昭和天皇のどこが偉大であったか その三

エドウィン・ホイトというアメリカの軍事史家、ジャーナリスト。週刊誌『Collier』の編集長、CBS・TV NEWSのライター、製作者を務めた。著書に「空母ガムビアベイ」がある。彼の著書の一つに「世界史の中の昭和天皇」がある。そして、昭和天皇のどこが偉大であったかと問いかけている。その著書「世界史の中の昭和天皇」の序文を引用して見よう。
平成23年3月

3月 1日 平沼枢密院議長

ここに於いて平沼枢密院議長の元老が発言した。彼の影響力は、天皇と共にある枢密院の絶大な威信に基づいている。彼の声は天皇の声であった。

3月 2日 立憲君主を逸脱

昭和天皇が、閣僚等に対して疑問の声を投げかける行動を取ることは、立憲君主としての性格を逸脱した行為となるのである。だから代弁者が不可欠である。

3月 3日

現実的な提案を考えるべきではないか、と平沼は聞いた。東郷外相は、それは特使を送ることであると答えた。平沼は、戦争犯罪容疑に対して出席者はどう思うか、また日本軍の強制的武装解除に連合国側はどんな要求をするかについて質した。

3月 4日

これに対して、軍人たちは不満を露にした。現実を無視したものであった。陸海軍大臣ともに譲ることなく、言い分を主張した。最後に平沼枢密院議長が発言した。

3月 5日 戦争継続は日本国民の為にならないと云う思い

「治安維持は大切だが、今後とるべき処置は何であるか。今、まさに食料問題は憂慮すべき事態に向かいつつある。戦争を止めることよりも、戦争を続けることはかえって国内治安の乱れとなる」

3月 6日 陸軍首脳部の欺瞞

天皇は無表情に座り続けていた。天皇は殆ど話を聞いてすらいないような表情であった・これが日本の立憲君主の基本スタイルであった。だか、天皇の頭の中には、問題は解決不能であり、戦争継続は日本国民の為にならないと云う思いが渦巻いていたのである。

3月 7日

豊田海軍大臣が述べた。「海軍軍令部長、陸軍大臣、参謀総長はみな一致した意見である。勝利の可能性が大きくないことは事実である。しかし我々は激しく敵と戦い、我らは彼等の戦意を打ち砕くことが出来る。わが国民はい依然として絶大である」と。

3月 8日 御前のご判断を待つしかない

ここで遂に鈴木首相が口を挟んだ。「我々は非常に長い間この件について議論してきた。だが、あなた方軍部は事実に基づく適切な助言を何も提供していない。現実は枢密院議長の言葉が証明するように深刻である。反対がこれ程大きい以上、我々はこの件について御前のご判断を待つしかない」

3月 9日 ご聖断

「恐れながら、ご聖断をお願い致します」と首相は言った。

3月10日 勝利の見込みはない

そして、遂に昭和天皇は口を開かれた。「勝利の見込みはない」と。

3月11日 陸軍の見解は信用するにあたらないとの仰せ

続いて「先に示された計画に私たちが抱いていた自信はもはや消えうせた。更に、もし陸軍大臣が言ったように今月末までに九十九里浜の防御陣地を建設することが出来ても、充分ではない。彼が言及した新師団に装備を与えることは出来ないだろあ。それに加え、彼は米英に対し勝利を得られるというあらゆる種類の新兵器を自慢しているが、信用するにあたらない」

3月12日 天皇は白手袋をした手で涙を拭われた。

「このような状況は、明治時代の三国干渉の時にもあった。それは国にとって大きな災厄をもたらすと思われたが、結果はそうではなく、国民に幸福をもたらした」。天皇は白手袋をした手で涙を拭われた。それが全てを示していた。

3月13日 天皇のご見識とご胆識

天皇は会議の直後、軍事補佐官である蓮沼侍従武官長を陸軍軍務局長に会いに行かせた。大本営にも使いをだした。厄介な問題がどこで起きるのか予想する見識を具えておられたのである。

3月14日 自ら出むいて終戦決定は朕の意思と宣言

天皇は、戦争終結の決定を転覆しようとするいかなる妨害や試みも惹起させないように陸海軍の指導者に注意された。特に大本営には、トラブルが起きたら「自ら出むいて終戦決定は朕の意思であることをはっきり言う」と宣言された。

3月15日 理解していない欧米

アメリカとかイギリス人は、昭和天皇がいかに軍事独裁政府に縛りつつけられておられたかを理解していない。また、陸海軍を降伏へと誘導しようと努力された四日間、この厚い壁をいかに打ち破られたかを未だに理解していないのである。

3月16日 天皇の放送による終戦の詔書

814日、国民に向けて行われる天皇の演説が録音された。だが、多くの若い士官が反乱を企てて政府の転覆をしようとしていたのである。だが、これらの動きは鎮圧され翌日の正午、天皇の放送による終戦の詔書が国内と世界に向けて行われた。

3月17日 根拠が無い天皇の陰謀

1972年に出版されたD・バーガミニの「天皇の陰謀」は1930年代、40年代の戦争と帝国主義の全責任が天皇にあると説明しているが、この本は全ての出来事の行動命令は天皇から直接下されたものだと言う事を建前として書かれている。これは間違いなく間違いであり根拠が無い。

3月18日

D・バーガミニの「天皇の陰謀」は真実らしさが見当たらない。天皇を責め立てようとする意図が余りにも強烈で強引である。先入観による主張であり誤解に拍車をかけるものである。

3月19日

昭和天皇は幼少時より立憲君主としての教育は厳しく受けており穏健な学者であり、飲酒喫煙もなく側室も一切置かなかったゼントルマンである。

3月20日

満州国建国から2年経過した頃、内閣の自由派は満州に於ける日本軍の支配力を緩和させるように要求しており、天皇も同意しておられた。

3月21日

天皇、「なぜ関東軍司令部が満州国の内政まで管理しなければならないのか。いつになれば満州国はシビリアンコントロールの国となるのか」と本庄武官長に聞いた。答えは「勿論、そうすべきです。しかし実際は・・・」と逃げた。

3月22日

満州国皇帝・溥儀は19354月に国家元首として東京を訪れ日本軍の精鋭を視察する予定となっており天皇はこれに出席する意向を示されていた。然し、軍首脳は「天皇は出席されるべきでない」と反対した。

3月23日

軍の反対の理由は「天皇陛下に対する日本軍の尊敬の念は絶大で天皇陛下ご臨席のもとで皇軍兵士が他国元首に敬礼することなど許されません」と述べたのである。

3月24日

然し、湯浅宮内大臣は本庄武官長に対して、もし天皇が視察に参加できなければそれは外交儀礼を著しく欠くことになると主張し天皇の参加を求めた。

3月25日

すると林陸軍大臣は、もし天皇が臨席されれば、軍は満州国皇帝に自国国の旗を振ることを拒むと述べ、さらに「もし天皇陛下が溥儀帝を東京駅に迎えたり閲兵されたら天皇陛下が溥儀帝の後を歩かれるような事態があるかもしれない。そうなれば陛下の威厳を甚だしく汚すことになる」と主張した。

3月26日 軍と議論することを拒否された天皇

然し、天皇周辺と宮内省はこの言葉を受容しなかった。天皇は当然出席されるべきであり軍は身の程を弁えた行動をすべきだと逆に叱責した。そしてこれ以上軍と議論することを拒否したのである。

3月27日 軍の横暴こそ日本を危殆に陥れた

この段階で軍は漸く引き下がったが、到着される時と去られる時こそ最高の禮を尽されるべきだと意味不明の主張をして、結局月天皇は溥儀より送れて到着、早めに立ち去られることを強引に宮内省に納得させた。軍の横暴こそ日本を危殆に陥れたと言えよう。

3月28日
-31日
天皇機関説

軍部はさらに天皇の権力を奪取すべく、新たなる手を打ち始めた。東京帝国大学法学部教授・美濃部達吉が雑誌の論文で「統治権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関として統治権を行使する存在だ」と主張した。これは美濃部の独創ではなく、明治憲法を詳細に検討すれば当然のことであつた。軍部はこれに対して「軍は天皇を現人(あらひと)神として崇拝している。もし天皇が機関説により人間並みに扱われたら軍隊教育と統帥権の面で重大な支障をきたすであろう」として激しく美濃部を非難し対立した。ここに重大な問題があった。軍の立場からすれば、天皇は軍の目的の為に存在するのであって機能としては正にそれだけのことであった。軍部の願いは、天皇が国事を超越した存在であることてであり、天皇の意思が下位の者によって実行される形式を望んでいた。この考えは天皇を崇高な存在として隔離し人との目に触れることのないようにしてしまうことであった。然し、「私は神ではなく肉体的には普通の人間である。と言い「こうした天皇の神格化は馬鹿げている。(天皇はあくまで議会と同じく国の一つの機関であり)機関説を排撃し身動きできなくされるのは自分として迷惑である」と天皇は既に自らを神聖な操り人形とするような軍部の考え方反対しておられ幾度となく本庄侍従武官長に強い不満を述べておられる。