大化改新クーデターと大化の改新

いわゆる、大化の改新とは、入鹿暗殺によって蘇我独

裁が崩れた後、その暗殺劇の首謀者である中大兄皇子

と中臣鎌子(後の藤原鎌足)によって主導された革新

的な一連の政治を指します。

従って、大化の改新は入鹿暗殺によるクーデターを契

機に始まったと言えるわけです。そして、そのクーデ

ターが起こった理由はいままで見てきたように入鹿

の専横によって蘇我独裁に対する反発が一気に高ま

ったことが大きな原因です。しかし、クーデターが成

功し、その後の一連の改革政治、即ち律令国家体制づ

くりがある程度受け入れられた背景には、単に蘇我独

裁への反発という感情的な問題だけでなく、クーデタ

ーを是認し、あるいは改新政治を支持する勢力が育っ

ていたといいう点も見逃してはならないでしょう。

クーデター及び改新政治は前面に中大兄皇子が立ち、

中臣鎌足がそれを後ろから操るという関係によって

進められました。

中大兄皇子は父が舒明天皇で母が宝皇后、つまり皇極

天皇です。鎌子はこの血統的に申し分のない若手の皇

子を擁して蘇我氏打倒を成就し、一気に要路を登りつ

めて自分が権力者になろうと考えたのでした。

その中臣鎌子が味方につけたのは、いわば聖徳太子に

よって育てられた人びとでした。即ち、山背大兄皇子

の事件が起きた前後、聖徳太子が在世中に留学生・留

学僧として隋に派遣していた諸豪族の有能な子弟・僧

侶などが、勉学、修行を終えてやっと帰国してきたの

です。隋の新しい国家体制を直接学び取ってきたこれ

らの新進気鋭の若手の留学生・留学僧たちは、蘇我氏

の横暴を見て憤慨しました。鎌子は蘇我氏打倒のため、

それらの勢力を味方につけるとともに自分たちの首

領と仰ぐ人物とすべく中大兄皇子を説得したのです。

 

入鹿暗殺と蘇我宗家の滅亡

中臣鎌子は、さらに蘇我一族で入鹿の従兄弟にあたる

倉山田石川麻呂も味方につけて蘇我氏の動向を探ら

せ、入鹿誅伐(ちゅうばつ)の機をうかがいました。倉山田石川麻

呂はもともと入鹿との仲が悪く、蘇我氏の傍系の有力

者であったことから、鎌子としてし蘇我氏の分裂ほ図

る意味からも是非とも味方につけようとしたのです。

そのため、倉山田石川麻呂の(むすめ)越智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇

子の妃に入れて関係を蜜にするなどの工作も行った

のでした。

こうして用意周到に蘇我氏打倒の準備が進められ、遂

に皇極天皇の四年、645年、六月十二日、クーデター

が決行されるにいたねのです。

その日、三韓の使者が貢物を奉る儀式が大極殿におい

て行われ、入鹿もそれに出席しました。前もってその

情報を得ていた中臣鎌子と中大兄皇子は柱の陰に隠

れて、倉山田石川麻呂の上奏文奏上を合図に一気に入

鹿に斬りかかる手筈を整えました。しかし、いざその

段になると、剛毅果断と言われ倉山田石川麻呂もさす

がに奏上の声が震え、刺客として中大兄皇子らととも

に待機していた佐伯子麻呂らも緊張のあまり体が動

かないという有様でした。

入鹿が不審に思い、倉山田石川麻呂に「なぜそのよう

に震えておられるのか」と問い、倉山田石川麻呂が「天

皇が近くにおられるので恐れ多くて汗が流れます」と

応える、上表文は既に終わりに近く、未だ子麻呂らは

入鹿を恐れて動けません。

そこで、もはや猶予なしとみた中大兄皇子は、「やあ」

というかけ声もろとも先頭に立って入鹿に斬りかか

りました。続いて子麻呂らも斬りかかり、深手を負っ

た入鹿は皇極天皇に救いを求めましたが、中大兄皇子

の「入鹿は自らこの国の大王たらんとする反逆者で

す」という言葉に、天皇は何も応えず神殿の中へ入っ

てしまわれ、入鹿はその直後とどめを刺されたのです。

入鹿暗殺に成功した中大兄皇子らは即座に法興寺に

立てこもり、蘇我氏との決戦に備えました。

しかし、入鹿の屍を届けられた蝦夷は兵を集めて対抗

しようとしたのですが、鎌子は用意周到な根回しをし

ており、多くの人びとが中大兄皇子の下に参陣してき

たため、決戦に及ぶまでもなかったのです。

翌日、思ったように兵を集められず、協力者も少ない

ことを知った蝦夷は、もはや抵抗が無意味であること

を知り、屋敷に火を放って自害したのです。こうして、

さしもの権勢を誇ってきた蘇我宗家も、ここに中央政

界からその姿を消したのでした。

 

註 蘇我倉山田石川麻呂

  ?--649年、大化五年、蘇我石川麻呂ともいう。蘇我馬子の孫。入鹿の従兄弟。蘇我一門の内部矛盾から本宗家の蝦夷・入鹿親子から離反し、改新政府の右大臣に任用された。649年改新政府内の権力闘争から粛清された。

  三韓

  日本書紀では「みつのからくに」と読み、高句麗、百済、新羅を当てる。

 

大氏族の台頭と失脚

台頭期の族長

同年代

失脚時、原因

同年代

期間

葛城

大臣

履中期

円大臣

428

安康期

円大臣(眉輪王変)

456

29年間

平群

大臣

安康期

真鳥大臣

456

武烈朝

真鳥・鮪(誅伐)

498

43年間

使主

安康期

根使主

454

皇后の押木珠縵(横領)

470

17年間

物部

大連

継体期

物部?

鹿火

507

守屋(蘇我馬子に討伐される)

587

81年間

大伴

大連

雄略期

大伴室屋

456

金村(百済の失政のため失脚)

540

85年間

蘇我

大臣

宣化期

蘇我稲目

536

蝦夷・入鹿(中大兄らに誅伐)

645

110年間

 

大化改新の始まり

クーデター成功の翌十四日、中大兄皇子らは直ちに臨

時政権樹立、そして政局収拾へと動きました。

まず、皇位継承の問題です。

その日、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろ

うとしました。

しかし、中大兄皇子は中臣鎌子の「いまはまだ皇位に

つかれるべきではありません。年長である叔父の軽皇(かるのみ)

()(父は茅渟王、母は吉備王、皇極天皇の同母弟)や兄

古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)にひとまず皇位についてもらった方

がよいでしょう」という言に従い、軽皇子を勧めたの

です。

処が軽皇子は「古人大兄皇子は舒明天皇の御子であり、

また年長でもあれば、私などより古大兄皇子が皇位に

つくべきです」と固く辞退したのでした。そこで、古

人大兄皇子に皇位継承を打診したのですが、古人大兄

皇子が出家すると言って辞退したため、結局、軽皇子

が即位させられたのでした。この軽皇子が孝徳天皇で

す。

天皇が決まると、次に朝廷内の人事です。中大兄皇子

は皇太子として天皇の補佐役、倉山田石川麻呂が右大

臣、阿倍内麻呂が左大臣、中臣鎌子は内臣に就いて、

天皇を含めて五人を最高首脳としてクーデター後の

政局収拾にあたることになりました。然し、このうち

中臣鎌子が一番位が低いわけですが、実際は中大兄皇

子の陰で黒幕的存在として隠然たる実力を持ったの

です。

こうして支配体制が整えられ、次にいよいよ大化の改

新の基本政策である大化の改新の(みことのり)が発せられる

ことになるのです。

 

註 古人大兄皇子

  ?--645年、大化元年、異母弟に天智天皇(中大兄皇子)・天武天皇がいる。蘇我氏との関係が強く、中大兄皇子と対立的立場にあり、大化の改新の際、皇位を辞退し出家して吉野山に入ったが謀反を謀った疑いで殺された。

 

  右大臣

  大化改新に始まる律令制の官。二位相当官。太政大臣・左大臣に次ぐ地位で、以上を三公と言う。左大臣と同じく、天皇を補佐し大政を行う。

 

  左大臣

    二位相当の官。三公の一。645年、大化元年、阿倍内麻呂が任ぜられたのが最初で、右大臣と並んで令制の官となり、幕末まで続いた。

 

  阿倍内麻呂

  ?--649年、大化五年、倉梯麻呂ともいう。645年、大化元年、孝徳天皇即位の日、左大臣となる。

 

  内臣

  古代、天皇の信任厚い側臣の任命された枢要の官。大化の改新のとき、左右大臣のほかに新設されたが常置の官ではなく、また令の官制にも入れられていない。