安岡正篤先生「易と人生哲学」B 平成19年3月度

       陰陽五行説
平19年3月

 1日 陰陽五行

また、この易学に陰陽五行の思想が取り入れられて内容の一つをなし内容の本質的なものになっております。そこで、この陰陽五行が分かりませんと、また途中で迷ってしまうことがあります。元来、陰陽五行は戦国時代から漢の初めにかけて、その原理と思想、理論が発達した

のであります。専門的には、色々の議論もありますが、どちらかと申しますと純理論より、何百年あるいは何千年という長い生活の実習から帰納された統計学的理論と考えますと、純粋科学とか哲学というものとは違った意味、価値、確実性があります。
 2日

つまり陰陽五行なんて云うものは古代のまことに非科学的な思想、理論あるいは概念であるというふうに簡単に片付けてしまっては非実際的でありまして、大変な年期を入れた上、想像もつかんような多くの材料を集めて出来た統計学的結論通論

であると考えれば一番妥当でありましょう。素材の準備が足りない浅薄な科学的結論などと比較にならぬ現実性、真実性があるわけでありますから、その点をはっきりと識別しておかなければなりません。
 3日

特に陰陽の思想というものは、この頃非常に科学的―サイエンティフィック scientificにも応用されるように全く変わってまいりました。五行というほうの考え方は、まだ科学者方面からは大いに反論がありますが、陰

陽相対(待)性理論というものは、一つの動かすべからざる理論になっております。そしてこれは極めて現実的なものであります。陰陽というものを正しく理解せず、うろ覚え、不鮮明でありますと混乱してしまいます。
 4日 陰陽五行説概説 そこでこれを概説致しますと、天地、人間の創造変化―造化に本質的な相対、相待つー相対立するとともに相関連する、形の上では相対して同時に相待つ。 これを相対(待)と云って、相対(待)性理論というものがあります。その根源は「陰」であります。
 5日 陰が根本

相対性理論
これを草木を例にとって考えるとよくわかります。木は根・幹・枝・葉・花とだんだん分かれ分かれて繁茂していく、これが発動分化の力であります。これが逆になりますと花・葉・枝・幹・根と統一し含蓄されます。つまりこの発動分化の力と統一含蓄の二つが相待つ相対性理論であります。 その統一し含蓄する力、これが「陰」で根本であります。日本の国学随神(かんながら)の道では、これを産霊と申しまして、これは非常に神秘な創造の働きでありますから、神道、随神(かんながら)の道は、この産霊の信仰であり理論であります。これがつまり「陰」であります。
 6日 それに対して分化発展していく働き、これが陽でありますから、この二つが相対立しつつ相まって、ここに生育化育が行われ、万物は大きく育つのであります。これが陰陽、相対()性理論であります。

そこで「陽」は「陰」に待ちませんと、つまりただ分化発展していくだけですと、分かれ分かれていきますから、遂には、分からなくなるのであります。 

 7日 分からぬは易学の言葉 この「分からぬ」という言葉は面白い言葉でありまして、もともと易学の言葉です。普通は頭の問題と思っておりますが、本当は創造―クリエーションの問題で、余り分派すると力がなくなり余り茂りすぎると生命力 創造力がなくなりますから、わからなくなる。
そこでこれを結ばなければなりません。枝から幹に、幹から根にという具合に結ばなければなりません。これが創造の理論であって、易の陰陽の理論でもあります。
 8日 陰と陽の意味 そこで「陰」は、籠もる、結ぶという意味があり、「陽」は、表立つ、分かれる、従って繁栄していくが、やがてこれは生命の真理から離れる。 余り分かれ分かれて枝葉にはしりすぎると生命成長の働きがとまる。つまり創造、成長の道からいうと嘘、偽になります。そこで陽という字には表という意味と、偽るという意味があります。
 9日 私達の身体もそうでありまして、飲食が余り陽性になると、真理から離れて偽るようになる。だから暴飲暴食しますと、生理に反する偽でありますから病気になります。

また余り才だの、弁だのというものがありますと、よほどの陰の修行、つまり反省、修養をしませんと偽になり過つようになります。 

10日 徳とは
「陰」
人格では、この陰陽の陰、即ち成長の原動力、結びの力、これを「徳」と申します。 また分かれて枝葉となり、花実となる陽の力、これを才幹、知能と申します。
11日 人格 そして、この徳性と才幹、知能が相まって、ここに人格というものができあがるわけであります。 われわれの欲望というものは、いうまでもなくこれは陽性です。それに対する内省、反省というものは陰であります。
12日 欲望と内省 欲望がなければ活動がないわけですから、欲望は盛んでなければなりませんが、盛んであればあるほど内省というものが強く要求されます。 内省のない欲望は邪欲であります。そして内省という陰の働きは、省の字があらわしておりますように、(かえり)みるという意味と、(はぶ)くという意味があります。
13日 半分落としにしない省 内省すれば必ずよけいなものを省き、陽の整理を行い陰の結ぶ力を充実いたします。人間の存在や活動は省の一字に帰するとも言われる所以であります。論語に「吾、日に三たびーたびたびという意味―吾身を省みる。とあります。孔子も、この省ということを論語の冒頭にかかげ て戒めております。これは人間でいえば生理、自然でいえば創造の原理原則であります。この省の字は、「かえりみ」、「はぶく」と読み、解釈しなければなりません。「かえりみる」だけでは半分落としております。また「はぶく」というだけでも半分落としております。
14日 省こそ要. 人間が団体生活、群衆生活をするようになって、高度に発達したのが国家でありますが、人民というのは多くの欲望を持っておりますのでこれを放任しておくと収拾がつかなくなります。 そこで、どうしてもこれを省みて、下らぬことを省く必要があります。これに当たるのが役人であり指導者であります。会社で申しますと経営者であります。そこで国を代表する政府官庁に省という字をつけたわけであります。
15日 省の反対は冗 中国の歴史に明確にそれが記録されております。わが国は大化の改新当時から中国の文明を学んで、政府官庁に省の字をつけて、大蔵省、外務省、文部省としたのであります。だから役人がよく省み省いていけば、国民生活は非常に健全となりましょう。 これに反してよけいな官庁を沢山作って、多くの役人をかかえ、くだらぬ雑務を煩雑にしますと、省の反対の(じょう)であります。役所というところは省の字の通り、常に省みて省かなければなりません。これは役人の真理、哲学、道徳の第一条と申してよろしい。
16日 宋名臣言行録 この間亡くなられた参議院議員の迫水久常氏がまだ大蔵省におられた時に、私に話をしてくれと云われるので大蔵省に行って、にこの省の字を色々と歴史の実例をあげて話したことがあります。勿論戦前のことであっ ても迫水氏は当時大蔵省の新人の代表でありました。明治天皇が御愛読になった書物に「宋名臣言行録」という本があります。いまでも明治記念館に大切に保存してありますが天皇のお手垢がついております。
17日 政治の要諦 これは宋代の名宰相の列伝と言ってもよい本で、朱子の作らせたものであります。陛下は非常に御愛読になって、ともすればこの「宋名臣言行録」の中からよくお話が出るので伊藤博文などは時々陛下の御前に出なければなりませんから陛下の御前に出るときは、よく前の日にこの「宋名臣言行録」を読んで勉強したということであります。 その中に李と云って宰相の典型ともいうべき人物があります。明治天皇は大変この李に共鳴感動さされたようであります。この大宰相李の言葉に「政治の秘訣は、浮薄新進、事を好むの徒を用いないことだ」というのがありまとて、陛下はこの言葉に特に共鳴されたようであります。
18日 陰陽相対理論がわかると 伊藤博文はそのことを述懐して、若い人達に向かって「俺達も考えてみると若い時はこれだったのだ、君達はもっと修養して、おっとりして優れた人間にならなければならない」と後進を戒められたそうであります。この話を大蔵省の若い人達にしたのでありますが、話が終わって控え室におりますと、迫水氏がはいってこられて「先生、今日のお話は大変こたえました。 あの浮薄新進好事の徒というのは私のような人間ですね」と云って頭をかいておられました。その後、迫水氏は思い出話に「安岡先生は、俺達が年若く革新的な考え方で行動しておった時に、こういう話をして戒めて下さった。」とよく述懐されたそうです。こういう問題は、陰陽相対(待)性理論がわかりますと、容易に理解することが出来ましょう。
19日 枝葉の剪定 嘗て植木屋の話をしたことがありますが、植木屋はこの陰陽の理法を最も端的に修めて始終実行しております。枝葉を茂らしておくと日がささなくなり、風も通らなくなくなり、そうなると虫がつき枝葉が蒸れて生長がとまります。 そこで植木屋は始終鋏をもってチョキチョキと枝葉を刈っております。花の栽培もそうで、美しいからといってむやみに花を咲かせますと必ず次の年は駄目であります。花もやはりうまく整理しなければなりません。
20日 果断・果決 最も大事なのは実であります。実を多くならせますと、一番木が弱ります。そこで幾ら惜しくても、金になるものでも思い切って実をまびかなくてはなりません。これを果断とか果決と言います。よい実を結ぼう、よい結果を得ようと思えば思うほど賢明、勇敢に果断、果決をやらなければなりません。 これは省の字の省くという理法に一致するわけであります。然し、これは実生活には非常に難しいことでありまして、うかうかしておると花も実も駄目になるばかりでなく、木そのものが弱り枯れたりいたします。これは生長、繁栄の原則を実に的確に表明したよく理解のできる有益な教訓であります。
21日 天地の卦
健康な人間
だから人間として欲望も才能も、そして気力も気魄もあって、然もよく反省して自己を粛清し、てきぱきと事を処理していけるというのが本当の健康な人間であります。これを易経の冒頭に「(かん)()(こん)()」という「天地の卦」を置いて、この理法を教えております。 そこでこの易学というものをただ書物の文字だけの研究にとどめないで、我々の日常生活、事業、或いは進んで国家民衆の政治生活に応用適用して学んでいきますと、実に易の教えるとところは興味津々であり、非常に適切あるいは時によると痛切で、これくらい面白い学問はありません。
22日 味わいある易学 易は学べば学ぶほど、そして年を取れば取るほどに味が出で参ります。その上この易学はあるゆる学問の本質なり根本になるもので通俗的にも無限の興味があり学術的にも計り知れない興味を持つものであります。然し、易の薀蓄になりますと、それこそ大変な問題でありますが、易を学ぶ手ほどきは十回くらいの講座でできると思います。

あとは皆さんが興味を持たれましたら、更に独学、独習も可能であります。ただ世間にある通俗の書物は、学問という立場から見ますと、よくないものが多いようです。先以って正しい原理原則をはっきり理解して頂きますと、あとは皆さん自身で易の深い途に遊んでゆくこともできましょう。
(
昭和52812日講)

第二講 昭和52年10月6日講
23日

(めい)(すう)(ちゅう)

引き続き、(めい)(すう)(ちゅう)について解説致します。第一にその根本的問題としての易というもの、これは古来民間に普及いたしまして、普及するにつれて通俗になり、言いかえれば、真実というものから、次第に浅薄、あるいは歪曲、誤解が生まれ、おそらく最も広く普及し、最も通俗に堕した学問技術の一つということになりました。そこで易の根本概念、本義というものを正しく適確に把握しておきませんと学問になりません。

本当の学問から言いますと、易というものは、これほど天人の創造教育、クリエーションというものに徹した学問は世界にも類がないのでありまして、それだけにそれが自ずから人々にもわかってもらって、何とかして易を学びたいという要求が盛んになり、これに応じて解説も多く行われたのであります。然し、対象が通俗であるほど真実から遠ざかるというような関係もあり、非常に深遠でありながら通俗的にも魅力のある不思議な思想、学問技芸となり、それだけに一般に解説は難しいものであります。
24日 (めい) 話の順序として、専門用語の中から第一に「(めい)」というものを挙げておきました。命―いのち、とも読みますが、「いのち」も「めい」の一つで本当の「命―めい」というものは、所謂「命―いのち」を含む天地創造の絶対作用、天地自然人間を通ずる創造、進化、造化などという絶対性をあらわすものであります。だから易は第一に「命―めい」の学問であるということが出来ます。人間から申しますと、生命の学、処が生命というと、この肉体に象徴される命 ―いのち、造化の働きというふうに限定されますから、生に?(りっしんべん)をつけまして「性命」という言葉があるわけです。生命でもいいのでありますが、これが心を発現させましたから性命であります。「命―めい」は人間の自由、わがままを許さない必然とか絶対とかいう意味を持っております。人間が好き嫌い、取捨選択というようなものを許さない天地自然、自然と人生を通ずる造化の働き、その絶対性を現すものが「命―めい」であります。
25日 天命 そこで「命―めい」には人間というものを超越した絶対者その象徴が天でありますから天命という言葉概念が出てまいります。その天命の中に人間の生命というものがあって、複雑極ま りない精神というもの、心というものが開けてきたというので「性命」となりまして、天命、生命、性命等、命のつく言葉が色々でき、それらを総括して「命―めい」と申します。 
26日 (すう) 命、めいはそういう絶対作用、創造進化の作用と云ってもいいのですが、その中に「数、すう」というものがあります。数というとすぐ数、かずと直覚するのですが、数、かずは確かに一つの数、すうではあるが、数 すうの全部をつくすものではありません。然し、数―かずというものは非常に霊妙なものであります。これは余り使いませんが言霊―ことだま、人間の言葉には魂がある。進んで色々の心、神秘な働きがあるのでこれを霊(魂)と言いいます。
27日 数霊 数―かずも言霊と同様に数魂―かずだまと云って、思想家、学者の中には言霊に対象して数霊と並べ非常に神秘化しておりますが、易は言霊であると同時に数霊の学問の不思議な命があり、創造、造化があるからであります。例えば、古代人の誰もが想像もできなかったコンピューターを考えますと、これは数 の発展と申しますか達成であります。処が世間では、命数というと命の数、即ち30才で死んだ、90才まで生きた、といような寿命、その数というふうに考えますが、単なる数ではなく、この数というのは、命、生命の中にある神秘な関係、因果関係をいうものであります。
28日 十如(じゅうにょ)()

仏典で申しますと、法華経の中にある十如是、百如是、千如是等は数の一つの解説であります。お坊さんは、この十如是をお葬式等で繰り返し、繰り返し読む。聞いておりますと、百如是にも千如是にもなるわけで、「(にょ)是相(ぜそう)(にょ)(ぜい)(せい)(にょ)是体(ぜいたい)(にょ)是力(ぜいりき)(にょ)是作(ぜいさ)(にょ)是因(ぜいいん)

(にょ)(ぜい)(えん)如是果(にょぜいか)(にょ)是報(ぜいほう)(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくうきょう)等」・・チーンと鐘を鳴らし、今度は「是相如(ぜそうにょ)相如(そうにょ)(ぜ゜)―」と繰り返し読んでいきます。これは現象の世界というものを観察、分析、把握したもので、まことによく解説しております。
29日 数奇(すき) つまり命という絶対造化の働きの中にある因果の関係、相対()関係を現すもので是れ数であります。更に内容に立ち入ると複雑無限の意味があります。その因果の関係、即ち原因、結果、因縁、果報の複雑な関係のうちで滅多にない関係を数奇 と言います。「あの人は数奇な運命にもてあそばれて」とか、数を「す」と読んで数奇(すき)、物をつけて(もの)数奇(ずき)となりますと一寸常識を越した因果の関係です。
30日 数奇者(すきもの)

それが更に転じて俗生活の中で垢抜けした、或いは洗練され解脱した、例えばよく普及しております茶道などで、この道を楽しむ人を数奇者などと言います。数奇というとどちらかと云

えば悪い意味に多く使うようになりましたから、そういう茶人だ、俳人だという人達の場合には、宀―うかんむりをつけて寄、という字を使うようになりました。物数奇、数奇者は皆、転化です。
31日 神秘な数 数というものは非常に神秘なものであります。そこで易は数の神秘を深く把握解明したものということができます。

コンピューターは本来の意味の数奇の一つでしょう。天文学は殆ど数の学問です。