何度も、何人かから、徳永さんの文章は、

読みやすい、ついつい最後まですらすらと読んでしまうと、何人かから言われてきた。

理路整然としているとも云われる。

 

ここで、私はその理由の解明に突っ込むのであった。

少し前置きの前段が長いですよ。

 

モラエスというポルトガル人、日本に住み着いたモラエスの言葉を思い出した。

日本人は気がついていないようだが、モラエスは、

日本人のような国は世界にないと言って讃嘆していた。

 

それは何か、

子供の頃を思い出して昔の日本の暮らしの風景を描写してみよう。

 

子供たちは歌いながら登校した、

川べりのお母さんは歌いながら洗濯していた

大工さんは屋根の上で歌いながらとトンカチの音。

天秤棒担いだ魚屋さんは歌いながら売っていた

 

日本の自然は情緒深いからであろう

情操豊かな人間を生む風土なのであろう。

と、モラエス。

こんな国は日本だけだと感動している。

 

日本には情緒あふれる童謡、唱歌が多いのだ。

情緒を育む自然なのですね、四季です。

 

そこに、中世の文学、端的には平家物語の

「もののあわれ」が深く滲んでいるように思える。

 

ここで少し話の筋から転回します。童謡、唱歌に転じます。私の前段の一つであります。無関係ではありません。

 

赤とんぼの歌  三木露風 

 

お母さんは鳥取の人ですね。鳥取藩家老の娘。

播州竜野市にありますよ、素敵な会館がね。

赤とんぼ

夕焼、小焼の、あかとんぼ、負はれて見たのは、いつの日か。

山の畑の、桑の実を、小籠に、つんだは、まぼろしか。

十五で、姐やは嫁にゆき、お里の、たよりも、たえはてた。

夕やけ、小やけの、赤とんぼ とまってゐるよ、

竿の先。

情緒がある。

余談だが、こんな文章を20年前にホームページに流していた。

謡・唱歌のふる里、鳥取。 

鳥取の産んだ大作曲家達が鳥取にでているのです。 

日本の童謡とか唱歌ほど、素朴で、清らかで、心の襞に染み入るものはない。

現代日本人はこれらを語り継ぎ、歌い継ぎして後世に残して行かなくてはならぬ。

鳥取に帰郷して3年経過した。私は鳥取では、鳥取木鶏クラブを主催しているが、一方で唱歌大好き。唱歌を歌う会を創りたいと思っていたら、鳥取市は流石に素晴らしい大作曲家を生み出した町だ、既にその会があった。

リーダーは庶民的で素晴らしいお人柄の鈴木恵一先生、全国的にも珍しい唱歌100曲マラソンをされたり町内会の活動に出席してアコーディオン演奏されたりしている地元の唱歌第一人者。

鳥取駅前には、大黒様の音楽が流れる音楽碑があるし、鳥取城山麓の久松公園には、春の小川が流れる音楽碑がある。

知る人ぞ知る、名歌、春の小川、おぼろ月夜の作曲家は、岡野貞一、大黒様は田村虎蔵の作である。鹿野街道筋には、おぼろ月夜の曲碑がある。

鳥取城の内堀であった袋川河畔の桜土手には、この岡野貞一と田村虎蔵の歌碑が数多く桜樹の下に並んでいる。

夕焼けの作曲も鳥取市出身の永井幸次、赤トンボの作詞三木露風の母親は鳥取藩家老の娘でもある。

間違いなく童謡・唱歌のふる里、鳥取である。

今月はそれをお知らせしたい。
偉大なる作曲家 タイトル家族も逝去後に知った唱歌の作曲

岡野 貞一●プロフィール
 明治十一年、鳥取市古市に生まれる。吉方小学校(現修立小学校)を経て、二十四年因幡高等小学校(現久松小字校)を卒業する。
 明治二十六年、キリスト教系の薇陽学院に入学し、米人宣教師アダムズに楽才を認められ、音楽への道を志す。
 明治二十九年、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学、三十三年に卒業し同校の研究科生となる。その後助教授を経て、大正十二年に教授に昇任し、昭和七年に退官する。 この間、文部省唱歌の編集、作曲委員として多くの唱歌を作曲する。 音楽教育の発展に大きく貢献する一方、熱心なクリスチャンであり、四十年間、本郷中央教会で毎日曜日には礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊を指導するなど信心深く、誠実な人格

者であった。 昭和十六年に没する。                                                                                                         

 

月日

題名

歌詞

背景その他

31

ふるさと

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりきて 忘れがたきふるさと  

画像は鳥取城址の二の丸
NHK後世に残したい曲第2

32

春が来た

春が来た春が来た どこに来た山に来た 里に来た 野にも来た

イメージは船岡町天満山公園
鳥取市修立小学校に音楽碑

33

春の小川

春の小川はさらさらいくよ 岸のすみれやれんげの花に すがたやさしく色うつくしく 咲いているねと ささやきながら

NHK後世に残したい曲第9
イメージは大山山麓淀江町 壺瓶山

34

おぼろ月夜

菜の花畠に入日薄れ 見渡す山の端霞ふかし 春風そよふく空を見れば 夕月かかりて におい淡し

NHK後世に残したい曲第4位金田一春彦氏曰く、全く非の打ち所ない名曲
イメージは八東川を中心とした風景

35

もみじ

秋の夕日に照る山もみじ 濃いも薄いも数ある中に 松をいろとどる楓や蔦は 山のふもとの裾模様

全国的に知られた名曲。
イメージは智頭町芦津渓谷-ここの紅葉は抜群

36

日の丸の旗

白地に赤く 日の丸染めて ああうつくしや 日本の旗は

素直にして純粋な歌詞、歌に誇りをもちたいものだ

37

桃太郎

桃太郎さん桃太郎さん お腰につけたキビ団子 一つ私にくださいな

我々の年代の忘れ得ぬ歌。

38

銀杏散る

孤独-ひとり-をしたい今日も来し 思出多き丘の上--に 入日に燃えてそそり立つ 秋をほこりの大銀杏

イメージは青谷町 子守神社の銀杏

39

夕やけ

山のふもとの おちかたは 雲雀さえずる青野原 声ははるかに 夕暮の 空もおぼろに 花ぐもり

イメージは東郷湖

310

雲の秋

さやけく澄める 秋空の 空の片方の朝の曇 遠き氷河を思わする 淡きかたちに整いて月さえ白く残るとき いや秋は深し 曇の秋

イメージは佐治村 山王渓谷一帯

311

行く春

見はてぬ夢のあと追うおもい 名残はつきぬ春の別れや 散りゆく花の一片にさえ 淡き憂いのなずさわるかな

イメージは鹿野町 城山公園一帯

312日 

お日さまがみつけたもの

お日さまがみつけたものは まやのまぐさに赤い花 眠る仔馬の耳の蝿

イメージは中山町 一息坂峠から見た風景

岡野貞一その他の作曲唱歌ーー
三才女・七つの卵・雪の上の鴉・橘中佐・広瀬中佐・児島高徳・水師営の会見・富士山・冬景色・池の鯉・鎌倉など日本人に愛された数々の名曲を残している。

タイトル

田村虎蔵(たむら とらぞう) ●プロフィール
明治六年、岩美郡岩美町馬場に生まれる。二十五年に鳥取県尋常師範学校を卒業し、因幡高等小学校に赴任するが、同年九月、東京音楽学校に進学する。明治二十八年卒業後、兵庫県尋常師範学校を経て、三十二年に東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭となり、ここで、音楽教育の改草を次々と行う。『言文一致唱歌』を提唱し、児童の発声法の改善を唱え、鑑賞教育の必要性を強調したことである。七十年前にこれらの改革を提唱し推進した、わが国音楽教育の偉大な先駆者であるだけでなく、今もなお愛唱されている数多くの唱歌の作曲者として著名である。音楽教育と作曲の分野だけでなく、東京市視学として行政面でも手腕を振っている。 昭和十八年に没する。

 

313

大黒さま

大きな袋を 肩にかけ 大黒さまが きかかるとここは 因幡の白兎 皮をむかれてあかはだか

鳥取市 白兎海岸・白兎神社一帯

 

314

きんたろう

まさかりかついできんたろう くまにきたがりおうまのけいこ ハイシィドゥドゥ ハイドウドウ ハイシィドウドウハイドウドウ

イメージは岩美町 町民いこいの里

 

315

はなさかじじい

裏の畠でポチが鳴く 正直じいさん掘ったれば 大判小判がザクザクザクザク

イメージは日吉津村のチューリップ畑

 

316

山陰鉄道唱歌

海の景色を眺めつつ 浜坂居組はやすぎて ここは因幡の岩美駅 岩井温泉ほど近し

イメージは跨線橋から見た米子駅構内

 

317

浦島太郎

浦島太郎は亀に乗り 波の上やら海の底 鯛しびひらめ鰹さば 群がる中を分けてゆく

イメージは大山と弓ヶ浜

 

318

大江山

けらいは なだかき四天王 山伏姿に身をやつし 険しき山や深き谷 道なき道を切り開き

イメージは鹿野町 鷲峰山

 

319

したきりすずめ

正直じいさんつえついて 舌きりすずめおやどはどこか「宿はここよ チェッチェッチェ

イメージは倉吉市 打吹山・打吹公園一帯

 

320

大寒小寒

おおさむこさむ冬の風 あれあれからすが四ッ五ッ かあかあかあと ないて行く あれはねぐらに帰るのか

イメージは中山町 一息坂峠から見た風景

 

321

うさぎ

うさぎさんうさぎさん おまえの耳はどうしてそんなに長いの 耳よ耳よ私の耳はかすかな音も聞こえるために

イメージは江府町 御机地区

 

322

せみ

梢の花は みな散り果てて 庭に青葉の繁る頃 土の中より 這い出して 夏が来たぞと歌うはセミよ

イメージは樗谿公園界隈

 

 

田村虎蔵その他の作曲一
寸法師、虫の楽隊、小さな星、青葉の笛、妙義山、うぐいす、

とんぼつり、海辺、虹、おひなさま、菊の花、

タイトル
永井 幸次(ながい こうじ)●プロフィール
 明治七年、鳥取市西町に生まれる。クリスチャンの父の影

響で、教会で讃美歌やオルガンにふれ、音楽の素養を身につ

ける。
 明治二十九年に東京音楽学校を卒業し、静岡県師範学校を

経て、三十三年に鳥取県師範学校に赴任する。鳥取中学校と

鳥取高等女学校も兼務し、合唱とオルガン演奏を指導する。
 明治三十八年、神戸市立中宮小学校に出向する。後に大阪

府立高等女学校に転任し、このころから、外国の教科書の研

究、音楽教科書の自主編さん、作曲などを行う。
 大正四年、私立大阪音楽学校設立の認可を受け、関西で最

初の音楽学校を創設する。以後、校地や制度の整備を進め、

昭和三十三年には大阪音楽大学に昇格させる。
 生涯の理想を実現する一方で数多くの唱歌や合唱曲を作曲

し、楽譜を出版する。
 昭和四十年に没する

323

五一じいさん

ざぶざぶ落ちる水の音 トントン響く杵の音 年が年中休まない五一車は休まない

イメージは淀江町 天の真名井名水百選「天の真名井」も湧き出ている。

324

夕やけ

ゆうやけこやけ 西の海が光る 赤い波白い波 キラキラキラキラ キラキラ

イメージは気高町 龍見台

325

春の山路

たのしやたのしや春の山路 みねよりみねへと ひとすじの道 右も左も若葉にもゆる 木々の梢のすがすがしさよ 緑の露はしたたるばかり

イメージは中山町 報恩峠

326

ことしは柿のあたり年 おし゜いさんから頂いた 裏の大事な柿の木も 枝が折れるほど実がなった

イメージは日南町 ふるさと日南邑

327

町の朝

朝まだ早い町の中 すずしい鈴の音たてて新聞配達 かけて行く

イメージは御来屋大橋から見た山陰本線

328

海へ

軒を並べた港の家々 だんだんちさく浜の松原 磯の小山もしだいに遠く 海へ海へ海へ いままさに 船はいで行く 海へ海へ

イメージは境港市 境港公共マリーナ付近山は大山

329

山家の雨(やまが)

静かに雨がふる 静かに雨がふる 窓より見ゆる かしこの岡 うねうね続くかなたの山 遠くけむりて ほのかにくらし

イメージは大栄町 妻波下堤付近から見たすいか畑

330

宵の星

すっかり暮れた向こうの空に チラチラ光る宵の星 なにやら話がしたそうな

イメージは佐治村 さじアストロパークから見た夜空

永井幸次その他作曲
白うさぎ、まわりつこ、ささ舟、山彦、希望、かみなりさま、お窓、 きょうだい、春、象、一軒屋、飛行機

三木露風の生母
三木露風は「赤トンボ」の作詞者として著名である。作曲はあの山田耕作であり残したい唱歌の第一番である。三木は鳥取県出身者ではないが、三木の生母が鳥取藩家老、和田邦之介の次女である。無関係ではないので最後にご披露する。

331

赤トンボ

夕やけ小焼けの赤トンボ おわれてみたのはいつの日か

イメージは日南町 阿毘縁地区周辺

 

さて本論であります。

 

ある日、尊敬する元中学校校長から、徳永さんの文章は五七調だからリズムがあり読みやすいと評された。

 

やはり、物のわかる人は本質を会得しているのですね。

だから、いつも申し上げるように、

どんな良い情報や話題でも、アンテナの感度次第なのですね、

それが分からず、自分だけ尊大、井戸の中の蛙、になるのが田舎者と私が云う。シナ人とか韓国人みたいなものだ。

 

さて、そこで、このリズム、

日本の本質と申してよいのですね。

リズミカル、

短歌は 五七五七七

俳句は 五七五

 

実は、私は高校時代から和歌を添削してもらっていた。

万葉集も若い時から随分読み、研究してきた。

多分、知らぬ間に、と゜うやら、これが皮膚感覚で身に沁みこんでいると思いますね。

だから、私の文章は、歯切れがいいしリズムがあるのでしょうか。その上ら筋を論理的に通している。

だから、読む方からすればスラスラと読めるのかなあと自画自賛です。

もなさん、どうでしょうか?

 

 

:結論

端的には  千曲川旅情の歌 美しいリズム

島崎藤村ですね。

 

 小諸なる古城のほとり

 雲白く遊子悲しむ

 緑なすはこべは萌えず

 若草はしくによしなし

 しろがねのふすまの岡辺

 日に溶けて淡雪流る

 

 あたたかき光はあれど

 野に満つる香も知らず

 浅くのみ春は霞みて

 麦の色わづかに青し

 旅人の群はいくつか

 畠中の道を急ぎぬ

 

 暮れ行けば浅間も見えず

 歌哀し佐久の草笛

 千曲川いざよふ波の

 岸近き宿にのぼりつ

 濁り酒濁れる飲みて

 草枕しばし慰む

 

いいですねぇー。これぞ日本。

これが五七調です。

五七五七七 の短歌 五七五の俳句

がそうであるように、

日本人は

古来、五七調、七五調を好んでいますね。

これが知らず知らず、血肉となり我々の中に息づいているのでしょうか。

 

五七は「素数」らしい。

素数とは、自分と一以外に約数が無い数字。

五を割るには五と一しかない。

 

俳句の文字数 5 7 5 足すと1717も素数。

短歌も、5 7 5 7 7 足すと31 31も素数

 

日本人のリズムは素数で成立していると数学者の藤原正彦先生は指摘しておられます。

 

日本人のリズム、情緒は素数で成立していると。

 

我々戦前はにはも、

 

深いメロディが内蔵しているようです。

ほかにも、

青葉の笛、感動的です。