日本古代史  第37   平成28年3月分一挙掲載

推古天皇、摂政聖徳太子の登場

推古朝の背景

聖徳太子の登場

蘇我氏は大和の豪族達が九州へ新羅遠征のために出撃した後、大和国内が手薄になった時を利用して、崇峻天皇を弑逆(しぎゃく)してしまいました。これは蘇我氏が天皇を凌駕するほどの実力を持っていたことを意味しますが、逆に言えば当時の天皇は一豪族を圧倒するほどの権力を持っていなかったということでもあります。

然し、蘇我氏が崇峻天皇を倒して自分で皇位を継承しなかったのは、やはり天皇家の中から天皇を立てなければ外の豪族たちを納得させられないからでした。馬子が天皇のロボット化に執着するのも、そうした天皇家の伝統的権威が厳然と確立しており、いかに強大化したとはいえ、帰化系民族である比較的に新しい蘇我氏にはそれを覆すことができないからでした。

そこで、崇峻天皇弑逆(しぎゃく)後、馬子はまず自分たちと血縁関係の濃厚な額田部(ぬかたべの)皇女(みこ)を推古天皇として擁立しました。そして、推古天皇が女帝であるということで、皇太子に立てた聖徳太子を天皇を補佐する摂政に任命しました。この二人が天下の政治を執るという建前にして自分は依然として大臣としての身分を保ち、政治に介入するという体制をつくりあげようとしたのです。

こうして初めて聖徳太子という方が日本の政治の中心に姿を現したのですが太子はその政治家としての出発点においては、蘇我氏の強力な天皇ロボット化策という圧迫を受けていたわけです。

 

蘇我氏と推古天皇・聖徳太子の関係

馬子がなにゆえに推古天皇を立てたのかと言えば、何よりも推古天皇が蘇我氏と血縁的に深い関係にあったからです。推古天皇(額田部皇女)は欽明天皇と蘇我稲目(いねめ)(むすめ)堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれた皇女であり馬子の姪に当るのです。

推古天皇は()(だつ)天皇の皇后となった経歴の持ち主であり、この高貴な皇女を女帝として立てることに誰も疑義をさしはさむことは出来なかったとみられます。しかも、推古天皇はかって馬子の物部守屋討伐に際して蘇我氏の側に有利な(みことのり)を下され、また崇峻天皇の擁立に当っても馬子を助けており、馬子にすれば最も信頼できたわけです。

それでは、摂政に立てられた聖徳太子の方はどうだったのか、聖徳太子もまた蘇我氏との血縁関係が非常に濃厚です。

聖徳太子の父は用明天皇であり、母は欽明天皇の(むすめ)(あな)穂部間人(ほべのはしひとの)皇女(みこ)ですので、天皇家の一族であることは明白です。しかし、その系譜をよく見ると、その当時の諸皇子の中で聖徳太子は一番蘇我の血が濃厚なことがわかります。

欽明天皇は、連帯婚によって蘇我稲目の女・堅塩媛(きたしひめ)とその妹の小姉(おあねの)(きみ)という二人の蘇我氏の女を妃としています。欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ)との間に生まれたのが大兄(おおえ)皇子、即ち用明天皇です。そして同じく欽明天皇と小姉君との間に生まれたのが聖徳太子の母である(あな)穂部間人(ほべのはしひとの)皇女(みこ)なのです。

ちなみに、当時の社会慣習では、同母兄妹婚はタブーでしたが、異母兄妹婚は認められていました。と言うのも、古代社会では、男が女の家に通う招婿婚が行われ、父が同じでも母が違えば兄妹の感情は生じないという精神文化が背後にあったからです。とりわけ支配階層においては貴種保存の観念からかえって異母兄妹婚が多く行われていたのです。

要するに聖徳太子の父母ともの馬子からみれば聖徳太子は甥と姪の間に生まれた子ということになり、その当時としては皇子の中で一番蘇我的な影響、血の濃厚なのが聖徳太子だったと言えるのです。しかも、そうした太子自身の蘇我的血統に加え、太子は馬子の(むすめ)刀自子郎女(とじこのいらつめ)を妃としており、馬子は太子の岳父でもあったわけです。

馬子が女帝・推古天皇を擁立しもそれに摂政として聖徳太子を当てたということは、天皇も摂政もともに蘇我的な人物であるから蘇我氏の棟梁である自分の言うことをよく聞くだろうという計算があったわけてす。

 

聖徳太子の系図

蘇我稲目--堅塩媛

      |-----用明天皇

   継体天皇-欽明天皇 |

      |----穴穂部間人皇子--聖徳太子

小姉君        |

           |山背大兄皇子

           |

     馬子-------------------刀自