優れた祖先を、知るべし、学ぶべし その3 

国民を守ってくれているのが国家である。これを否定できる人は存在しない筈である。否定する人は、愚かというより欺瞞人であり無知であり、世間知らずの田舎者である。「日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれる」と加藤登紀子が言った。 曾野綾子さんが「そんなに日本が嫌いなら日本人でいることはない。他国人になれば(産経新聞「昭和正論座」)と勧めていた。加藤登紀子は日本は嫌いだと若い時に発言したが、まだ日本で暮らしている。日本という国家が嫌なら日本国の世話になるな、外国に出ていけばよいのである。加藤登紀子はそれが出来ない、日本が良い国家だと示しているようなものである。だが加藤登紀子のような人間が存在するのも事実だ。それは、歴史を知らぬからである。世界史も国史も中国史も韓国史もロシア史も知らぬからである。戦後の偏見に満ちた教育の所産なのである。日本の父祖が営々と築いた日本をもっと現代日本人は知らなくてはならぬ。世界史的に見ても素晴らしい日本人の先祖がこの素晴らしい国を造ってくれたのである。私は色々な日本人、そして父祖の言葉を拾い出してみたいと思う。平成22年元旦  徳永圀典                                           
平成22年3月

3月 1日 上杉鷹山
薄幸の妻いたわった名君
誰にも再建不能と思われた米沢藩を、30年かけて見事に立て直した江戸期随一の名君、上杉鷹山は何より人間として立派であった。養子である鷹山は19歳のとき、先代重定の娘、 幸姫(よしひめ)(17歳)と結婚したが、幸姫は精神薄弱者で発育不全、体は少女のままで、妻としてのつとめを果たすことのできぬ不幸な人であった。
3月 2日 しかし、鷹山はこのような幸姫を心からいたわり、深い愛情をもって接した。どんなに政務が立て込んでいても、毎日必ず時間を割き、幸姫の部屋を訪れて相手をした。折り紙や玩具や人形で遊んでやるのである。 幸姫はいつも少女のように喜々として声をあげてたわむれた。幸姫は夫の鷹山がこうしてやってきて遊び相手をしてくれることを、無上の楽しみとし喜びとしたのである。
3月 3日 この二人の様子を見て、幸姫づきの女中たちはかげで袂(たもと)を絞った。幸姫の喜び楽しむ姿を見てはうれし涙を流し、夫婦の会話もか なわず子も産めぬ幸姫にいささかの不満を示すことなく、心から同情し敬愛を尽くして遊び相手をする鷹山に悲しみの涙を漏らしたのである。
3月 4日 幸姫は30歳で亡くなるが、鷹山とともにあった13年間は至福そのものであったといえよう。 鷹山は薄幸の妻に対するこうした慈愛を同様に米沢藩の人々にふりそそいだのである。
日露戦争に暗躍した人物
3月 5日 明石元二郎物語 世界が帝国主義の段階に突入して以来、戦争の特徴は、旧来秩序が維持できなくなったときに限り世界的規模で戦争が開始されている。新しい秩序を構築しえないような矛盾の集積が二度の世界大戦を生んだと言える。 国力を挙げて戦う近代の戦争では、一度の敗北が国家基盤そのものの崩壊に直結する。日露戦争の場合、新生日本は文字どおりの総力戦を戦ったがロシアには余力があった。
3月 6日 ロシア東進は日本の存立を許されぬ脅威

帝政口シアにとり日本は東洋の小さな島国にすぎなかった。だが明治政府にとりロシアは、その東進を許したなら国家そのものが存立を許されない脅威だった。
余力があった分だけロシアは敗けてはならず、勝った

という形をとらなければならなかった。このような立場にあった明治政府の戦争目的は、事を構える当初から機を見て講和に持ち込むという線でまとまっていたのである。この目的に沿ってすべてが企画され総動員されたのだ。
3月 7日 謀略工作 こと、諜報にかぎっていえば、当時の情報はすべてイギリスに集中しており、質量ともにイギリスの情報が他を圧倒していた。参謀本部は、そのイギリスに陸軍期待の星・宇都宮太郎を配して情報収 集をさせた。当面する敵国のロシアには明石元二郎が配置された。彼に与えられたのは後方攪乱を目的とする謀略工作が主要な任務だった。
3月 8日 児玉源太郎に才能を買われる 明石元二郎は、万治元年(一八六四)に福岡藩士明石助九郎の次男。父親は二千石以上の上土だったが、若くして自殺。藩論を倒幕に傾けんとし藩内闘争に敗れたことが原因。富国強兵策を採る維新政府は、国防と教育を重点政策として定め、士官と教員の養成に 給費制度をとった。この時期の知識層は、士族と富農・富商層である。無料で教育が受けられ、わずかではあるが給与も支給されるという魅力から、多くの士族の子弟が士官学校を目指し、富農層からは師範学校を目指すケースが多かった。
3月 9日 明石の経歴

維新政府により廃藩置県が実施され藩が崩壊した後の士族にとって生き延びる唯一の機会は新政府の機構に参画することだった。彼らの子弟の一人であり、幼時に一家の主柱を失った明石が士官学校を目指したのは 

このような時代背景がある明治九年上京した明石は安井息軒の門下生として漢学を修めるかたわら陸軍士官学校を卒業、日清戦争に近衛師団参謀とし従軍、この間の明治二十年に陸大を卒業した。
3月10日 明石の成績

陸士卒業時の成績はフランス語が二七人中のトップ、製図と絵画に優れた才能を示したほかには格段の才能を見せていない。

陸大で一期下の宇都宮が全教科で優秀な成績を残したことに比べると、数段劣る成績だった。
3月11日 明石の性格 明石の場合、成績で劣るだけでなく、未来の帝国陸軍を背負って立つにふさわしいすべてにおいて欠けるところがあった。まずは、身なりと風貌である。明石には常人に共通してある他人との関係を図る感覚に欠けるところがあった。同じ衣服を擦り切れるまで着続けて頓着しない、 風呂に入らない、歯を磨かない等々に加えて、チビで風采が上がらないだけでなく運動神経も著しく欠いていた。走らせるとビリ、器械体操はまるでダメという有様だった、熱中すると周囲が目に入らなくなる性格であるために、協調性に欠けていた。
3月12日

この集中癖は目的に向かっての貫徹力を意味しており、別の角度から見た場合には美質でもある。 明石の異常なまでの集中力を示す逸話がある。 日露戦争後のこと、明石は陸軍の総帥山県を訪ね、ある構想を述べる機会があった。語るにしたがい、明石は夢中になり小便を漏らした。

面倒だと思ったのか尿意を感じなかったのかわからないが、明石はそのまま話を続けたので小便は床を伝わって山県の足元を濡らした。それでも語ることを止めない明石の熱心さにほだされて、山県も黙って終わりまで話を聞かざるをえなかったという。
3月13日

どう孝えても常軌を逸した話で、どこまで信じられるものかわからないが、話半分としても明石の性格の一面をよく物語っている。逸話の真偽はともあれ、明石のこの美質に目を付けたのが田中義一だったことは明石にとって幸いだった。

明石は田中の引きで児玉源太郎にその才能を買われ、山県・児玉・田中と連なる長州閥、すなわち帝国陸軍の中枢に参画することができた。
3月14日 戦勝の一原因は明石大佐
日露戦争を鳥瞰する場合、あらゆる局面で目に付くのは児玉源太郎である。児玉は、この戦役のキーマンだった。その児玉が立案した戦略の骨子は、@正面でロシア軍を迎え打つと同時に、 A脇腹に当たる中国では袁世凱と結託してロシア軍の側面を突き、B後方にあっては反帝政勢力を煽動して事を起こし、C機を見て英米の仲介で講和を図る、という四本の柱から成り立っていた。
3月15日 明石の謀略工作は大成功

それぞれの柱に重さの違いがあるとはいえ、その柱の一本を明石は受け持ち、見事に成功に導き、児玉の抜擢に応えたのである。

明石の謀略工作の足跡は全ヨーロッパに及び、彼が工作して歩いた跡にことごとく帝政ロシアに対する反乱が起こるほど見事に成功した。
3月16日 ここから明石の活躍を師団規模の兵力に匹敵すると評する見解がある。参謀本部編『機密日露戦史』はその一つで「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と記しているが、その評価はけっして過褒でない。明治三十五年(一九〇二)、二年後に戦端を開くロシアに仏、独に続く三回目 の公使館付武官として明石は派遣された。開戦前の明石には際立った活躍の痕跡はみられない。明石には海軍の広瀬武夫にあったヨーロッパ的な知性の素地がなかったし、風貌においても見劣りがしたから、社交界に溶け込んで情報を得ることができなかったものと思われる。
3月17日 その明石に、開戦を前にして児玉は秘密命令を発するとともに1〇〇万円の工作資金を送った。国家予算が25千万円程度だった時代の1〇〇万円である。現在の金額に単純に換算すると2千億円を超える金を、明石に預けたことになる。 このような巨額の資金を一個人に預けるということ自体が賭けであるが、そもそもは日露戦争自体が大博打の性格をもった戦争だった。国家予算をすべて注ぎ込み、兵力を根こそぎ総動員し、文字どおり国を挙げて総力を投入した戦争だったのだ。
3月18日 明石の謀略工作

ペテルブルクの日本公使館が開戦によってストックホルムに拠点を移すことになったのは明治三十七年二月、明石の謀略工作はロシアを離れたこのときから開始されることになる。明石ら公使館員は、ストックホルムの駅頭で予想外の大歓迎を受ける。

地理的にも歴史的にも日本は遥か遠い彼方の島国であるのに対して、スウェーデンとロシアはきわめて近い関係にある。そのロシアに宣戦を布告した日本が、大歓迎される理由はないものと考えるのが普通である。
3月19日

しかし、事実はまったく逆で、国王自らが一行を謁見するという大歓迎を受けたのである。理由は、ロシアが東欧諸国に対して採ってきた膨張政策にあった。 十八世紀末にエカテリーナ二世がポーランドを分割して以降、文明のヨーロッパを自負する東欧諸国は、一貫して蒙

昧なロシアの下に屈服を強いられてきた歴史があった。ポーランドとフィンランドはロシアの属国となって久しく、かつての強国スウェーデンも帝政ロシアの飽くことを知らない領土拡張政策の前に危機に曝されていた。駅頭での大歓迎はこうした東欧諸国の対露感情の表れだったのである。
3月20日 束になって掛かってもかなわなかったロシアに、東洋の新興国が正面から戦いを挑んでいる。この一事で、東ヨーロッパの国々は国を挙げて歓迎する雰囲気に包まれていた。明石が優れていた点の一つは、国民的な規模で東ヨーロッパを包んでいるこの雰囲気から導き出される 本質を、正確につかむことができたことにあった。開戦したからにはロシア国内での謀略工作はできない。その分だけロシアの周辺国で反露工作を行わなければならないが、それは十分可能である。これが明石が導き出した判断だった。
3月21日 いま一つの明石の特徴は、目的の実現のために術策を弄さなかったことにあった。性格的に人との間に距離をとることができないうえに、明石はそういう訓練をする機会をもたなかったことから、彼の謀略工作は、およそスパイと呼ぶには似つかわしくない方法で行われた。
ペテルブルクで仕入れた
情報だけを頼りに、明石はフィンランド反露組織の元老であるカストレンに、仲介者を立てることなく面会を申し込んだ。この接触は失敗に終わったが、反応は思わぬ方向から出てきた。カストレンに比べて、より過激な地下組織を代表するシリヤスクという人物が面会を求めてきたのである。
3月22日 シリヤスクとの邂逅 非合法活動には危険が付きものである以上、ある種の賭けは避けられない。地下活動家に欠かせない資質が警戒心であるなら、いま一つ問われるのは敵と味方を識別する洞察力である。 この無防備な日本人スパイを観察したシリヤスクは、明石の無防備の裏側に偽りが隠されていないことを見抜く洞察力をもっていた。シリヤスクとの邂逅が、明石のその後の運命を決定したといっても過言ではない。
3月23日 明石の業績 日露戦争における明石の業績は、豊富な資金を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことを通して、帝政ロシアの根幹を揺るがしたことにある。冒頭に触れたように、この戦役の場合、ロシアの立場は敗けてはならないものだった。 たかだかアジアの一小国に過ぎない日本に戦争を仕掛けられたこと自体が、超大国ロシアにとって終わりの始まりを意味するものであり、戦敗は文字どおり帝政ロシアの終焉を意味していた。
3月24日 当時のロシア

帝政ロシアは二〇世紀に入っても中世の農奴制を維持していたこととの関係から、国内外に多くの反対派を抱えており、政治支配の軸をなす官僚機構も腐朽の極に達していた。
こうした側面を見るかぎり、ロシアは近代戦に欠かせない国を挙げた総力戦を戦える状態にはなかった。 

しかし、そうはいってもロシアはロシアである。当時の日本とは比較にならない国力を維持しており、純軍事的な側面を見るかぎり、勝利が可能な条件は十分にあった。にもかかわらず不本意な講和を受諾せざるを得なかった原因は国内の反対勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことと関係している。
3月25日 講和の決め手は明石の業績 日露戦争の開戦が一九〇四年二月、翌一九〇五年五月には「血の日曜日」と呼ばれる事件を契機とするロシア第一次革命が始まっている。日本海海戦が同じ五月の末、講和条約の締結は、四か月後の九月である。もともとが陸軍国であるロシアは、 自国内で戦うかぎりでは、海軍を失っても戦闘を継続するうえで大きな支障はなかった。 それを考えると、講和の決め手になったのは日本海海戦の敗北ではなく、国内の革命であったことが浮彫りになってくる。明石の業績は、その革命を促進したことにあったのである。
3月26日 この時代に生きた軍人の多くは懐旧談を残しており、明石にも『落花流水』と題する著書がある。明石はその性格からして、比較的虚言が少ない人だが、この著書でレーニンと親しい関係にあったことを述べているくだりは疑わしい。その理由の第一はレーニンにとって明石が活躍し た時期が、後にボリシェビキとメンシェビキと呼ばれることになるロシア共産党の党内闘争に総力を挙げて取り組んでいた時期と重なることである。第二に、明石がレーニンと知己であることによって、フィンランド過激派のシリヤスクの信頼を得たと語っていることである。
3月27日 明石がシリヤスクに合った一九〇四年のレーニンは、あらゆる権謀術策を駆使して社会民主党の主導権をわずか二票の差で確保したにすぎず、ロシアの過激派は依然としてプレハノフによって 代表されていた時期に当たるからである。明石がレーニンと親交があったと語るのはロシア革命以降のことである。それは明石の日露戦争の履歴と深く関係しているように思われる。
3月28日 この戦役後の明石は、日韓併合の前後の時期を韓国憲兵隊司令官、警務長官 などの治安任務に当たり、最期は台湾総督として任地で病没する。
3月29日 任命された役職を見れば明らかだが、いずれも日露戦争での諜報活動の経験を買われての起用である。最終的には大将の地位まで登りつめたとはいえ、軍人本来 の任務からすれば参謀次長と第6師団長をわずかの期間勤めたのみに終わり、一貫して表舞台からは外され続けたといっていい。
3月30日 明石は日露戦争に触れて周囲が彼の活躍を賞賛するとき、きまって「俺の苦労がわかってたまるか」と叱りつけたという。明治政府の浮沈を賭けた戦役において、たった一人で師団規模の活躍をし た功績があるにもかかわらず、それゆえに明石は軍人としては傍流を歩まされ続け、影の英雄としてしか扱われなかった。そのことに対する不満が、右のような言辞の形をとらせたことは想像にかたくない。
3月31日 この屈折した意識が、革命ロシアの主領であるレーニンを知己として語ることで、 自らを癒す糧にしていたと推測するのは考え過ぎであろうか。