鳥取木鶏会 平成253月 徳永圀典 

「五力」

信・(ごん)・念・(じょう)()

第一は「信」。先ず信じなければならない。

第二は「(ごん)」。努力、務めること。

第三は「念」。我々がいろいろ意思する、そこから正念が生まれる。念とは、瞬時も忘れることなくという意味。そうして、ふらふらしない。これが「(じょう)」。定-決定によって初めて本当の智慧、即ち最後の「慧力(えりき)」が生じる。これを五力と言う 

人物

 いずれの国家も興亡は民族のエネルギー・活力、それを体現する人物の有無によって決まる。しからば、そういう新しい時代を創造するような人物はどうして生まれるかと言うと、これは知識の学問や技術の学問からは生まれない。やはり智慧の学問、徳の学問、そういう教育の中から出てくるのである。 

静以て身を修め、倹以て徳を養う

静が元で、静から動が発する。静が根本的であり、我々は身を修めるのに静を以でする。そして濫費しないと云うこと、つまり統一・統括する、内に蓄えること、これを倹と言う。人間は余り欲望享楽をほしいままにしたら、生命のエネルギー、精神エネルギーが駄目になる。徳が損われる。これを敗徳、徳を敗るという。人間が修養するのには「静以て身を修め、倹以て徳を養う」ということが大事だ。

常と変  佐藤一斎「言志録」より

 気運には(じょう)(へん)有り。(じょう)は是れ変の(ぜん)にして痕迹を見ず。故に之を(じょう)と謂う。変は是れ漸の極にして、痕迹を見る。故に之を変と謂う。春秋の如きは是れ常、夏冬は是れ変。其の漸と極とを以てなり。人事の常変も亦気運の常変に係れり。故に変革の時に当れば、天人(ひと)しく変ず。大賢の世に出ずる有れば、必ず又大奸の世に出ずる有り。其の変を以てなり。常漸(じょうぜん)の時は、則ち人に於ても亦大賢奸無し

岫雲斎解説

運気には常と変がある。常は少しづつの変化であるから痕跡を見ない。それで常という。変は少しづつの変化が極に達したもので痕跡があり、それでこれを変という。例えば、春と秋は徐々に変化するので常、夏と冬は変化が極に達するものであり変である。人事に関しても、この気運の常変は同じである。だから大きな変化のある時には天も人も共に変化する。大賢人が世に出ることがあり、また大悪人が出現することもある。これは即ち変である。いつとは無く変化して行く時には、人の世にも大賢も大奸も現れない。

気骨

骨に気を載せると「気骨」。気骨がない人は、どうにもならない。気骨のない人間と言うのは、平和で機械的なことをやらかすことは出来ますが、一朝事が起きて、誰か責任を以てやらなければならない非常時には、だらしなく役に立たないものです。骨力とか気骨は人間の根本的要素でも人格の第一次的要素であります。