平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」5平成20年3月

安岡正篤先生ご存命中の膨大な講義は、人間的営為、大自然の造化、和漢洋の歴史等の深い思索と造詣があり、
そしてそれらの中の安岡哲学は、時代を越えたものである。本講義は35年前のものであるが恰も現在の警告の如くに見える。
平成の大乱世となった今、安岡正篤先生警世の真言を考えることは現代的である。
平成19年12月
                            徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

平成20年3月

 1日 一物(いちぶつ)を多くすれば(ここ)一事(いちじ)を多くす 人間には、功名心と同時に、不快でうるさいというようなことを回避する本能があります。いわんや、政治になりますと、なるべく一利を(おこ)すことによって功績をあげたい、人気を集めたい。一害を除くというようなことは、とかく抵抗があったり、副作用があったり、それに第一余り目立ちません。とにかく、一事を減ずるということはやり難い。 行政整理というような事でもそうです。冗員の整理淘汰が必要であっても、中々これが出来ません。まして人気というものを考えますと、何か大向こうをあっと言わせるような大きな事件を取り上げたいものですが、それは大抵逆になる。「一物(いちぶつ)を多くすれば(ここ)一事(いちじ)を多くす」で、それからそれへと煩瑣になり、事を多くするとそれだけ累になってゆくものです。
 2日 ゴルフ思案 この夏、私どもがやりました全国師道研修会にーこれは毎年日光で開催しております。出席された同地の有力者が、この人も御他聞に洩れずゴルフをやっておられるそうですが、しみじみ、こういう話をしておられました。

「今、私は自分の好きなゴルフというものについて非常に考えさせられておる。栃木県には現在ゴルフ場が十八もあって、正直言って多すぎるくらいです。ところが県庁に提出されているゴルフ場の許可を求める件数は八十を超え然もその殆どが許可になる見込みであると申します。 

 3日 日本列島壊造(かいぞう) こうなると、県内の山林は破壊されてしまう。ゴルフ場は芝を植えるから、緑化に協力することではないかと陳弁しますが、その為に丘や山を崩したり、木を切ったりしなければなりません。そもそも、そんなゴルフ場を造ってゴルフをする必要、余裕が何処にあるのか。理性的に考えると、大変不思議なことです。然も これは栃木県だけの問題ではなくて、恐らく全国至る所で起こっている現象のように思われます。公害問題の喧しい時、これはとんでもない実例の一つであって、真に憂慮にたえません」。ということを訴えておりましたが、こういうことが至る所っております。これは政治、経済等すべてがそうでありまして、殊に日本のような国では深刻な問題と申さねばなりません。
 4日 君子の利害 君子亦利害を説く。
利害は義理に(もと)づく。小人が亦義理を説く。義理は利害に由る。同じく言う。真の功名は道徳便(すなわ)ち是なり。真の利害は義理便ち是なり
 
どうかすると、君子―人格者、民衆の指導者、立派な教養ある人、地位、名誉ある人、こういう人は利害などというものは説かないように誤解する者がある。人間には利害というものが当然あるもので、従って君子も利害を説く。然し、君子の説く利害というものは、義理が根本である。つまり道理や、筋道にかなっているということが条件であります。
 5日 義理 義とは、いかになすべきかという実践の法則であり、理とはその理由であります。義理という言葉は、日常用語になっておりまして、義理がたたんとか、義理が悪いとかいいますが、これは厳しい道徳的用語であります。 又、こうも言っております。君子の言う本当の功名・手柄・或は名誉等は誰でもが感心するものであるが、これは人間として、如何にあるべきかという道徳である。また人間が当然、実践するにあたって従わなければならない理法・法則、これが義理である。
 6日 本当の利益 つまり本当の利益というものは義理にかなうものでなければならぬと言うことです。これは疑うことの出来ない真実であります。処が、世の中の利害というものは大抵義理に反して打算に走る。これが問題であります。最近、このままで行くと人間は駄目になるというような議論や著述が流行しておりまして、少し大きな本屋に参りますと、公害から始まって環境問題等の書物が、それだけで専門の書 店が一つ出来るぐらいに沢山出版されております。
また早くもこれに対する厳しい批判も出ております。いずれにしても、こういうことは、各人の心掛けを直さぬ限り、いくら公害論や処理論をやってもどうにもなるものではありません。矢張りそういう識見と、これを実践する勇気を持った優れた人々が、夫々の位に立って、賢者を尊び、よく出来る人間を使ってゆくということより他に方法はありません。
 7日 勇気 有為(うい)にして而して無為(むい)なる之を敬と()
無為にして而して有為なる之を誠と謂ふ
今、前項の終わりの所で、議論よりも何よりも先ず実践する勇気を持った優れた人々が、その位におることが必要であると申しましたが、それは今日の政府を見てもよく分かります。内閣の各大臣もそうですが、とりわけ首相、総理と言われる人はよほど勇気が無ければ何も出来ません。
 8日 勇気の出処は その勇気は何処から出るかというと、これは利害打算からは出ない。やはり人間としての敬虔な精神から出るものです。敬というものは、分散した精神ではなくて、道とか理想に対した時に、全精神から生ずるものです。

これを孟子は「敬は勇を生じ、勇は義に因って生ず」と言うております。我らいかになすべきかという正しい良心が義でありますから、それによって始めて勇というものが出るので、利害打算などから決して勇は出るものではありません。 

 9日 敬とは 一斎先生は、その敬を説いて「有為にして無為」、きびきびと大事な問題を処理してゆくと共に、やましいこと、道でないこと、そういう本末を顛倒したようなことはしない。これが敬だと言うのです。有為とは道より言えば無為であるが、現実の社会生活から言うと有為であります。 利害打算、けちな欲望、或は手練手管というようなものを超越する。これが無為である。そこで始めて事をきびきびと処理することが出来るから有為であります。つまり無為にして有為なのが誠であると言うことになる。その有為は結局無為に基づきますから、これは敬であります。従って敬と誠とは一体のものであるということになるわけです。
10日 人と才能 「君子にして不才(ふさい)無能なる者(これ)有り。猶以て社稷(しゃしょく)(しづ)むべし。小人(しょうじん)にして多才多芸なる者之有り。(ただ)以て人の国を乱すに足る」 人柄が大変よくて立派であるが、才能が無く、仕事がきびきびと出来ない人があります。たとえ不才(ふさい)無能であっても、君子というものは、そんな才能の有無にかかわらず、国家・社会を(しず)める、安定させるだけの功徳(くどく)があります。 
11日 有為(うい)有能(ゆうのう)が寧ろ害

本当に出来た人であれば、多少仕事が出来なくとも、その人の存在だけで重量、即ち安定性があります。上に立つ者が、小うるさくて、下にまかさず自分でやってしまうと、下に居る者はまことに厄介で、そういう人に限って人を皮肉に見たり、軽んじたりしがちであります。こういう人は一部局というような地位では有為有能でありますが、

多くの人間を活用してゆかなければならぬ立場に立ちますと、この有為有能が寧ろ害になることがよくあります。智恵才覚と言ったものは余り外へ出さない方がよいということは、言うまでもありません。人間的に立派な人は、才能というような点から批評すると、いささかと鈍であっても、こういう人はその社会なり、会社なりを落ち着かせる力があります。

12日 小人(しょうじん)の多才多芸 これに反して「小人にして多才多芸なる者之あり」。人間はつまらぬ、けちな野郎だけれども、中々才もあれば、芸もある、という人がおる。これは「君子にして不才無能なる者」と好い対照であります。 小人で多才多芸の者は、とかく国を乱す。こういう者は、小さな智慧だの才だのというものはあるが、人間が出来ていないので、世を乱します。その極端なものが煽動家であります。現在は、こういう人にして多才多芸なる者が社会の各層に多くおります。 
13日 (じん)(げん)を受けると受けざると ()く人の言を受くる者にして、(のち)一言を与ふべし。人の言を受けざる者と言うは、(ただ)(もっ)(とが)を招く、益無きなり」。 (参考)()(いわ)く、(とも)に言うべくして而して之を言はざるは人を失ふ。與に言ふべからざるして而して之を言うは言を失す。知者は人を失はず、亦言を失はず。(論語・衛霊公篇)
14日 (じん)(げん)を受けると受けざると
2

よく人の言うことを受け容れる者であって、始めて一言を与えることが出来る。つまり言うて聞かせることができる、教えることが出来る。

人の言を受け容れることの出来ない人間と話をすることは、無駄であるばかりでなく、かえってその為に罪をつくる。この言葉は、ちょうど論語の衛霊公篇にあります。
15日 本当の知者 その人間と一緒になって大いに議論する。然し何も言わないでおると、あれは駄目だと言ってその人から見放される。

反対に、とんでもない人に喋ってしまった為に、他に漏れたり、或はとんだ結果を惹起(じゃっき)する。ということはよくあることである。本当の知者というものは、人を見損なわない、と同時にまた無駄な言葉を使わないものである。その通りであります。 

16日 意趣(いしゅ)というもの

「此の学・意趣を見ずんば、風月を詠題(えいだい)するも亦俗事なり。(いやし)くも、意趣を見れば、料理(ざん)(こく)も亦典雅(てんが)なり」。

学問をしても、人間が垢抜けせず、俗物であると、たとえ風流というものを取り上げても、それは俗事になります。その人にどこか精神的な趣があると、たとえ話が食い物や金のことであっても、どこか垢抜けております。
17日 風流と俗事

昨今、茶の湯、活け花などいうものが大変流行しております。これを見ておると、時には、虚栄、奢侈に過ぎないようなところがありますが、然し、茶の湯、活け花というと風流と解釈されます。

食い物の話や金銭の話となりますと、品がないとされます。然し、人間が垢抜けして、心がけがよければ、如何なる俗事でも風流になるし、心がけ、人物次第で、どんな風流でも俗事になります。
18日 為政者といかもの 「寛にして(じゅう)ならず、(めい)にして(さつ)(悪い意味で、ほじくる)せず、簡にして(そ)ならず、()にして(ぼう)ならず、此の四者(よんしゃ)を能くして以て政に従ふべし。 (よう)(ぼう)の人は高きに似たり、苛察(かさつ)の人は明に似たり、円熟の人は(たつ)に似たり、軽佻(けいちょう)の人は(びん)に似たり、懦弱(だじゃく)の人は(かん)に似たり、拘泥(こうでい)の人は(こう)に似たり、皆似て非なり」
19日 為政者といかもの2 上に立って人を指導し使ってゆくことは難しい。そこで先ず四つのことが出来て始めて上に立って政治を取ることができます。第一は、ゆるやかであるが締めくくりがある。 次に、よく分かっておりながら、うがち過ぎない、立ち入らない。第三は、簡潔ではあるけれども、粗雑でない。最後は、きびきびやるけれども、荒々しくない。以上の四つのことが出来て、始めて政治を取ることが出来る。
20日 為政者といかもの2 上に立って人を指導し使ってゆくことは難しい。そこで先ず四つのことが出来て始めて上に立って政治を取ることができます。第一は、ゆるやかであるが締めくくりがある。 次に、よく分かっておりながら、うがち過ぎない、立ち入らない。第三は、簡潔ではあるけれども、粗雑でない。最後は、きびきびやるけれども、荒々しくない。以上の四つのことが出来て、始めて政治を取ることが出来る。
21日 人間通 私達の周辺を見渡しますと、このような人が沢山おりますが、これを見分けることは困難であります。政治というものは、要するに人間をどうするかということに外なりません。人を用いること、人を治めること等すべて政治の内容は、突き詰めると人間であります。 然し、人間というものは、他の動物と違って複雑で中々難しい。そこで人の上に立つ者、真に事をなす者は、人間通でなければなりません。と言うて、その人間通に悪ずれしてもいけません。誠でなければならぬので、非常に難しいのであります。
22日 女の四十と男の五十@ 「婦人の(よわい)四十、亦一生変化の時候(じこう)()す。三十前後(なお)含羞(がんしゅう)。且多くは(しゅう)()の上に在る有り。四十に至る(ころ)(えん)()漸く()せ、(やや)()人事(じんじ)を料理す。   ()って或は賢婦の称を得ること或は此の時候に在り。然れども又其の漸く含羞を忘れ、修飾する所無きを以て、或は機智を挟み、淫妬(いんと)(ほしいまま)にし、(おおい)に婦徳を失うも亦此の時候に在り。其の一成(いっせい)一敗(いっぱい)(かん)猶男子五十の時候の如し。予め之が(ぼう)を為すを知らざるべけんや。
23日 女の四十と男の五十A 一斎先生の婦人問題に対する卓見であります。女の四十という年齢は、生理的にも心理的にも、一つの変化の時期であります。三十前後までは、女は女らしい恥じらいというものを持っております。これは特に女にとって美徳であります。

大体、人間は、敬―尊敬と、()()―恥を知る、即ち、敬することを知り、恥ずることを知るということから、動物以上になるわけであります。人間と動物のボーダーラインは「敬と恥」であります。 

24日 女の四十と男の五十B 就中、恥づるということは、男にとっても元より本質的な道義・道徳心ですけれども、特に女には大事な徳であります。男は元来陽性ですから、どちらかというと、外へ伸びる方ですが、女は陰性ですから、内に含む、即ち内面的・内省的であることが本質です。

そこから自ら生ずるのは恥を知る、恥ぢらうということで、それが体に反映するのが「羞」という字です。恥はどちらかというと心理的でありますが、羞は体に表現された恥じらいを申します。そこで含羞と申しまして、含という字が極めて大切であります。然し、あまり露骨に出ると、また少し問題があります。 

25日 女の四十と男の五十.C 本文に戻りまして三十前後というと、まだ年が若いから、家には舅も姑もおるが、四十ぐらいになると、家事に追われて化粧もせず、なのふりを余り構わなくなる。そして世間のつきあいや、家事について、きびきびとやるようになるから、あれはよく出来た女だ、良い奥さんだと云われる。 これは良い一面であります。然し別の面では、横着になり、ずうずうしくなって、なりふり構わぬようになる。
そうなると地金が出て、よく気が利き、頭が働くものですから、遂には嫉妬心が丸出しとなって、失敗をも招くことになる、その通りですね。
26日 女の四十と男の五十24D 折角苦労して、妻の座或は夫の座が安定し、人間も出来たという年齢が、或は成功であるのか、失敗であるのか分かれる年齢が、女子は四十過ぎ、男子は五十過ぎであります。男子はその頃から大体自信も出来、経験が積まれるようになって立派になる人間と、俗物になる人間とに分かれてくる。これは男女とも同様でありますが、男子の方が女子よりも少し遅れます。 兎に角、世の中には、色々と難しい問題もありますが、結局、人間が一番難しい。そして人間をどう治めるか、どう養うか、ということは結局自分をどう養うかということでありまして、誠に興味津々たるものがあります。一斎先生はこういう人でありますから、よく弟子を教え、諸大名を指導し、また幕府の治績にも大変手柄のあった、文字通り大学者であり同時に大教育家であり、立派な政治家でもありました。 
27日 活学 こういう人間学が、あらゆる学問の中でも一番根本であって、政策だの、政論だの、というものはこれは手段・方法にすぎません。例えば、公害問題を取り上げてみましても、議論は幾らでも出来るが、それを実際にどうするかということに

なりますと、やはり人間の問題、人物の問題でありまして、やはり人間に帰着致します。これが人間にとって一番難しいところであり、これからまた道も開けて貴いものであります。所謂活学、活人であります。
  (
昭和481030)

3月はこれにて終了。
本稿は4月1日から始めます。