ある高僧のことなど 徳永圀典
昭和50年代のある夏の午後、私は学兄・片岡某病院理事長のお誘いを受けて同行し奈良東大寺は上之坊の仏堂にいる。初めて面会した和尚は同氏の親しい友人に見える。板の間の御堂に和尚は褌一枚、何とも言えぬ清涼感ある風采風姿、我々は円座に背広の正装だ。この風景、なかなか佳いものだ、日本の寺の夏には「涼」がある。
三人が四方山話の雑談に興じた後、和尚が、徳永さんとやら、一枚揮毫して進ぜようかと言い、お堂の板敷きの上に畳半分くらいの大きさの和紙を広げた。何を書いて欲しいかと申される。
うーんと、一呼吸おいて申した、「文質彬々」と。私の座右銘だ、和尚は“得たり”の顔つきである。和尚は、褌一枚のまま中腰となり墨痕淋漓、一気に書き上げた。申すまでもなく『論語』雍也篇、子曰「質
勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子」が出典である。この書は京都で表装し本邸の書斎に掲額している。
平岡定海氏揮毫
和尚、ついでだ、まだあるかと申される。これも直ちに返答する、「心無?礙 無?礙故 無有恐怖遠離一切」と。和尚、「勉強しとるのう」。
申すまでもなく般若心経の一節、小生が心経の核心的真言と思っているものだ。この書はまだそのまま蔵の中にしまったままだ。
この和尚こと、故平岡定海師、当時は東大寺上之坊ご住職、その後、三月堂、勧学院々長を経て第213世東大寺別当、華厳宗管長となられた名僧である。その後も交流を続けたことは申すまでもない。極めて洒脱、闊達なお人柄、飾り気なく気持ちの良い東大卒の学者僧侶であった。かかる人物は少なくなった、88歳でご逝去、ご冥福をお祈り申し上げる。
本邸の書斎で寛ぐ筆者
さて、我が学兄・片岡氏は安岡正篤先生の高弟で病院創設者。安岡先生は大阪順慶町の素封家・堀田家四男、兄上は高野山真言宗大本山管長、金剛峯寺第四〇三世座主堀田真快氏。安岡先生は河内の四条畷中学ご卒業、片岡氏は東大阪生、両氏は深いご縁があった。徳永さん、今度は高野山に行こうか、真快師を紹介するよと言われていたがその機会は遂に巡り来ることはなかった、惜しいことをした。安岡先生は最晩年、高野山の真快管長の所に一時的に身を寄せられ、急変された折、片岡氏が安岡先生を高野山から住友病院にお運びし身の回りのお世話をされた。片岡氏の従兄弟・塩爺こと塩川正十郎氏も伊勢神宮世直し祈願とか安岡先生の講義に時折参加された。官房長官だった伊勢の藤波孝生氏も同様に愚生と机を並べたことがあった、真面目なお方で政治的には惜しいことだったと今尚忘れがたい。片岡氏ご夫妻には愚娘の結婚式でご祝詞を賜った。ご夫妻を紅葉の大山や宍道湖界隈をご案内し、我が本邸にお立ち寄り願い母と会食もして頂いた。奥様ご生家である鹿児島にも共に旅をしたこともあった、何れも住銀退職後のことである。
支店時代、教養講座を月一回催して氏の講話を拝聴したが氏は支店でも人気の高いお方であった。融資先の不良債権処理やらで顔色の冴えないこともあったのであろう。徳永さん!「山より大きいイノシシは出てこぬ」、「この世のことはこの世で解決する」とか豪快な気性のお方で先生に会うと元気が出たものだ。先生の病院を訪問すると年々進化してやまない設備を隅々まで案内されとても嬉しいご様子であった。病床は500床、患者20人くらいの集団が運動場を歩行するタイムに遭遇すると、患者が氏に向かい「先生!先生!」と、恰も慈父を慕うように異口同音に話しかける、その親近感、親和ある風景は忘れ難い。こんな病院がどこにあろうか、氏の人物の大きさと人柄を最高に示すものだった。運動場の大きなツツジの群れを指差して、徳永さんなあ、これは戦後、病院開設時、近くの環状道路のツツジを摘んで挿し木したんでっせぇ、と包み隠さずお話しされる理事長に大笑いしつつも感動した。氏の回忌法要に参加した折、ご子息の現理事長に案内され近年全面新築の病院視察をした。愚生在職当時から無借入、今回新築も然り、片岡氏に会いまみ得た思いがこみ上げた。先生の仏前に捧げた詩がある。
片岡先生追慕の詩
今猶、老師を敬慕し道縁あい集う鳥取木鶏会
今秋、早や四半世紀に喃々とす。
老師に導かれし活学を求め、師の含蓄を覚る、
その勝縁、道縁に篤きものあり
老師の供恩 懐うこと深し。
現今日本、末世の風潮を慨嘆するも
我ら青年の気概充満す、
ここに一燈を再び点火せん 照隅の行、
草莽の同志 猶興の心 なお固し。
平成20年12月5日 徳永圀典